NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

戦艦大和ノ最期

昭和54年(1979)9月17日 吉田満 没


戦艦大和の生き証人。


戦艦大和ノ最期』より、臼淵大尉の言葉。


すでに勝ち目のない戦争。

国の為に死ねるのなら本望というA。
死ぬことの意義がわからない、無駄死にだとするB。
青年将校たちは、互いの死生観を戦わせ、乱闘寸前のやり場のない議論を繰り返します。

A:「国のため、君のために死ぬ。それでいいじゃないか。それ以上になにが必要なのだ。もって瞑すべきじゃないか」

B: 「君国のために散る。それは分かる。だが一体それは、どういうこととつながっているのだ。俺の死、俺の生命、また日本全体の敗北、それを更に一般的な、普遍的な、何か価値というようなものに結び付けたいのだ。これらいっさいのことは、一体何のためにあるのだ」

A: 「それは理屈だ。無用な、むしろ有害な屁理屈だ。貴様は特攻隊の菊水のマークを胸に付けて、天皇陛下万歳と死ねて、それで嬉しくはないのか」

B: 「それだけじゃ嫌だ。もっと、何かが必要なのだ」

A: 「よし、そういう腐った性根を叩きなおしてやる」


しかし、哨戒長臼淵大尉の一言がこの議論を収束させます。

「 進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじすぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。敗れて目覚める。それ以外に、どうして日本は救われるか。今、目覚めずしていつ救われるか。俺たちは、その先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか」

室長臼淵大尉、直撃弾ニ斃ル 一片ノ肉、一滴ノ血ヲ残サズ。

── 吉田 満(『戦艦大和ノ最期』

戦艦大和ノ最期 (講談社文芸文庫)

戦艦大和ノ最期 (講談社文芸文庫)


『2005年08月16日(Tue) 「15日目」』 http://nakamoto.hateblo.jp/entry/20050816 (大和ミュージアム


 もとより死にたくないのは人の本能で、自殺ですら多くは生きるためのあがきの変形であり、死にたい兵隊のあろう筈はないけれども、若者の胸に殉国の情熱というものが存在し、死にたくない本能と格闘しつつ、至情に散った尊厳を敬い愛す心を忘れてはならないだろう。我々はこの戦争の中から積悪の泥沼をあばき天日にさらし干し乾して正体を見破り自省と又明日の建設の足場とすることが必要であるが、同時に、戦争の中から真実の花をさがして、ひそかに我が部屋をかざり、明日の日により美しい花をもとめ花咲かせる努力と希望を失ってはならないだろう。

 母も思ったであろう。恋人のまぼろしも見たであろう。自ら飛び散る火の粉となり、火の粉の中に彼等の二十何歳かの悲しい歴史が花咲き消えた。彼等は基地では酒を飲み、ゴロツキで、バクチ打ちで、女たらしであったかも知れぬ。やむを得ぬ。死へ向かって歩むのだもの、聖人ならぬ二十前後の若者が、酒を飲まずにいられようか。せめても女と時のまの火を遊ばずにいられようか。ゴロツキで、バクチ打ちで、死を恐れ、生に恋々とし、世の誰よりも恋々とし、けれども彼等は愛国の詩人であった。いのちを人にささげる者を詩人という。唄う必要はないのである。詩人純粋なりといえ、迷わずにいのちをささげ得る筈はない。そんな化け物はあり得ない。その迷う姿をあばいて何になるのさ何かの役に立つのかね?

 我々愚かな人間も、時にはかかる至高の姿に達し得るということ、それを必死に愛し、まもろうではないか。軍部の欺瞞とカラクリにあやつられた人形の姿であったとしても、死と必死に戦い、国にいのちをささげた苦悩と完結はなんで人形であるものか。

 青年諸君よ、この戦争は馬鹿げた茶番にすぎず、そして戦争は永遠に呪うべきものであるが、かつて諸氏の胸に宿った「愛国殉国の情熱」が決して間違ったものではないことに最大の自信を持って欲しい。
 要求せられた「殉国の情熱」を、自発的な、人間自らの生き方の中に見出すことが不可能であろうか。それを思う私が間違っているのだろうか。

── 坂口安吾『特攻隊に捧ぐ』