「左ブレーキ」が、普及しない理由
「アクセルと踏み間違えない『左ブレーキ』が、普及しない理由 」(ITmedia ビジネスオンライン)
→ http://www.itmedia.co.jp/business/articles/1705/09/news042.html
高齢者がアクセルとブレーキを踏み間違えて、事故を引き起こすケースが相次いでいる。30年ほど前から「AT車の場合、左ブレーキにすれば踏み間違うことはない」といった議論が出ているが、なぜ普及しないのか。
ゴールデンウィーク中、70代の女性が軽自動車で病院の待合室に突っ込んで13人がケガするという事故が大きく報じられた。
女性の供述からアクセルとブレーキの踏み間違いの可能性が高いということで、ネット上では毎度おなじみの「こういう暴走老人は免許を取り上げろ!」「高齢者は自動ブレーキ付きの車以外は乗れないようにしろ!」なんて声があがっている。
気持ちは分かるが、クルマは地方で生活するシニアにとってなくてはならない「足」だ。危ないからといって取り上げれば別の問題が発生する。一方、「自動ブレーキ義務化」も仮にスムーズに行なわれたとしても、それが全国のシニアたちのマイカーに導入されるまではかなり時間がかかる。
もっと実効性があって、手っ取り早い対策はないものか。なんてことを漠然と考えていたら、知人のシニアドライバーから興味深いアイディアが提案された。
「同じ足でアクセルとブレーキを踏むからこういう事故が起きてしまう。高齢者になったら左足でブレーキ、右足でアクセルという動作をすれば、踏み間違いなど絶対にありえない」
ご存じの方も多いだろうが、一部のドライバーの中にはこのシニアのように「左足ブレーキ」を実践している方たちがいるのだ。
確かに、高齢者の踏み間違い事故の多くは、ブレーキだと勘違いしてアクセルを踏み、前に進むのでパニックになってクルマを止めようとさらに力強くアクセルを踏み込むという負のスパイラルに陥って人や建物へ突進する。「左足ブレーキ」ならば理屈上こういう事態は起こらない。
「おいおい、F1やゴーカートじゃないんだから」と失笑する方もいるかもしれないが、実はこの「左足ブレーキ」は30年以上前から一部ドライバーたちから支持されてきた知る人ぞ知る「踏み間違え対策」なのだ。
AT車の歴史は、踏み間違い事故の歴史
マスコミが、高齢ドライバーの踏み間違い事故があると鬼の首を獲ったかのように大騒ぎするので、高齢者特有のものだと勘違いしている方も多いかもしれないが、オートマチック車(以下、AT車)の普及が始まった時代から老いも若きもこの手の事故を頻繁に起こしている。
エンジンをかけたらいきなり急発進した、ブレーキを踏んだが止まらなかった。2010年に米国でプリウスが急発進したと大騒ぎになったが、米国運輸省が調査をしたところほとんどのケースが踏み間違いなどの人為的なミスだということが分かったが、そのはるか昔の1980年代から同様の悲劇は繰り返されているのだ。
AT車の歴史は、そのまま踏み間違い事故の歴史と言ってもいい。
そこで出てきたのが、「クラッチがなくなって左足が空いてんだからブレーキペダルに使えば間違いないんじゃね」という子どもでも思いつきそうなシンプルな解決策である。
そんなの危険な運転は絶対に認めんという方も多いだろうが、当時はわりとポピュラーな考え方で、1987年6月17日の日本経済新聞には「AT車事故多発、原因は操作ミス――マニュアル車と違った教育必要」という記事が掲載。「従来のマニュアル車の運転法とは別に人間工学を駆使した運転技術を確立、ドライバーに広めることが必要になる」「米国では左足ブレーキもかなり一般的」として、「左足ブレーキ論」の本格的な検証を促している。
「AT限定免許」が1991年に新設されると、このような声はさらに強くなり、自動車工学の第一人者として知られ、2015年には瑞宝中綬章を受章された長江啓泰日本大学理工学部名誉教授も『日刊自動車新聞』(1992年4月8日)で以下のように述べている。
『AT車では、アクセルを軽く踏んだまま左足でブレーキを調節し、前進や後退をさせるという運転法が必要となる。(中略)左足ブレーキは難しいといわれるが、クラッチ操作を右足で行なうとなるといかに難しい操作であるかが分り、左足でよくできるものだと悟ることができる。要は、練習と慣れでAT車を上手に使うことができる』
「左足ブレーキ」が注目されない理由
1993年2月22日には、国会の交通安全対策特別委員会で民社党の和田一仁衆議院議員(故人)が、「どうして両足があって左足を遊ばせておくのか。左足をブレーキ専門に使いなさい、初めからこれを教えていただければ、踏み間違えというのは絶対に起きない」と主張。自動車教習所の段階でAT専用の運転法を習わせるべきだと政府へ訴えた。
では、ここまで盛り上がっていた「左足ブレーキ論」がなぜ社会に広まらなかったのかというと、『日本ではまだ「マニュアル車と両方に乗るケースが多く、ドライバーが混乱する可能性が高い」という反対意見が今のところ優勢』(日本経済新聞 1987年6月17日)だったからだ。
要するに、免許的にも技術指導的にも2つのやり方をつくるのはいろいろ面倒なんで、マニュアルもATも同じルールにしたほうがなにかと面倒じゃないでしょ、というのである。
こうしてMT車の足さばきを自動車教習所で叩き込まれたAT車ドライバーが世に溢れかえり、踏み間違い事故を頻発するという今の状況が生まれたわけだ。
そして、この「AT車専用の運転方法というものは存在せず、あくまでMT車の延長上ですよ」という国の方針に疑問を感じ、「俺流」の安全対策を細々と続けているのが「左足ブレーキ」の支持者たちである。
「左足ブレーキ」が原因で何人も亡くなるような衝突事故を引き起こしたなんてニュースを耳にしたことがないように、一部ドライバーは特に大きな問題もなく「左足ブレーキ」を行なっている。
一方、高齢者によるブレーキとアクセルの踏み間違い事故は年を追うごとに増加し、なかには深刻な死亡事故を引き起こしている。30年前から多くの人が警鐘を鳴らしていた事態が、ここまで深刻になっているということでいえば、もっと「左足ブレーキ」に注目が集まってもいいように思うが、そうなっていないのは「否定派」の存在が大きい。実は「左足ブレーキ」は一部のドライバーたちにとって、決して看過できない「危険運転」のような扱いとなっているのだ。
詳しくはご自分でググっていただきたいのだが、ネット上ではもうすいぶん昔から「左足ブレーキ」をめぐって推奨派と否定派が激論を交わされており、そのあまりの激しさは「ネトウヨ」のみなさんと反安倍のみなさんの罵(ののし)り合いのようにイデオロギーのぶつかり合いのような様相を呈しているのだ。
ただ、個人的にはこの「左足ブレーキ」がそこまで普及をしない最大の理由は別にあると思っている。
もし高齢者が個々の努力でこの運転方法を身につけたところで、踏み間違い事故は減るかもしれないが、他に「得」をする人があまりいない。もっとぶっちゃけて言ってしまうと、政官民が一丸となって制度設計をする「旨味」があまりないのだ。
「左足ブレーキ」が歴史の闇に葬り去られる
国会で「踏み間違い対策」が論じられてから22年が経った2015年6月10日、内閣委員会で維新の党の河野正美衆議院議員が、高齢者によるブレーキとアクセルの踏み間違いによる事故が多発していることを受けて、政府の取り組みを質問したところ、鈴木基久警察庁交通局長(当時)は「車両側の対策を講じることが有効」だとして以下のように述べている。
『具体的には、最先端の技術を駆使いたしまして事故を未然に防止する技術、これを、先ほど先生がおっしゃられたとおり、予防安全技術と申します。その開発普及を進めてまいりたいと思っております』
そんな決意表明の通り、今年2月28日には安全機能を備えたクルマを「安全運転サポート車」と呼び、普及を目指していくという計画を政府が発表した。素晴らしいことじゃないかと思うかもしれないが、「安全対策」という錦の御旗の下で、この制度を骨までしゃぶろうという人たちの思惑が透けて見える。
『メーカーと連携して各地で試乗会を開いたり、販売店での掲示を認めて売りやすくしたりする。愛称やロゴマークも近く公募。国交省の担当者は「エコカーのように定着させたい」と話す。経済対策として打ち出した「エコカー減税」の再現を期待する声もある。自民党の茂木敏光政調会長は27日の講演で「次の時代はセーフティカー減税」と話した。安全性能の基準に応じて一定額を減税する制度が念頭にあるという』(朝日新聞 2017年3月1日)
この調子なら、「独立行政法人安全運転サポート車普及ホニャララ協会」なんて天下り団体がつくられる日も近い。
筆者は普段、右足でブレーキを踏んでいるし、「左足ブレーキ」がすべての人ができる運転技術だと思わない。ただ、30年以上も継続している「踏み間違い事故」というものが、駆動方法がまったく異なる2つのクルマに同じ運転スタイルを強いたがためのシステムエラーだという指摘には一定の説得力を感じている。
このような根本的な議論をせずに、国が旗振り役となって新しい技術を搭載したクルマの普及を進める。政官民的にはメリットだらけの話なのでしょうがないとも思うだが、これが果たして本当にユーザーメリットになっているのか、という疑問はある。
いずれにせよ、「安全運転サポート車」という国策が打ち出された今、「左足ブレーキ」が歴史の闇に葬り去られるのは間違いない。
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一日一言「骨身を惜しまずに」
五月九日 骨身を惜しまずに
自分の身のまわりの人々に尽くすことは、結局は自分のため、世の中のためになるもので、つまらないことをしてと嘆くことはやめなさい。ささやかな善行でも限りなく積もれば、これが世の中のためにもなるし、自分のためにもなるものである。骨身を惜しまず、一日の仕事を成し遂げなさい。
君のため世のため何か惜しからん
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古人にも曰く「情けは人の為ならず」
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(これは、「自分のことだけ考えて、幸せを手に入れようとしても、かえって自分のところからは逃げていく。逆に他人のことを考えて、他人の幸せを願い行動すると、結果的に自分も幸せになることができるのである」という意味です。他者に手を差し伸べ、他者のことを第一に考えた尊徳の気持ちがよくわかります。)
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藻岩山
「【直球&曲球】野口健 小さなミスにビビり屋さんでいたい」(産経新聞)
→ http://www.sankei.com/column/news/170504/clm1705040004-n1.html
人間が抱く危機感はそう長く続かない。そしてすぐに忘れる。いや「忘れる」というよりも「忘れたい」のかもしれない。例えば、この国で生きていく以上、誰もが震災に関し、どこかで潜在的におびえている。ではどうすればいいのか。考えれば考えるだけ憂鬱になる。そして、「自分だけは大丈夫だろう」と結論づけたくなる。
登山家という職業柄なのか、多くの仲間の死を経験したためか、最悪の事態を常にイメージする癖がある。山に挑戦する前も悪天候で身動きがとれなくなった自分。酸素ボンベや食料が足りなくなり山頂を目前に撤退を余儀なくされてしまう自分。そんな事態をリアルにイメージし、不安に襲われる。だからエベレストに挑戦するときは酸素ボンベなどを多めに用意し、いつも予算オーバー。
山登りの時だけならまだしも、講演会などのスケジュールに対して「ダブルブッキングしていないか」「この時間の飛行機で本当に会場に間に合うのか」などとスタッフに何度も尋ね困らせている。スタッフからも「心配し過ぎじゃないですか」とよく指摘される。出張などで家に帰れない時には家人に「ちゃんと戸締まりしているか」と何度も連絡をしてしまい、娘が出かけるときには玄関先で「道を渡るときは右見て左を見て、ついでに後ろも確認すること」と。「ハイハイ、もう分かっているから。大丈夫だから」とうるさがられる。
活動を共にしている仲間からも「健さんはビビり屋さんだよね」とばかにされる。
小さなミスというものはその一つ一つを微々たるものと感じてしまう。大事故や大遭難の原因をたどっていくと「小さなミスの積み重ね」が引き起こしていることが実に多いのだ。
どんなに気をつけても時に人は山で遭難する。最大限、気をつけた上での遭難ならば納得もいくかもしれないが、手を抜いた結果の遭難なら薄れゆく意識の中で最後に残されるのは無念だろう。人は一度しか死ねない。やり直しがきかないのだ。ならばどんなにばかにされようが最後までビビり屋さんでいたい。
仕事帰りに藻岩山。
Walden
わたしは、大部分のときを孤独で過ごすのが健全なことであるということを知っている。最も善い人とでもいっしょにいるとやがて退屈になり散漫になる。わたしは独りでいることを愛する。わたしは孤独ほどつき合いよい仲間をもったことがない。
── ソロー(『森の生活』)
1862年5月6日、ヘンリー・デイヴィッド・ソロー 没。
『ソロー』(Wikipedia) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%AD%E3%83%BC
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『21世紀に生きる君たちへ』
こどもの日。
「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」日。
君たち。君たちはつねに晴れあがった空のように、たかだかとした心を持たねばならない。
同時に、ずっしりとたくましい足どりで、大地をふみしめつつ歩かねばならない。
── 司馬遼太郎(『21世紀に生きる君たちへ』)
君たちはいつの時代でもそうであったように、自己を確立せねばならない。
── 自分に厳しく、相手にはやさしく。
という自己を。
そして、すなおでかしこい自己を。
21世紀においては、特にそのことが重要である。
21世紀にあっては、科学と技術がもっと発達するだろう。
科学・技術がこう水のように人間をのみこんでしまってはならない。川の水を正しく流すように、君たちのしっかりした自己が科学と技術を支配し、よい方向に持っていってほしいのである。
右において、私は「自己」ということをしきりに言った。自己といっても、自己中心におちいってはならない。
人間は、助け合って生きているのである。
私は、人という文字を見るとき、しばしば感動する。斜めの画がたがいに支え合って、構成されているのである。
そのことでも分かるように、人間は、社会をつくって生きている。社会とは、支え合う仕組みということである。
原始時代の社会は小さかった。家族を中心とした社会だった。それがしだいに大きな社会になり。今は、国家と世界という社会をつくりたがいに助け合いながら生きているのである。
自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようにはつくられていない。
このため、助けあう、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。
助け合うという気持ちや行動のもとのもとは、いたわりという感情である。
他人の痛みを感じることと言ってもいい。
やさしさと言いかえてもいい。
「いたわり」
「他人の痛みを感じること」
「やさしさ」
みな似たようなことばである。
この三つの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。
根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならないのである。
その訓練とは、簡単なことである。例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、その都度自分中でつくりあげていきさえすればいい。
この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。
鎌倉時代の武士たちは、
「たのもしさ」
ということを、たいせつにしてきた。人間は、いつの時代でもたのもしい人格を持たねばならない。人間というのは、男女とも、たのもしくない人格にみりょくを感じないのである。
もう一度繰り返そう。さきに私は自己を確立せよ、と言った。自分に厳しく、あいてにはやさしく、とも言った。それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。そして、“たのもしい君たち”になっていくのである。
以上のことは、いつの時代になっても、人間が生きていくうえで、欠かすことができない心構えというものである。
君たち。君たちはつねに晴れあがった空のように、たかだかとした心を持たねばならない。
同時に、ずっしりとたくましい足どりで、大地をふみしめつつ歩かねばならない。
私は、君たちの心の中の最も美しいものを見続けながら、以上のことを書いた。
書き終わって、君たちの未来が、真夏の太陽のようにかがやいているように感じた。
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