「また会う日まで」
今日の『産経抄』より。
「【産経抄】また会う日まで 2月6日」(産経新聞)
→ http://www.sankei.com/column/news/170206/clm1702060003-n1.html
文芸記者だった小欄の先輩が、新聞連載の仕事で曽野綾子さん宅へ通い始めた頃の話である。用件が終わると、夫の三浦朱門さんが必ず顔を出す。美貌の奥さまに焼きもちをやかれているのではないか、と思ったそうだ。「誤解」はすぐに解けた。
三浦さんに用事がある時には、曽野さんが現れた。先輩は、三浦さんの論証と曽野さんの感性が奏でる見事な会話のハーモニーを大いに楽しんだ。「妻をめとらば曽野綾子」。三浦さんが色紙にこう記すと、曽野さんが見事な下の句を付け加えた。「あとは野となれ山となれ」。夫妻の共著、対談が多いのも当然である。
今月3日、91歳の天寿を全うした三浦さんは、阿川弘之さんや遠藤周作さんら作家仲間との交友録でも知られる。文化庁長官への就任も、2人にけしかけられたものだ。もっともあまりの忙しさに音を上げて、2人に相談した。
「阿川は『お前、まだやっているのか』と無責任なことを言う。遠藤にいたっては、『俺の息子はお前の仲人で結婚したからもういい』ですよ」。つまり、文化庁長官の肩書はもう必要ないというのだ。辞任に際して、ユーモアたっぷりに語っていた。
もちろん、お互いの文学を理解し、認め合った上での軽妙なやりとりだった。「神という主人もちでは、自由であらねばならぬ作家にとって致命的だという批判がありました」。遠藤さんの葬儀で、三浦さんが読んだ弔辞の一文である。
カトリック作家ゆえの遠藤さんの若き日の苦しみを伝え、強く記憶に残った。三浦さん夫妻も敬虔(けいけん)なカトリック教徒である。その葬儀では、『また会う日まで』という歌で死者を送るそうだ。三浦さんもこれまで見送ってきた多くの友と、再会を果たしているだろう。
三浦朱門
「作家の三浦朱門さんが死去 91歳 元文化庁長官 妻は曽野綾子さん 夫婦で正論大賞受賞」(産経新聞)
→ http://www.sankei.com/life/news/170205/lif1702050010-n1.html
元文化庁長官で作家の三浦朱門(みうら・しゅもん)さんが3日午前6時50分、肺炎のため、亡くなった。91歳。葬儀・告別式は近親者で営んだ。喪主は妻で作家、曽野綾子(その・あやこ=本名・三浦知寿子=みうら・ちずこ)さん。
大正15年、東京生まれ。「朱門」の名前はイタリア文学者だった父・三浦逸雄氏が十二使徒の一人、シモン・ペテロから付けたという。旧制高知高校を経て、東大文学部卒。
昭和26年に「画鬼」(のちに「冥府山水図」)を発表し、「第三の新人」の一人として活躍。28年に同人仲間だった曽野綾子さんと結婚した。42年、「箱庭」で新潮社文学賞を、58年には「武蔵野インディアン」で芸術選奨文部大臣賞を受賞。日大芸術学部では教授を務めた。エッセーも多く、著書は100冊を超える。「第四次元の小説」など、翻訳も手がけた。60~61年に文化庁長官を、63~平成6年に日本文芸家協会理事長を務めた。11年、正論大賞。同年、文化功労者にも選ばれている。16年から26年まで、日本芸術院院長も務めた。
産経新聞では昭和50~51年の夕刊に「雑草の花」、59~60年の朝刊に「風のまにまに」を連載。昭和天皇の崩御に際して平成元年、「天皇の昭和」を220回にわたって朝刊に連載し、実証主義的な精神を欠いて国民が自己を見失った先の大戦の問題点を冷静に洗い出した。
また本紙「正論」欄などで、左右に偏らない常識的で毅然とした言論活動を展開した。
『2016年10月01日(Sat) 汚辱にまみれても生きよ』 http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20161001
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実は、どんなに用意しようと、私たちはやがて目がかすみ、耳が遠くなり、すべての機能が悪くなる。本当の老年の到来を迎えた時、私はたった一つの態度しか思いうかべることができない。それは汚辱にまみれても生きよ、ということである。
「風になぶられるしなやかな髪、みずみずしい唇」の少女の日も、それは一つの状態であった。目も耳もダメになり、垂れ流しになりながら苦痛にさいなまれることも、しかし、やはり一つの人間の状態なのである。願わしい状態ではないが、心がけの悪さゆえにそうなるのではないのだから、どうして遠慮することがあろう。
人間らしい尊敬も、能力もすべて失っても人間は生きればいいのである。尊敬や能力のない人間が生きていけないというのなら、私たちの多くは、すでに青春時代から殺されねばならない。
平安の主義
教育の目的は、人生を発達して極度に導くにあり。そのこれを導くは何のためにするやと尋ぬれば、人類をして至大の幸福を得せしめんがためなり。その至大(しだい)の幸福とは何ぞや。ここに文字の義を細かに論ぜずして民間普通の語を用うれば、天下泰平・家内安全、すなわちこれなり。今この語の二字を取りて、かりにこれを平安の主義と名づく。人として平安を好むは、これをその天性というべきか、はた習慣というべきか。余は宗教の天然説を度外視する者なれば、天の約束というも、人為(じんい)の習慣というも、そのへんはこれを人々(にんにん)の所見にまかして問うことなしといえども、ただ平安を好むの一事にいたりては、古今人間の実際に行われて違(たが)うことなきを知るべきのみ。しからばすなわち教育の目的は平安にありというも、世界人類の社会に通用して妨(さまたげ)あることなかるべし。
そもそも今日の社会に、いわゆる宗旨なり、徳教なり、政治なり、経済なり、その所論おのおの趣(おもむき)を一にせずして、はなはだしきは相互(あいたがい)に背馳(はいち)するものもあるに似たれども、平安の一義にいたりては相違(あいたが)うなきを見るべし。宗旨・徳教、何のためにするや。善を勧めて精神の平安をいたすのみ。政治、何のためにするや。悪を懲(こ)らし害を防ぎて、もって心身の平安を助くるのみ。経済、何のためにするや。人工を便利にして形体の平安を増すのみ。されば平安の主義は人生の達するところ、教育のとどまるところというも、はたして真実無妄(むもう)なるを知るべし。
1901年(明治34年)2月3日 福澤諭吉 没
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私は、もう、ねむい。
あつちへ行つてくれ。
私は、もう、ねむい。
小説を読むなら、勉強して、偉くなつてから、読まなければダメですよ。陸軍大将になつても、偉くはない。総理大臣になつても、偉くはないさ。偉くなるといふことは、人間になるといふことだ。人形や豚ではないといふことです。
小説はもともと毒のあるものです。苦悩と悲哀を母胎にしてゐるのだからね。苦悩も悲哀もない人間は、小説を読むと、毒蛇に噛まれるばかり。読む必要はないし、読んでもムダだ。
小説は劇薬ですよ。魂の病人のサイミン薬です。病気を根治する由もないが、一時的に、なぐざめてくれるオモチャです。健康な豚がのむと、毒薬になる。
私の小説を猥セツ文学と思ふ人は、二度と読んではいけない。あなたの魂自身が、魂自体のふるさとを探すやうになる日まで。
私の小説は、本来オモチャに過ぎないが、君たちのオモチャではないよ。あつちへ行つてくれ。私は、もう、ねむい。
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一日一言「心は隠すことができない」
二月一日 心は隠すことができない
一事が万事、何気なく言ったひと言や、ちょっとした行動に、その人の性格がよく表れるものである。人はそれを隠そうとしてもできるものではなく、慎むべきことは、言動よりも常に心を正常に保つよう心がけることである。
さし出る鉾先折れよ物毎に
己が心を金槌として <鈴木正三>
心とて人に見すべき色ぞなき
たゞ行と言の葉に見ゆ
漱石先生かく語りき。
真面目というのはね、つまり実行の二字に帰着するのだ。口だけで真面目になるのは、口だけが真面目になるので、人間が真面目になったんじゃない。君という一個の人間が真面目になったと主張するなら、主張するだけの証拠を実地に見せなけりゃ何にもならない。
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「日本は『良い国』か『悪い国』か」
「【正論】日本は『良い国』か『悪い国』か 自虐思考洗脳が使命のメディア、正論派は井の中の蛙の合唱 東京大学名誉教授・平川祐弘」(産経新聞)
→ http://www.sankei.com/column/news/170131/clm1701310007-n1.html
≪憐みもたれたハーンの死≫
日本は「良い国」か「悪い国」か。明治29年、ラフカディオ・ハーンが小泉節子と結婚、わが国に帰化するや、在留西洋人はHearn went native(ハーンは土民になった)と騒いだ。19世紀の末、白人文明の優位は当然視されていた。それだから日本の女を妻とし英国籍を捨てた男は強い違和感を与えたのである。そんな陰口をきく連中とハーンは交際を絶った。それもまた悪評の種となった。
明治37年、ハーンが東京で死ぬや「お気の毒」と西洋人は言い出した。「彼の一生は夢の連続で、それは悪夢に終わった。情熱のおもむくままに日本に帰化し小泉八雲と名乗ったが、夢からさめると間違ったことをしでかしたと悟った」。B・H・チェンバレンが『日本事物誌』第6版に印刷したこの言葉が、西洋で定説となる。
フランス大使クローデルも「薄幸なハーン」と呼んだ。タトルの叢書(そうしょ)のハーンは戦後よく売れたが、背表紙に「彼の晩年は幻滅と悲哀に満ちていた」とある。若い日にハーンを愛読したバーナード・リーチは86歳の昭和48年「かわいそうなハーン、彼は友もなく死んでしまった」と詩に書いた。
ハーンに惹(ひ)かれて日本研究に進んだベルナール・フランクも20世紀の末年、パリのラジオで日本で生を終えたハーンを憐れんだ。いずれも本気でそう思ったのだろう。
≪名作を生んだ節子との合作≫
だが、ハーンの晩年は本当に惨(みじ)めだったのか。日本字の読めないハーンは怪談の題材を妻の口述から得た。節子が怪談を話すときはランプの芯を暗くし、夫人の前に端座して耳をすました。話が佳境に入ると顔色を変え「その話怖いです」とおののき震えた。ハーンは素読される書物の記事には興味は示さず、すべての物語は夫人自身の主観的な感情や解釈を通じて実感的に話さねばならなかった。「本を見る、いけません。ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考えでなければいけません」
それ故、多くのハーンの著作は、書物から得た材料とはいえ、妻によって主観的に翻案化され、創作化されたものを、さらにハーンが詩文化したものである。
あるとき万葉集の歌を質問され、答えることができず夫人は泣いて無学をわびた。するとハーンは黙って節子を書架の前に導き、著作を見せ、この自分の本はいったいどうして書けたと思うか。みな妻のお前のおかげで、お前の話を聞いて書いたのである。「あなた学問あるとき、私この本書けません。あなた学問ない時、私書けました」と言った。
こんな二人の間柄を知ると、晩年のハーンを不幸とする説は根拠がないことがわかる。だが日本に帰化した西洋人が幸せなはずはない、とする固定観念が先にあったから、不幸説が世界にまかり通ったのである。実際の晩年は、萩原朔太郎が右に述べた通り、節子とハーンの世にもまれな協力の中に過ごされたのである。
ただ、人一倍感じやすいハーンの気持ちが激しく揺れたのも事実で、ある日は日本を憎み、翌日は日本を愛情で包み込んだ。熊本時代、西洋文学を教えたことで西洋の偉大を再確認したハーンは、西洋への回帰の情に襲われた。だがそんな彼だからこそ、西洋に深くつかった日本人が「ある保守主義者」として祖国へ回帰する心理もまた理解し得たのである。
≪固定観念はしみついたまま≫
日本をいい国と思う人が内外で増えている。大陸と地続きでない。そんな僥倖(ぎょうこう)に恵まれ難民が押し寄せず、テロの脅威も少ない。反対意見を容赦せぬ近隣諸国と違い言論自由である。一党独裁もなければ一神教の排他的支配もない。日本人と結ばれた外国人男女が晩年をわが国で過ごしたいと願いだしたのは、他国に比べてまだしも老人に優しい社会で、楽しいことも存外多いからである。
私は日本に暮らしてまあ良かったと感じる。それは客観性のある変化で、たとえば2011年、ドナルド・キーン氏が日本に帰化した。それを鼻白む米国人はいたが「nativeになった」とはもう誰もいわない。壮年時のキーン氏は来米日本人が「東京の方が治安がいい」と自慢すると、たといそれが事実であろうと、腹を立てた。そんな愛郷心の強かったニューヨークっ子がいま日本を終(つい)の棲家(すみか)にしようとしている。敗戦直後に来日した米国人のだれがそんなことを考えたか。やはり日本はまあ良くなったのである。
70年前の日本は自信喪失で、インテリは欧米を謳歌(おうか)し、ソ連や人民中国を讃(たた)え大活躍した。しかしベルリンの壁は崩壊し、社会主義幻想は消えた。共産国御用の学者先生は失業した。でも「日本は悪い国だ」という固定観念はしみついたままである。こんなままだと、やはり日本は駄目な国か。若者を自虐思考の方向に洗脳するのが使命だと心得る増上慢のマスメディアは、東京裁判史観の再生産にいそしんでいる。それに我慢ならず愛国主義を唱える正論派もいるが、そちらはそちらでおおむね井の中の蛙(かわず)の合唱のようである。
賢人に曰く、
日本人が日本を愛するのは、日本が他国より秀れてをり正しい道を歩んで来たからではない。それは日本の歴史やその民族性が日本人にとつて宿命だからである。
人々が愛国心の復活を願ふならば、その基は宿命感に求めるべきであつて、優劣を問題にすべきではない。日本は西洋より優れてゐると説く愛国的啓蒙家は、その逆を説いて来た売国的啓蒙家と少しも変わりはしない。その根底には西洋に対する劣等感がある。といふのは、両者ともに西洋といふ物差しによつて日本を評価しようとしてゐるのであり、西洋を物差しにする事によつて西洋を絶対化してゐるからである。