NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

『時間の非実在性』

「考えてみたい『今』と『私』の謎~二つの矛盾からこの世界ははじまる 『時間の非実在性』を解く」(現代ビジネス)
 → http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51031

「存在しない問い」の存在

他人には意識があるかどうかはわからないから、他人はひょっとすると(意識がない人をゾンビと呼ぶなら)ゾンビかもしれない。そうではないことを確かめる方法は存在しないのに、それでもわれわれが他人はゾンビではないと信じて疑わないのはなぜか。これは哲学の世界で他我問題といわれる問題である。

それはそれで、けっして無意味な議論ではないだろう。しかし、少なくとも私自身は、そんな問題を自ら感じたことは一度もない。私が幼少期から感じていたのは、一見それと似ているが実はまったく違う疑問――同じ人間のなかに、大多数の普通の人たちと並んで、私であるというあり方をしたやつが一人だけ存在している、こいつは何なのか(この違いはいったい何に由来しているのか)、そしてなぜ20世紀の日本に生まれた永井均というやつがそれなのか、という疑問であった。

たとえ他人たちがゾンビでないことが完璧に証明されたとしても、この疑問は深まりこそすれ治まりはしない。

だが、さらに驚くべきことに、この問いは実はそもそも立てることができない問いなのである。なぜなら、この意味での私(であるという特殊なあり方をしたやつ)は実在しないからである。

そういうやつが実在することを、もし私が問おうとすれば、私は永井均の存在を問うか、一般的な(超越論的)自我の存在を問うか、どちらかしかできない。言語を使ってこの問いを立てる方法は存在しないのである。なぜなら、言語は自他に共通の存在者の存在を起点として初めて成り立つ、世界が本質的に一枚の絵に描けることを前提にした世界把握の方法だからである。

私の問いはそれに起点から異を唱えている。言語的世界像を前提する限り、この問いはそもそも存在できない。ウィトゲンシュタインはこのことを「独我論は語りえない」と表現した。

すでに40年近く、私はこの問題について論じてきた。そして20年ほど前から、同じ問題が〈私〉だけでなく〈今〉についても成り立つと論じてきた。このことを史上初めて主張したのが、1908年に書かれたJ・E・マクタガートの「時間の非実在性」である。

つまり、彼はウィトゲンシュタインが「独我論は語りえない」と表現したのと同じ論点を「時間は実在しない」と表現したわけである。さほど長くもない一論文にすぎないが、今回の翻訳出版(『時間の非実在性』講談社学術文庫)にあたって、私は原論文の数倍の長さにわたる、この解釈視点からの解説的論評を付した。


実在の謎

他我問題と全く同様、時間に関しても、過去や未来は実在すると(なぜ)言えるのか、といった系統の問題は存在する。

当然のことながら、マクタガートの問題はその種のものとは全く違う。彼の問いの根底には、この今という特殊なものが現に存在しているという驚きがある。この今がもし存在しなければ、すべては存在しないのと同じことだろう。

存在する(かもしれない)世界はそもそも開かれないからだ。それほど重大な位置を占めるものでありながら、これもまた実在しない。言語によってそれを捉える方法がないからである(この意味では感性(パトス)もまた言語(ロゴス)だから感性によっても)。

この今(という特殊なあり方をした時点)が実在することを語ろうとすれば、ある特定の時点の存在か、一般的な現在性(いかなる時点もその時点にとっては今であること)の存在か、どちらかを語ることしかできない。

さてしかし、まさにそのことを、私は今、共感をあてにして未来の他者に向かって書いている。そして、この伝達が成功して、未来の他者が、つまりあなたが、今私が言っていることに賛同することがありうるだろう。

世界が一枚の絵に描けることを前提にした言語的世界把握が作動したのである。そして時間の場合は、今は現実に動くので、この問題は今の動き(=時間の経過)そのものの問題と重なる。

では、端的な今(どの時点もその時点にとっては今であるという意味での今ではなく)や端的な私(どの人もその人にとっては私であるという意味での私ではなく)は実在するだろうか。そして前者に関しては、それが動くという事実は現実に存在するだろうか。するともしないとも言えるのでなければならない。

われわれはこの二つの矛盾する世界像を現に併用しているからである。すべてはこの矛盾から始まっているという現実を、ぜひ自ら実感していただきたいと思う。

時間の非実在性 (講談社学術文庫)

時間の非実在性 (講談社学術文庫)

これがニーチェだ (講談社現代新書)

これがニーチェだ (講談社現代新書)

吉田松陰

「松陰形見の短刀 米個人宅で発見、140年ぶり里帰り」(毎日新聞
 → http://mainichi.jp/articles/20170329/k00/00e/040/251000c

 前橋市は28日、米国の個人宅に長年保管されていた短刀が、幕末の思想家、吉田松陰(1830~1859年)の形見の品と確認したと発表した。妹の寿(ひさ)が、生糸輸出のため米国に旅立つ実業家に託したものという。鑑定した市の担当者は「松陰の刀剣類が発見されたのは初めて。松陰の志のこもった短刀が約140年ぶりに日本に戻ってきた」と話している。

 市によると、短刀は長さ約42センチ。柄(つか)に獅子の金細工が施され、鞘(さや)にはボタンの花が描かれている。刀身(約31センチ)は室町時代に造られた槍(やり)を改造したものとみられる。

 松陰死後の1876(明治9)年、群馬の実業家、新井領一郎が米国出発にあたり、松陰と同郷で初代群馬県令(知事)の楫取素彦(かとり・もとひこ)にあいさつに行った際、楫取の妻、寿から託されたという。2015年に、米カリフォルニア州在住の領一郎のひ孫宅の地下室で発見され、寄託を受けた前橋市が鑑定を進めてきた。

 松陰の短刀と判定した根拠は、領一郎の孫で元駐日米大使ライシャワーの妻ハルの著書「絹と武士」の記述。祖母である領一郎の妻に短刀を見せてもらった際、寿が「この品には兄の魂が込められている。その魂は、兄の夢であった太平洋を越えることによってのみ、安らかに眠ることができる」と語っていたことを聞いたエピソードが記されている。

 形状の記述もほぼ一致していたが、刀には刀匠「国益(くにます)」の文字が刻まれていたのに対し、ハルの著書では「国富」とあり、食い違いがあった。市は「勘違いだろう」と推測する。

 短刀は30日に東京の松陰神社で霊前に供えた後、31日~5月7日、前橋文学館(前橋市)で一般公開される。

松陰神社』 http://www.shoinjinja.org 
『前橋文学館』 http://www.maebashibungakukan.jp

 彼は多くの企謀を有し、一の成功あらざりき。彼の歴史は蹉跌の歴史なり。彼の一代は失敗の一代なり。然りといえども彼は維新革命における、一箇の革命的急先鋒なり。もし維新革命にして云うべくんば、彼もまた伝えざるべからず。彼はあたかも難産したる母の如し。自ら死せりといえども、その赤児は成育せり、長大となれり。彼れ豈(あ)に伝うべからざらんや。

── 徳富蘇峰(『吉田松陰』)

吉田松陰 (岩波文庫)

吉田松陰 (岩波文庫)

主義トイフ主義ヨリ離レヨ

 此ノ世ハ何者ゾヤ。ソハ怨恨ト軋轢ノ遍満セル舞台ナリ。不信仰対基督教、「ロマ・カトリック」教対「プロテスタント」教、「ユニテリアン」教対「オルソドックス」(正統信仰)──人類ハ一部分ハ他ノ部分ニ対立シ、一部分中ノ一区分ハ同一部分中ノ他ノ区分ニ対立シテ其ノ天幕ヲ張リ、──各自ハ他ノ誤謬ト失敗トニヨリテ自己ヲ利セント試ミツツアリ。タダニ個人ガ信頼シ得ラレザルノミナラズ、人類ハ全体トシテ蝮ノ裔、人間嫌悪者、「カイン」ノ末裔ナリ。嗚呼我ガ霊魂ヨ、主義トイフ主義ヨリ離レヨ、ソレガ「メソヂスト」主義デアレ、組合主義デアレ、或ハ他ノ如何ナル高尚ニ響ク主義ナリトモ。真理ヲ求メヨ、汝自身ヲ一個ノ人間ノ如クニ振舞ヘ、人々ト絶テ、而シテ汝ノ上ヲ仰ギ見ヨ。

(この世とは何ぞや。それは怨恨と軋轢の遍満せる舞台なり。無信仰対キリスト教、「ローマ・カトリック」対「プロテスタント」、「ユニテリアン」対「オーソドキシー」(正統信仰主義)、――人類は一部分が他の一部分に対して、また一部分中の一細部が、同じ部分の他の細部に対して、対立してその天幕を張り、――互いに他人の誤りと失策とによって利益を得ようと試みつつあり。ただに個人が信頼し得られざるのみならず、人類全体としてまむしの裔、人間嫌悪者、「カイン」の末裔なり。ああわが霊魂よ、主義という主義より離れよ、それが「メソジスト」主義であれ、組合主義であれ、或いは他のいかなる高尚に響く主義なりとも。真理を求めよ。汝自信を個人の人間の如くに振る舞え、人々と絶して、そして汝の上を仰ぎ見よ。)

── 内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』)


昭和5年(1930年)3月28日 内村鑑三 没


内村鑑三 - Wikipedia』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E6%9D%91%E9%91%91%E4%B8%89
『無教会主義 - Wikipedia』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%95%99%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9
新渡戸稲造及び内村鑑三の門下生 - Wikipedia』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%B8%A1%E6%88%B8%E7%A8%B2%E9%80%A0%E5%8F%8A%E3%81%B3%E5%86%85%E6%9D%91%E9%91%91%E4%B8%89%E3%81%AE%E9%96%80%E4%B8%8B%E7%94%9F
新渡戸稲造 - Wikipedia』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%B8%A1%E6%88%B8%E7%A8%B2%E9%80%A0

余は如何にして基督信徒となりし乎 (岩波文庫 青 119-2)

余は如何にして基督信徒となりし乎 (岩波文庫 青 119-2)

代表的日本人 (岩波文庫)

代表的日本人 (岩波文庫)

一日一言「しなくてはならない仕事」

三月二十七日 しなくてはならない仕事


 しなくてはならない仕事は、気軽く積極的にすること。何事でも気持ちよく手を動かせば、仕事がはかどって疲労も少ない。仕事がいやだと思えば思うほど神経を痛め、億劫にすればするほど神経を痛める度合いが増すことになる。


   早ければ為す事有りて身は安く
       遅くて急ぐ道は苦しし


   すべき事片付けるこそ善所なれ
       せずに置く気はいつも苦しむ

── 新渡戸稲造(『一日一言』)


お千代さんにも曰く、

何事をするにも、それをするのが好き、と言う振りをすることである。それは、単なるものまねでもいい。すると、この世の中に、嫌いなことも、また嫌いな人もいなくなる。

── 宇野千代『行動することが生きることである』

散るぞ悲しき

国の為 重き努を果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき

── 栗林忠道中将 辞世



1945年〈昭和20年〉3月26日 栗林忠道 没


「日米が激戦地・硫黄島で合同慰霊式典 栗林忠道中将の孫ら300人出席」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/politics/news/170325/plt1703250016-n1.html

 先の大戦末期の激戦地・硫黄島(東京都小笠原村)で25日、18回目となる日米合同の慰霊式が行われた。

 慰霊式には、硫黄島戦の経験者や戦死者の遺族、政府関係者ら約300人が出席。日本軍守備隊の最高指揮官として戦死した栗林忠道中将の孫の新藤義孝総務相も参加した。

 日本側の遺族でつくる硫黄島協会の寺本鉄朗会長は「戦いの記憶が風化しつつあり、深く憂う。悲惨な戦いを繰り返さないように後世に語り継ぐ」と強調した。米国硫黄島協会のスミス会長(元海兵隊中将)も「ここで戦死した全ての兵士のために永遠の平和を求める」と訴えた。

 慰霊式は日米親善を目的に、戦後50年の平成7年に始まった。厚生労働省によると、日本兵の死者約2万1900人のうち、約1万1500人の遺骨が未収容となっており、遺骨収集・帰還事業を進めている。

精魂を 込め戦ひし人未だ 地下に眠りて 島は悲しき

── 今上天皇御製

栗林忠道 硫黄島からの手紙 (文春文庫)

栗林忠道 硫黄島からの手紙 (文春文庫)

硫黄島栗林忠道大将の教訓

硫黄島栗林忠道大将の教訓

一日一言「大勇を養え」

三月二十五日 大勇を養え


 我が国の歴史において三月二十五日は戦の多かった日である。弘治三年には川中島の戦い、明治二年には函館戦争があった。多くの勇士が血を流したが、血は流さなくても、我々は平時の勇士でなければならない。真の勇気を持って、正しい道と思ったら必ず実行しなければならない。


  仁と義と勇にやさしき大将は
      火にさへ焼けず水に溺れず

── 新渡戸稲造(『一日一言』)

[新訳]一日一言

[新訳]一日一言

武士道 (岩波文庫 青118-1)

武士道 (岩波文庫 青118-1)

自警録 (講談社学術文庫)

自警録 (講談社学術文庫)

「愛する詩人の祭典のために」

 彼の死ほど物欲しさうでない死はない。死ぬことは、彼にはどうでもいいことだつた。すべてはただ生きることに尽されてゐた。彼の生は「死」の影がすこしも隠されてゐない明るさのために、あまりにも激しく死に裏打されてゐた。生きることはただ生きることそれだけであるために、彼の生は却つて死にみいられてゐた。だから、彼の死は自然で、すこしも劇的でなく、芝居気がなく、物欲しさうでないのだ。即ち純粋な魂が生きつづけた。死をも尚生きつづけた。さうではないか、牧野さん。生きるために自殺をするといふのは多くの自殺がさうであるが、牧野さんは自殺を生きつづけたと言ふべきである。彼は生きつづけてしまつたのだ。明るい自殺よ。彼の自殺は祭典であつた。いざ友よ、ただ飲まんかな。唄はんかな。愛する詩人の祭典のために。

── 坂口安吾『牧野さんの祭典によせて』

昭和11年3月24日 牧野信一 没
ゼーロン・淡雪 他十一篇 (岩波文庫)

ゼーロン・淡雪 他十一篇 (岩波文庫)


 どういふことを書いていゝか見当が付かない。写真は笑顔を示さずに撮るのが普通だらう、そして男なら成るべく深刻気な苦味を添へて――。だが僕には、深刻もなく苦味もないから六ヶしい顔も出来ない。だがまさか笑つた顔も見せられない。それ程心が朗かでもない。「泣き笑ひ」といふ心持もない。そこで極くあたりまへになるわけだが、その落ちつきはまた持合せぬ、写真は例に過ぎない、この惨めな心が――だ。

── 牧野信一(『自己紹介』)

父を売る子・心象風景 (講談社文芸文庫)

父を売る子・心象風景 (講談社文芸文庫)