NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

「学ぶ」より「考える」

「【正論】今の日本にもっとも欠けている『考える』ことを取り戻すには 埼玉大学名誉教授・長谷川三千子」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/column/news/170829/clm1708290009-n1.html

 「日本人は学ぶよりも考えよう」-7月26日付本欄の古田博司氏のこの提言に深い共感を覚えたのは、私一人ではなかったでしょう。今の日本にもっとも欠けているものを一つだけ挙げるとすれば、それは「考える」ということだ、と言って間違いありません。


 ≪感情論ばかり幅を利かせる昨今≫

 古田氏がご指摘のとおり、「考える」ことが専門の学者の世界においてすら「学びて思わざればすなわち罔(くら)し」と言いたくなるような論文に、お目にかかります。

 他方で「思いて学ばざればすなわち殆(あやう)し」といった論も、世の中にはたくさん出回っている。学ぶことと考えることとの調和を保って知を深めるというのは、なかなか難しいことであって、だからこそ孔子もこのような言葉を残したのだと思われます。

 ただし、本来学ぶことと考えることとは相反するものではありません。どちらも、さまざまのものごとを事柄そのものに即して見極めるということを基本としている。ですから、その基本を忘れない限り、両者は互いにうまく補いあってゆくことができるのです。


 ところが、昨今われわれが目にするのは、肝心の事柄そのものを問うことがすっかり忘れ去られ、学ぶことも考えることも放棄した感情論ばかりが幅を利かせている、といった世の中のありさまです。こうした状況を生み出しているのはいったい何なのか。いま典型的な一例をふり返って、その本質を探ってみましょう。


 ≪「日本死ね」の根底にある甘え≫

 1年半ほど前に「保育園落ちた日本死ね!」という若い母親のブログの言葉が大評判になったことがありました。

 その年の流行語大賞も受賞し、選考委員の俵万智さんは次のように述べています-「『死ね』が、いい言葉だなんて私も思わない。でも、その毒が、ハチの一刺しのように効いて、待機児童問題の深刻さを投げかけた。世の中を動かした。そこには言葉の力がありました」。

 ここで注目したいのは、この「言葉の力」という表現です。

 実は、学ぶにせよ考えるにせよ、重要なのは「言葉の力」なのです。十分に考え抜かれ、練り上げられた言葉は、事柄の本質をずばりと人に伝える力をもっている。それを聞き、それを読む人に考えさせる力をもっている。そうした「言葉の力」を軸として、人類は学び考え、知を深めてきたのです。

 もしもこの言葉に本物の「言葉の力」があり、それが流行語大賞を受賞したのなら、こんな素晴らしいことはありません。

 では、その「言葉の力」はどこに発しているというのでしょうか。力の源は明らかに「死ね」-それも「日本死ね」のうちにあります。これがただの「保育園落ちた」だけだったとしたら、流行語大賞どころか話題にもならず「ウチもだよ。悔しいねえ」といった返信があるだけだったでしょう。

 この「日本死ね」について、俵さんは「その毒が、ハチの一刺しのように効い」たと言うのですが、実はここには何の毒もありません。むしろ、いまの日本で一番安心して「死ね」と言える相手が「日本」なのです。うっかりして相手に「死ね」と言うと、自分の方が殺されたり、糾弾を受けたりもしますが、「日本」が相手ならその心配はない。また、いくら「死ね」と言っても本当に日本が死ぬはずはない、とご当人は思っているに違いありません。

 こうした二重三重の安心感にくるまれて自分の憤懣(ふんまん)をぶつけているのが、この「日本死ね」なのです。こんなものは「言葉の力」でもなんでもありません。

 しかもこのような感情的な罵声は、問題を解決するための実質的な議論への道をふさいでしまいます。保育園増設のためには、用地の取得、保育士の養成、保育の質の確保など、難しい問題がたくさんあるのに、そのことが全部忘れ去られて、叫びさえすれば何でも解決してもらえるような錯覚がはびこる。そしてその中で、本当に深刻な問題が見逃されてしまうのです。


 ≪聴力を研ぎ視力をみがこう≫

 「何が少子化だよクソ」という一言がこの母親のブログの中にあります。実はこれこそが「待機児童問題」よりずっと深刻な問題なのです。もしも今のまま少子化が続くと、3200年には日本の人口は限りなくゼロに近づきます。まだある程度の数の若い女性がいるうちに最大限の手を打たないと、本当に日本は死んでしまう。

 ところが、その危機をはね返す主役であるはずの女性が、主役であることの自覚も誇りも持てないまま、ただ報われぬという不満を抱えて生きている-一見すると甘ったれた罵声としか見えないブログの底に、そういう無意識の悲鳴が潜んでいます。この言葉に喝采する人も、ただ反発する人も、その悲鳴を聞き逃してしまう。

 「考える」ことの復権は、そうした聴力を研ぎすまし、事柄そのものを見る視力を養うところから始めてゆくべきでしょう。

遅れた飛行機内での熱唱は「美談」なのか?

「哲学者怒る『日本の公共空間はうるさすぎだ』 遅れた飛行機内での熱唱は『美談』なのか?」(東洋経済
 → http://toyokeizai.net/articles/-/185811

これまで政治家のウソをテーマに連載を書いてきましたが、もうこれをテーマにしてもむなしくなるだけですので、この辺でやめにしようと思いますが、最後に1つだけ取り上げると、国会閉会中審議のはじめに神妙な顔つきでなした安倍首相の「お詫び」はとても感じの悪いものでした。自分の傲慢な姿勢のみ反省して、傲慢な姿勢の背景にある真実を追求する要求には一切答えないという「お詫び」でしたから。


お詫びからは「ソン・トク」ばかりが透けて見える
一般に、お詫びしても実際の損失が何もないような場合、お詫びをすればトクだからという計算だけが透けて見えて、言葉はからからと滑っていきます。政治家だけではない。官庁や会社や病院などの、公式的お詫びはみんな同じであって、いまお詫びすればトクだから、いまお詫びしなければソンだから、という功利的計算のみ見えてしまう。

私は、よって、人間関係において、いかに相手から損害を受けたとしても、謝罪を要求することはほとんどなく、自分も真意の伴わない謝罪はしたくない。謝罪したほうがトクであることがわかっていればいるほど、謝罪するのには抵抗が伴います。人間は、そんなにすぐに自らの過去の行為を「反省する」ものでしょうか? 私の70年にわたる人生において、そうではないと断言できます。

こう言い換えたほうがいいかもしれない。われわれは、相手の足を思わず踏んでしまったとか、相手の名前を間違えてしまったとか、待ち合わせで相手を待たせてしまったとか……相手に軽い損害を与えたときは「心から」反省する。しかし、ある人を練りに練って振り込め詐欺でだました場合、練りに練って保険金目当てで殺してしまった場合などは、逮捕後ただちに反省するほうがおかしい。反省するとしたら、「捕まったこと」に対してではないでしょうか?

このことは、誰でも知っているのに、社会ゲームとして、被害者は直ちに加害者に「反省」を求め、それがないと「反省の声さえない」と怒り、では、と加害者が反省すると、今度は「まったく誠意が見られない、本当に反省しているとは思われない」と追及するのです。いわゆる「慰安婦問題」において、韓国(政府・国民)が、日本(政府・国民)の反省がまだ足りない、まだ足りない、まだ足りない……と言い続けているのも、同じ構図です。

夫婦間でも国家間でも、加害者に「真の反省」などほとんどありえないのですから、それを要求することはむなしいように思われますが、被害者はこの真実を知っていても、加害者がこの真実を語ることを許さない。加害者は、1点の混じり気もない絶対的に真の反省に至らなければならない。その結果、加害者は被害者にとって永久に反省が足りないということになり、被害者は永久に相手を責め続けることになるわけです。

この話は、ここまで。最近のニュースでカチンときたのは、もう1つありますが、たぶんほとんどの人が問題にもしないことでしょう。それは、8月20日に札幌発大阪行きの全日空機の出発が遅れた際に、乗り合わせていた歌手の松山千春さんが乗客のイライラを解消するために、客室乗務員のマイクで「大空と大地の中で」を歌った、という話。

翌朝のワイドショーでは、このエピソードを取り上げて、キャスターなどみな絶賛していましたが、私は賛成できません。こうした「騒音」については、30年以上も闘い続けましたが、ほんとうにこれほどむなしい闘いはなかった。相手は、私の意見に反対なのではなく、私が何を言いたいのかまったく意味が通じないのです。


日本の公共空間に溢れる音、音、音……

私は広い意味における公共空間(飛行機の中も含めて)では、なるべく音を発しないことが「正しい」と思っている。いわゆる大声でのおしゃべりや個人的に音楽を流すこと(これは多くの人が嫌っているからいいでしょう)のみならず、その空間を管理している責任主体(この場合は全日空)も、むやみに「音」を流してはならない。飛行機の中ですと、安全確認やさまざまな機内設備の案内や連絡などはいいとして、しつこいマイレージなどの宣伝放送も、機内販売の宣伝放送もダメ。すなわち、なるべく無音に保ち、その空間をいかに音で彩るかは各乗客に任させる。

これは、飛行機の機内では、ほぼ理想的に保たれています。座席の前に据えられているモニター画面を見る場合でもレシーバーが配られ、BGMもありません。そこで、眠りたい人は眠り、読書したい人は読書し、音楽を聴きたい人はイヤフォンを利用する。

しかし(今回は空港内に限りますと)、飛行機の機内以外ではこうはいきません。空港ビルのあらゆる店には音楽や宣伝放送が流れ、ダイナースなどの待合室にもBGMが流れ、エレベータには「1階です、こちらのドアが開きます」、エスカレータには「エスカレータにお乗りの際、手すりにつかまり……」という金属的なテープ音が入る。トイレに近づくと、「右が男子トイレ、左が女子トイレです」という放送が入る。もちろん、銀行のATMは「いらっしゃいませ、毎度ありがとうございます」というキンキラ声で迎えてくれる。

そして、搭乗口では、液体や危険品の持ち込みを注意する放送が流れ、出入国審査の場所では、(場合によって)「日本人は日本人と書いてある窓口にお並びください」という放送が流れ、空港内の動く歩道には「まもなく終点です、ご注意ください」というテープ音が流れ、帰国の際に、ベルトコンベア上を流れてくる荷物を待っているあいだずっと、「入国カードをご記入ください、入国の際にはパスポートと一緒に入国カードを示してください」という放送が流れる

実は、こうした「あああせよ、こうせよ」という放送が、もっともっとあるのですが、このすべてがヨーロッパの空港にはないのです。


ヨーロッパで注意喚起の放送がない理由

これは、趣味の問題ではなく、思想の問題でしょう。日本人は、老人、旅慣れない人、不注意な人など、「弱者」に視点を合わせ、注意放送によって彼らを救おうとする。

しかし、ヨーロッパでは、そうではなく、そういう「弱者」は自分で努力して事故や不注意を防ぐようにすべきだ、という思想が徹底している。キリスト教の思想が行きわたったヨーロッパで、弱者に対するこうした注意放送(看板)が皆無なのです。

それ以外にも、ヨーロッパには、床に敷き詰められた盲人用の黄色いポチポチがどこにも(電車のホームにも)ないし、障害者用の男子用トイレの鉄パイプもありません(私はこれまでこれを使っている人を見たことがない!)。じゃ、どうするのか? 近くにいる個人がそのつど助ければそれでいい。日本では、これが行きわたっていないから、放送だらけになるのです。

わが国では、周囲の盲人や車いすの人をよく見ず、率先して彼らを助けることをせず、みんなこうした観念的放送を観念的弱者のために必要だと思い込んでいる。そこで、私が「こういう放送は必要ない」と抗議すると、まったく意味がわからないということになるわけです。

次に、あえて言いにくいことを言いますが、これほどずっと前からありとあらゆる仕方で注意しているのに、それでも振り込め詐欺にかかる人は、(犯人が悪いのは当然として)その人も悪いのだと思います。にもかかわらず、パトカーで「振り込め詐欺に注意しましょう!」という大音響をまき散らして町内を走り周り、地域によっては、防災行政無線で注意を勧告することもあり、警察官が銀行のATMのところに待機していることもある。ほとんどの人は振り込め詐欺にかからないのですから、そういう人にとっては、騒音(耳障り)以外の何ものでもないのですが、現代日本ででは、こういう「思想」がまったく通じないのです。

私はこのことをかつて「優しさの暴力」と呼んで、そうした単行本も書きましたが、わずかの賛同者は得られましたが、「日本人を目覚めさせる」ことはできなかった。放送を流す側も聞く側も「善意」と確信しているのですから、それをなくすのは大変なことなのです。

というわけで、松山千春さんの「善意」ですが、少数かもしれないけれど。迷惑に思った人は必ずいるはず。私など松山千春って聞いたことがある、という程度の知識しかなく、彼の歌は何も知らない。それなのに、突如その歌を「聞かされる」ことに大いなる苦痛を覚えたことでしょう(私がその場に居合わせていたら、あとで必ず客室乗務員に訴えたと思います)。

松山千春さんがどのくらい有名なのか知りませんが、冷静に考えてみても、同じ時間に政治家が政見を述べても宗教家が講話をしてもブーイングが出るでしょうし、(そうでなくても)嫌がられるでしょう。まあ、毎日新聞によると、松山さんが、「出しゃばったことしているなと思うけど」と語っていたらしいことを知って、ちょっと救われましたが……。

新聞業界の「不都合な真実」

26日の『産経抄』より
「【産経抄】『とにかく安倍をたたけ』の大号令 新聞業界の『不都合な真実』 8月26日」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/column/news/170826/clm1708260003-n1.html

 「いま、社内は安倍(晋三首相)を叩(たた)くためなら、どんなことでもするという空気になっている」。作家の門田隆将さんは最近、知り合いの毎日新聞記者からこう聞いたと、26日発売の月刊誌『Hanada』(10月号)で明かしている。朝日新聞記者にも同様のことを言われたという。

 学校法人「加計(かけ)学園」の獣医学部新設問題をめぐり、内閣支持率が下落した安倍内閣を、この機に打倒しようと盛り上がっているということか。門田さんは7月23日付小紙朝刊の新聞批評欄で、そうした新聞を「倒閣運動のビラ」と呼んでいた。

 そういえば、民進党を離党した長島昭久元防衛副大臣も5月に、自身のツイッターに記していた。「昨日たまたま話した朝日新聞のある幹部の表情には、社運を賭けて安倍政権に対し総力戦を挑むような鬼気迫るものがありました」。

 実は小欄もかつて知人の東京新聞記者から、こんな打ち明け話を聞いたことがある。「上司に『安倍なんか取材しなくていいから、とにかくたたけ』と号令された」。同僚記者も、別の東京新聞記者から同趣旨のことを聞いている。

 悲しいかな、これらのエピソードは新聞業界の「不都合な真実」を示す。事実をありのままに伝えることよりも、自分たちの主義・主張や好みを広めることに熱心な習性があるのは否めない。「権力の監視」を隠れみのにしつつ、時に暴走を始める。

 マスコミは、行政・立法・司法の三権と並ぶ「第四の権力」とも呼ばれる。政治家からは、真顔で「本当は第一の権力だろう」と指摘されることも多い。ならば、自制心と自浄作用を失ったマスコミ権力は誰が監視するのか。国民の常識と良識が働き、一定の歯止めとなることを期待するしかない。


賢人にも曰く、

 新聞はあくまで事実の報道という形で、国民を一定の方向に追いやることができますが、さらにその限度を超えて、最初から「世論はこうだ、こうだ」と国民の頭上におっかぶせていくとなると問題です。ことに一般の国民は難解拙劣な政治記事を読まずに、見出しや煽情的な社会面を読みがちですから、そういう工作は易々たるものです。もちろん、国民の大部分は動かされはしませんでした。

── 福田恆存『輿論を強ひる新聞』

一日一言「敬愛」

八月二十七日 敬愛


 貝原益軒江戸前期の儒学者であり教育者)は、正徳四年(西暦一七一四年)の今日、八十五歳で亡くなった。彼が人を思いやる心を説いた本にこう書いてある。
 自分の親しい人を愛し、貴い人を敬うことは当然であるが、知らない人やいやしい乞食であっても、みなこの世に生を受けた人であるから、それぞれの立場を考えて、悲しまなければならない。決して悪く見たり、あなどってはならない。親交の度合い、身分の違いで、その悲しむ差はあろうが、思いやりの心をなくしてはならない。

── 新渡戸稲造(『一日一言』)

養生訓 (講談社学術文庫)

養生訓 (講談社学術文庫)

「愛とは何か? 創造とは何か? 」

見よ!わたしはあなたがたに“おしまいの人間”(末人)を描いて見せよう!

 『愛とは何か? 創造とは何か? 憧れとは何か? 星とは何か?』 ── 末人はそう尋ねて、まばたきする。
 そのとき地球は小さくなっている。小さな地球の上に、すべてを小さくする末人がぴょんぴょん飛び跳ねている。この種族は蚤のように根絶しがたい。末人はもっとも永く生き延びる。
 『われわれは幸福を発明した』 ── 末人たちはそう言って、まばたきする。
 彼らは暮していくのに厳しい土地を見捨てた。なぜなら暮していくには温みが必要だからである。そのうえ隣人を愛して、隣人に体をこすりつける。温みが必要だからである。
 病気になることと不信を抱くこととは、彼らにとっては罪である。彼らは歩き方にも用心深い。石に躓く者、あるいは人に躓く者は愚者とされる!
 ときどき少量の毒を用いる。それは快い夢を見させてくれるからである。そして最後に大量の毒を用い、快き死に至る。
 彼らもやはり働く。働くことは慰みになるからだ。しかしこの慰みが身を損ねるこねることがないように気をつける。
 彼らはもはや貧しくなることも、富むことない。どちらも煩わしすぎるのだ。誰ももう統治しようとしない。誰ももう服従しようとしない。どちらも煩わしすぎるのだ。
 牧人は存在しない。存在するのはただ一つの畜群だけである! 誰でもみな平等を欲し、誰でもみな平等である。それに同調できない者は、すすんで気違い病院に入る。
 『昔は世の中全部が狂っていたのだ』 ── そう洗練された人士は語り、まばたきする。
 彼らは怜悧であり、世に起こったいっさいについて知識をもっている。だから彼らの嘲笑の種子はつきない。彼らもやはり争いはする。しかしすぐに和解する。さもなければ、胃をそこなうことになるからだ。
 彼らはささやかな昼の快楽、ささやかな夜の快楽をもっている。だが健康をなによりも重んじる。
 『われわれは幸福を発明した』 ── 末人たちはそう言って、まばたきする ──

ツァラトゥストラは、かく語りき(西尾幹二 訳)。


ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)

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ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)

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ニーチェとの対話 ツァラトゥストラ私評 (講談社現代新書)

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隣人よりも遠人を愛せ

隣人愛について


 諸君は隣人にむらがってそれに美名を与えている。だが言おう。君たちの隣人愛は、君たち自身をうまく愛することができていないということだと。
 君たちはおのれ自身からのがれて、隣人のもとへ走る。そしてそのことをひとつの徳に仕立てようとしている。だが、わたしは諸君の「無私」の正体を見抜いている。
「汝」は「我」よりも旧い。「汝」は聖なるもとして語られたが、「我」はいまだそうではない。だから人間は隣人へと殺到する。
 わたしが、諸君に隣人愛を勧めると思うか。わたしがむしろ勧めるのは、隣人からの逃走であり、遠人への愛だ。
 隣人への愛より高いもの、それは遠人への愛、来るべき人への愛だ。人間への愛より、物事や幻影への愛の方が高い。
 わが兄弟よ。君に先だって行く幻影は、君よりも美しい。なぜ君はそれにおのれの骨肉をあたえないのか。だが君は幻影を怖がって、隣人のもとに走る。
 君たちは自分自身に耐えることができない。そして自分自身を十分に愛していない。だから諸君は隣人を愛へと誘い、そのあやまちで鍍金(めっき)しようとする。
 諸君があらゆる隣人に、また近隣の者たちに、耐えられなくなればいいと思う。そうすれば、君たちはおのれ自身から、友とあふれんばかりの心情とを創り出さねばならなくなる。
 君たちは自分をよく言われたいとき、証人を連れてくる。そして証人をたぶらかして、自分のことをよいと思い込ませる。すると、君たちは自分自身をなかなかのものだと思うようになる。
 自分の知に背いて語る者だけではない、自分の無知に背いて語る者こそ、虚言を弄する者だ。だから君たちは隣人と交際するときに、みずからのことについて語ることによって、自分も隣人も騙すことになる。
 道化は言う、「人間の交際は性格をそこなう。とくに性格のない者はそうなる」と。
 ある者は自分をさがして隣人のところに行く。またある者は自分を無くしたくて隣人のところに行く。自分自身をよく愛することができないから、君たちの孤独は牢獄になってしまう。
 諸君の隣人愛は、そこに居ない者を犠牲にする。君たちが五人集まれば、いつも六人目が血祭りにあげられる。
 君たちの祝祭をわたしは好まない。そこにはあまりに多くの俳優があらわれたし、観客も幾度となく俳優のように振る舞った。
 わたしは諸君に隣人を教えない。友を教える。友こそ諸君の大地の祝祭であれ。そして超人への予感であれ。
 わたしは諸君に友を、そしてその満ちあふれる心情を教える。だが、満ちあふれる心情ををもって愛されたいと思うなら、海綿になることを心得ていなければならない。
 わたしは諸君に友を教える。そのなかで世界がすでに完成している、善の受け皿である友を。──完成した世界をいつでも贈ろうとする、創造する友を。
 この友のために、かつて繰り広げられた世界は、ふたたび巻きおさめられる。悪による善の生成として、偶然による目的の生成として。
 もっとも遠い未来こそが、君の今日の動機であれ。君の友のなかで、君はみずからの動機としての超人を愛さなくてはならない。
 わが兄弟よ。わたしは諸君に隣人愛を勧めない。わたしは諸君に遠人への愛を勧める。


 ツァラトゥストラはこう語った

── ニーチェ(『ツァラトゥストラかく語りき佐々木中 訳)


1900年8月25日 フリードリヒ・ニーチェ


同情や隣人愛を否定し、超人への道を説いた。
同情や隣人愛へ逃げるのではなく、弱い者が身を寄せ合うのではなく、独りの人間として強く生きて行く。
それが“力への意志”であり、“超人”への道である。

「私の理想は、目障りにならぬような独立性、それとわからぬ静かな誇り、つまり、他人の名誉や喜びと競合せず、嘲弄にも耐えることによって得られる、まったく他人に負い目のない誇りである。このような理想が、私の日常の習慣を高貴なものにせねばならぬ。」

── フリードリヒ・ニーチェ(『遺された断想』)

ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)

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ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)

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偶像の黄昏・アンチクリスト (イデー選書)

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