NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

“人間通”

 人間は最終的にとことんのところ何を欲しているのか。それは世に理解されることであり世に認められることである。理解され認められれば、その心ゆたかな自覚を梃子(てこ)として、誰もが勇躍して励む。それによって社会の活力が増進し誰もがその恵みにあずかる。この場合、世間とは具体的には自分に指示を与える人であり働きを共にする同僚である。この人たちから黙殺または軽侮されるのは死ぬより辛い。逆に自分が周囲から認められているという手応えを得たときの喜びは何物にも替え難い。他人(ひと)の気持ちを的確に理解できる人を人間通と謂う。人間通を身近に見出せることは幸福の最たるものであろう。

── 谷沢永一『人間通』


平成23年(2011)3月8日 “人間通”、谷沢永一 没


うちの【谷沢コレクション】


谷沢永一 - Wikipedia』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E6%B2%A2%E6%B0%B8%E4%B8%80


人間通 (新潮選書)

人間通 (新潮選書)

こんな日本に誰がした―戦後民主主義の代表者・大江健三郎への告発状

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日本人とは何か

日本人とは何か

文豪たちの大喧嘩 (ちくま文庫)

文豪たちの大喧嘩 (ちくま文庫)

見義不為、無勇也。

机の前の日めくり論語

今日は7日。


おそらく多くの人がそうであるように、論語で最も好きな言葉の一つ。

 勇気は、義のために行われるのでなければ、徳の中に数えられるにほとんど値しない。孔子は『論語』において、その常用の論法に従い消極的に勇の定義を下して、「義を見てなさざるは勇なきなり」と説いた。この格言を積極的に言い直せば、「勇とは義(ただ)しき事をなすことなり」である。

── 新渡戸稲造『武士道』

義を見て為さざるは勇無きなり

子曰、非其鬼而祭之、諂也、見義不為、無勇也。

「子曰(のたま)わく、其の鬼(き)に非(あら)ずして之(これ)を祭(まつ)るは、諂(へつらい)なり。義を見て為さざるは、勇無きなり」

── 爲政第二

神ならぬ神を祭りて諂ふは義なく勇なき人と君知れ

人として、当然なさねばならぬ正義と知りながら、他人の前を憚(はばか)り、自分の利害のみをはかって、実行しないのは、真の勇気がないからである。

『會津藩校日新館』 http://www.nisshinkan.jp/


軽挙妄動を戒める、穂積重遠氏の解釈。

 「義を見てせざるは勇なきなり」は、真にわれわれ道徳上の臆病者を奮起せしめるに足る名言だが、同時にしばしば濫用されて軽挙妄動のキッカケになる言葉でもある。要は眼前の事柄が義なりや否やの判断である。

── 穂積重遠(『新訳論語』


翁に曰く、

五・一五、二・二六両事件の青年将校は、まじめと正義の権化だった。話せばわかるまあ坐れと犬養毅は言ったが、問答は無用だ撃てと命じてなお正義だった。

── 山本夏彦

新訳論語 (講談社学術文庫 549)

新訳論語 (講談社学術文庫 549)

明治150年

「【正論】今年は『明治150年』 建国の理念をつかみ再認識する大切さ 埼玉大学名誉教授・長谷川三千子」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/column/news/170228/clm1702280006-n1.html

 戦後はじめて「建国記念の日」が祝われたのが昭和42年。ちょうど50年にあたる今年も、例年通りの記念行事が各地で行われました。片方では奉祝の式典、他方では反対集会が開かれる、という形も今やすっかりおなじみです。

 普通なら、その国の建国記念の当日に全国各地で反対集会が開かれるなどというのは、よほど深刻な国内分裂を抱えた国、ということになるはずですが、わが国では毎年ごく平穏に、建国記念の祝典と反対集会とがともども催される。そしてこの奇妙な平和共存のなかで、そもそも「建国記念」とはいかなることなのか、という肝心のことは問われぬままになってきたのです。


≪重要なのは「史実」か否かではない≫

 実際、この記念日を定めた法律自体、この日をただ「建国をしのび、国を愛する心を養う」日であるとしか説明していません。いったい建国をどうしのんだらよいのか-その答えは各人が見つけなければならないというわけです。

 「建国記念の日」に反対する人々がよく口にするのが、この日は「神話」に基づいて定められており、「史実」に基づいていないからけしからん、ということです。

 確かに世界の国々を見渡してみると、植民地からの独立や革命の日建国記念の日としているところが多い。古くても18世紀の出来事ですから、歴史上の日付もはっきり確かめられる。これに対して、日本や韓国のように神話に基づく建国記念日を持つ国では、それと同様にはいきません。

 しかし、実は本当に重要なのは「史実」か否かではないのです。たとえばアメリカの建国を祝う7月4日の「独立記念日」は独立が成立した日ではない。「独立宣言」に署名がなされた日にすぎません。つまり重要なのは、そこで語られている理念なのです。だからこそ人々は、その理念が宣言された日を「独立記念日」と呼び、建国記念の日として祝うのです。


≪国民の利益になることが核心だ≫

 では、わが国の建国の理念はどのようなものなのでしょうか?

 わが国の建国記念の日は『日本書紀』巻第三、神武天皇の建国の詔に基づいて定められています。この巻はいわゆる「神代」の記述のすぐ次にあたっていて、確かに神話と直結しています。しかし『日本書紀』の特色は、神話の記録と政治的理念・理想とが織りなされているところにある。この「建国の詔」はまさにその典型的な一例なのです。

 国家統一をなしとげ、橿原(かしはら)に都を造ろうと宣言するこの詔の核心をなす理念を表しているのが「苟(いやしく)も民に利(かが)有らば」の一言です。山林を切り開いて都を造り、新たに法を整備するという大胆な新事業へと神武天皇をかりたてているのは、何であれ国民の利益になることなら断行すべきである、という考えなのです。

 このような〈民のための政治〉という理念は中国古典に学んだものとも言えます。ただしそれは単なる輸入概念ではなく、わが国の神話と融合して、完全に古代日本人の血肉となっていた。それをうかがわせるのが「おおみたから」という言葉です。『日本書紀』でも『古事記』でも、人民は「おおみたから」と呼ばれています。

 これは、代々の天皇は祖先である神々から最も大切な大御宝(おおみたから)として人民を預かっている。だから何をおいても〈民のための政治〉をしなければならない、という思想を担った言葉なのです(これが今も脈々と引き継がれていることは、昨年8月の陛下の「お言葉」にうかがわれる通りです)。


≪進取の気性が維新を支えた≫

 しかもこの「建国の詔」に見る通り、これは決して消極的な後ろ向きの理念ではなく、常に大胆な進取の気性と組み合わさっている。だからこそ、あの明治維新という大転換の時期に、わが国の建国の理念は、それを支える柱となりえたのです。

 たとえば慶応3年の「王政復古の大号令」は「諸事神武創業之始ニ原(もとづ)キ」改革を進めるべし、と述べた上で、「民ハ王者之大宝」であるから、近年の物価高騰と貧富の格差増大はきわめて憂慮すべき事態であり、有効な対策案を募る、と呼びかけています。わが国の建国の理念がまっすぐに引き継がれていることが分かります。

 さらには明治9年の国憲起草の詔に「我建国ノ体ニ基キ広ク海外各国ノ成法ヲ斟酌(しんしゃく)シ」とあるのも、近代西洋の立憲主義・民主主義を「我建国ノ体」と対立させているのではない。それらが本当に〈民のための政治〉を目指すものである限り、「海外各国ノ成法」も「我建国ノ体」にかなうであろう-そういう自信に裏付けされた国憲起草の勅命なのです。

 今年は明治の元号につなげれば明治150年。「その年に迎える11日の『建国記念の日』を、とりわけ意義深く感じる人も多いことだろう」と産経新聞2月11日付の主張は説いていました。それを本当に意義深いものとするには、こうしたわが国の「建国の理念」を明確につかみ直し、再認識することが何よりも大切でしょう。

「禅問答」についての考え方

「人生を豊かにしてくれる『禅問答』についての考え方」(ライフハッカー
 → http://www.lifehacker.jp/2017/03/170301_book_to_read.html

人生がうまくいく 哲学的思考術』(白取春彦著、ディスカヴァー・トゥエンティワン)は、ベストセラーとなった『超訳 ニーチェの言葉』の著者による新刊。今作では「生き方のコツ」を伝授していますが、そのベースとしてあるのは、著者が自分自身の興味と楽しみから読んでいるのだという哲学関連の書籍です。

私は哲学書を思考と人生経験の芸術だと思っている。論理の正確さだの思考体系だの真理の探求ではないと思っている。(中略)人生について考えることは、重要度において論理のような人工的なものをはるかに越えた事柄ではないだろうか。
もし、人の生き方を論理と効率性で割り切って考えてしまうのならば、結局のところは経済的損得勘定になってしまうだろう。そんな味気ない虚無主義的な人生を、私個人は人生と呼びたくない。(「はじめに」より)

とはいえ著者は、一生読んでも読みきれないほど存在する哲学書のすべてが素晴らしいわけではないことも認めています。有名な古典にも共感できないものはあるし、評価されていなくても素敵な哲学書もあるということ。
そして本書は、「その中のごく一部をひとつまみだけ借りてきて、わたしたちの生き方にからめてなにがしか書いてみたもの」なのだそうです。別な表現を用いるならば、「わたしたちが生きるにあたって何かの助けになるようなヒントの種を埋めたもの」。きょうは第2章「悩むな、考えろ」のなかから、「禅問答」についての考え方を引き出してみたいと思います。


価値判断から自由になる

禅は、一種の魅力を備えているように見えると著者はいいます。禁欲的で、静謐(せいひつ)で、真剣で、座禅している姿には風景を墨色に変えてしまうような迫力があり、神秘的で、沈黙を通しているのに多くの言葉を読み取ることができる。だから、まるで禅僧たちはアナザーワールドにいるかのようだというのです。

しかしその一方、過去の禅師たちの言行を収録した禅語録を読んでみると、得体の知れない気合いこそ伝わってくるものの、いまひとつ理解できないのだそうです。そればかりか、悟りという言葉が繰り返されるにもかかわらず、悟りがどういうものか明瞭に説明されてはいないというケースも少なくないのだとか。
説明に似たような対話や文章があるにはあるけれど、抽象的な詩のような説明であるため、現実感がなく理解が困難。だから、ひょっとしたら悟りとは幻想や妄想の類ではないか、禅問答はふざけた言葉遊びか、ナンセンスでしかないのではないだろうかという疑問が持ち上がってくるということ。こうした思いは、誰しも少なからず抱いた経験があるのではないでしょうか?(90ページより)


禅問答は意味をつかむためのものではない

たしかに現代社会では、「禅問答」という言葉は一種の揶揄として使われることが少なくありません。「まるで禅問答だな」というのは、理解しがたいという非難を含んだ皮肉であり、互いにわかったようなわからないような受け答えとか、まるで噛み合わない会話のことをからかっているわけです。
これは、禅師と僧侶たちの問答が一般には理解できなかったことに由来するだろうと著者は記しています。なぜ庶民に理解できなかったのかといえば、禅門でしか通じない特殊な言い回しや、庶民にはなじみの薄い漢語の多用、禅独特の論理や引用が多かったから。たとえば次のような短い禅問答も、意味が取りにくいわけです。

『無門関』第七 趙州洗鉢(じょうしゅうせんばつ) (西村恵信訳)
ある時、僧が趙州に尋ねた、「私はこの道場に入ったばかりの新米でございます。ひとつ尊いお示しを頂きたいと思います」。すると趙州が言われた、「朝飯はすんだかい」。僧が言った、「はい、頂きました」。そこで趙州が言われた、「それでは茶碗を洗っておきなさい」
僧はいっぺんに悟ってしまった。

『無門関』第十八 洞山三斤(とうざんさんぎん) (私訳)
ある僧が洞山和尚に訊いた。
「仏とは、いったいどのようなものでしょうか」
「仏か。仏とはここにある麻三斤」(麻の繊維1.8キロほど)
(ともに92ページより)

これらの禅問答は、修行僧を悟りに導く気づきを与えるためのもの。しかし読んでみればわかるとおり、一般の文章として素直に意味が理解できるものではありません。しかし、そこには理由があるようです。禅問答は意味をつかむためのものではなく、悟りの境地を示唆するものになっているから。なぜ端的にいい表さず、示唆しかしないかといえば、悟りの境地自体が、言語表現だけでは的確に説明できない状態だからだというのです。(91ページより)


悟リとは「無分別な生き方をする」こと

それでもなお、たとえば次のように、これまでの禅師たちは悟りの状態をなんとか言葉で伝えようとしてきたのだといいます。

「"無"の一字の別体験こそは、釈迦に逢うては釈迦を殺し(仏縛を破り)、達磨に逢うては達磨を斬って捨てる(祖師縛を破る)のであり、そのとき、君たちは生死無常の現世に在りながら、無生死の大自在を手に入れ、六道や四生の世界に在りながら、すでに平和と真実の世界に遊んでいる」(『無門関』第一 平田精耕訳) (93ページより)

「悟ってみれば、ものごとはすべて同じ身内の事柄だが、悟らないときは、一切がばらばらである。悟らなければ、ものごとはすべて同じ身内の事柄に見えるが、悟ってみれば、いちいちすべてがそれぞれの個性を有っている」(『無門関』第十六)

「好いと言うてもこれは好いという決ったものはなく、悪いと言うてもこれは悪いという決ったものもない。是非得失相対の世界を離れてきれいさっぱりとした処で、さあ言うて見るがよい。眼の前・背後にあるものはいったい何であろうか」(『碧厳録』巻第九 大森曹玄他訳) 
(ともに94ページより)

悟りの状態についてのこれらの描写は、ひとつのことで共通していると著者はいいます。それは、価値判断と相対性からの徹底した脱却だということ。
普通の生活において、私たちはたいていの場合、損得勘定、利害関係、慣習、社会的規範、善悪の分別、いっときの感情に動かされているもの。それが、分別のある生き方だとされているわけです。しかし著者によれば、悟りの道を往くというのは、無分別な生き方をするということ。ただし、この場合の無分別というのは「常識知らず」という意味ではなく、「価値判断と相対的思考をしない」という意味での無分別なのだとか。(93ページより)


相手の地位や自分との関係によって分けへだてしない

こうした無分別な生き方をすれば、アナザーワールドを自由自在に生きる楽しさが味わえるという考え方。それが、あらゆる禅語録の中心となっているのだということです。
なお、このアナザーワールドは、禅宗では、無、一如(いちにょ)、真如(しんにょ)、妙法、安楽の法門、本来の面目(めんもく)、非心非仏、廓然無聖(かくねんむしょう)、平常心(びょうじょうしん)、三昧境(さんまいきょう)、生死自在(しょうじじざい)、超凡越聖(ちょうぼんおっしょう)、大自在、真実の世界など、いろいろな呼ばれ方をしているのだそうです。
しかし、どれも漢語による表現だから難しく思えるだけで、意味内容は「超越」と「無分別」だけ。このことがわかれば、禅問答の意味もわかりやすいと著者は記しています。
物事も価値も分けへだてせず、相手に対してもその地位や存在によって分けへだてしないから、誰に会うことになっても、相手を人としてしか見ないということ。つまり、好き嫌いという感情を捨て、損得を捨て、「こっちにくらべてあっちがどうの」という比較や相対的な考え方を捨てる生き方のことだというのです。(95ページより)


特別な方法を求めず、いまをきちんと生きる

だから、特別なものはこの世にないということ。自分すらも特別ではなく、仏も神も、悟りですらも特別でありがたいものとはされないという解釈。しかし、なにもかもが特別ではないからこそ、なにもかもをないがしろにするということではないのだといいます。むしろ、あらゆるものが自分となるというのです。あるいは、あらゆるものがありがたくて尊い存在になるということ。
だから、先の例のような「飯を食ったら茶碗を洗う」という日常の事柄のひとつひとつが、このうえなく大事なものになるというわけです。若い僧が「いっぺんに悟った」のは、そのことに気づいたから。それまで若い僧は、和尚がいままで秘められていた悟りの道へのノウハウを教えてくれるのではないかと期待していたのです。ところが特別な秘法があるわけではなく、「いまをきちんと生きる」ことの大切さに気づいて目を開いたということ。そして、この考え方は現代人にもそのまま当てはまると著者は主張しています。


「わからない」ことをまず認めたうえで、簡潔な文章によってシンプルに解説しているからこそ、読み手も無理なく読み進めることができるはず。そうして自分自身の内部に吸収されたものは、なんらかの形で人生に影響を与えてくれることでしょう。

人生がうまくいく 哲学的思考術

人生がうまくいく 哲学的思考術

一日一言「幼児の心」

三月三日 幼児の心


 子供達のひな祭りの様子を見ていると、幼児の優しいここには学びたいものがある。大人も幼児のような心を失ってはならず、幼い子のような透明な心は、見習うべきものである。


 <明治天皇御製>
 思ふこと繕ふこともまだ知らぬをさな心のうつくしきかな

 思ふことうちつけにいふ幼子の言葉はやがて歌にぞありける

── 新渡戸稲造一日一言


小さな王子は言いました。

 おとなというものは、数字がすきです。新しくできた友だちの話をするとき、おとなの人は、かんじんかなめのことはききません。〈どんな声の人?〉とか、〈どんな遊びが好き?〉とか、〈チョウの採集をする人?〉とかいうようなことは、てんできかずに、〈その人、いくつ?〉とか、〈きょうだいは、なん人いますか〉とか、〈目方はどのくらい?〉とか、〈おとうさんは、どのくらいお金をとっていますか〉とかいうようなことを、きくのです。そして、やっと、どんな人か、わかったつもりになるのです。
 おとなの人たちに〈桃色のレンガでできていて、窓にジェラニュウムの鉢がおいてあって、屋根にハトのいる、きれいな家を見たよ・・・〉といったところで、どうもピンとこないでしょう。おとなたちには〈十万フランの家を見た〉といわなくてはいけないのです。すると、おとなたちは、とんきょうな声をだして、〈なんてりっぱな家だろう〉というのです。

── サン=テグジュペリ『星の王子さま』

ホムサにも曰く、

「その調子だと、おまえ、すぐにおとなになっちまうぞ」と、ホムサ兄ちゃんがさとしました。
「父さんや母さんみたいな、おとなになるんだ。おまえにゃ、ぴったりだぜ。ごくふつうに見て、ごくふつうに聞くだけのおとなだ。つまり、なーんにも見ないし、なーんにも聞かないってことだな。とどのつまり、おまえは、なんにもできなくなっちまうんだ。」

── 『ムーミン谷の仲間たち』

ムーミン谷の名言集

ムーミン谷の名言集

Le Petit Prince (French)

Le Petit Prince (French)

一日一言「慈眼慈心」

三月二日 慈眼慈心


 身分の高い低いを問わず、どんな人でもその心の内を察すると、かわいそうと思うことがある。自分の才能や家柄、地位、財産を得意になっている人も流行の女性歌手も、人の車に乗る旦那も、またその車を引く人も、みんなそれぞれ身の上を問いただしてみると、誰一人として悩みのない者はない。


  慈悲の目に憎しと思ふ人はなし
      科(とが)ある身こそ猶哀れなれ

── 新渡戸稲造(『一日一言』)



漱石先生に曰く、

のんきと見える人々も、心の底をたたいてみると、どこか悲しい音がする。

── 夏目漱石『吾輩は猫である』

吾輩は猫である (岩波文庫)

吾輩は猫である (岩波文庫)