NAKAMOTO PERSONAL

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「なぜ日本の天皇は125代も続いてきたのか」

「なぜ日本の天皇は125代も続いてきたのか」(東洋経済オンライン)
 → https://toyokeizai.net/articles/-/255911

来る2019年4月、天皇生前退位が行われ、平成の時代が幕を下ろします。高齢と健康上の理由で天皇としての公務を果たすことが難しくなったためですが、天皇生前退位は119代光格天皇以来、実に202年ぶり。私たちは歴史の転換点に立っているのです。
しかし、どれだけの人が「天皇制」についてしっかりと理解しているでしょうか。それを知るには近現代の天皇を知るだけでなく、過去の歴史をひも解く必要があります。
ニュースの"なぜ"は日本史に学べ 日本人が知らない76の疑問』を上梓したスタディサプリの人気講師が、歴史をひも解きながら、「天皇」の存在に迫ります。

 みなさんは日本が、「世界唯一の単一王朝国家」だと呼ばれていることをご存じでしょうか。

 これは、今上帝(在位中の天皇をこう呼ぶ)まで125代、2700年にわたって万世一系天皇が存在しているということを指しています。たしかにヤマト政権(のち律令国家の「朝廷」)は、一度も王朝交代は行われていません。

 世界にこのような体制は存在せず、ローマ帝国でさえ1000年強の歴史です。どれだけ珍しいかがおわかりいただけるのではないでしょうか。

 大王(のち天皇)が125代連続で確実につながっているかどうかは不明です。少なくとも初代の神武天皇から25代目の武烈天皇までは、実在していたかどうかはっきりとはわかりません。ある程度正確に把握できているのは、26代目の継体天皇からです。最初の頃は、『古事記』や『日本書紀』の神話世界ですから。それでも、100代ほどにわたり万系一世で続いているというのは、驚異的なことです。


日本ではなぜ単一王朝が続いたか
 日本が他国に乗っ取られたことがないことも、背景にあります。太平洋戦争後、GHQ連合国軍総司令部)すなわちアメリカ軍に一時的に占領されたとはいえ、外圧によって天皇の存在自体が途絶えることはありませんでした。

 では、内圧はどうでしょう。なぜこれだけの間、単一王朝の継続が可能だったのでしょうか。実は、歴代天皇の処世術にその答えがあります。時代をさかのぼってひも解いていきたいと思います。

 天皇号の始まりは、飛鳥時代(=古墳時代終末期)です。672年の壬申の乱に勝利した大海人皇子が、従来の「大王」にかわり天武「天皇」と称し即位しました。大王は、ヤマト政権内の「王」である各豪族のリーダー的存在だったのに対し、天皇はその次元を超えた“別格の存在”です。

 当時の天武天皇や、妻の持統天皇は強大な権力者で、皇子(親王)たちが補佐をし、自ら政治を執り行っていました(=皇親政治)。

 奈良時代になると、天皇の下で「藤原不比等長屋王藤原四子橘諸兄藤原仲麻呂道鏡藤原百川」と、政権が目まぐるしく入れ替わり、最終的には藤原氏が最有力となります。しかし、あくまでもトップは天皇で、地位や権威は安泰でした。

 平安時代に少し様子が変わります。858年、清和天皇が9歳で即位すると、母方の祖父である藤原良房が、幼少の天皇の政務を代行する「摂政」に就任しました。そして良房の養子基経は、884年に光孝天皇が55歳で就任すると、成人後の天皇を補佐する「関白」に初めて就任。これが「摂関政治」の始まりです。

 天皇が処世術として長けていたのは、摂関政治が始まると、母方の親戚(=外戚)である藤原氏に、政務だけを任せた点です。形式的に権威は保った状態のままですから、悪い話ではありません。

 一方、藤原氏天皇を排除して名実ともにトップに立とうとは考えませんでした。圧倒的な権威(金メダル)を持つ天皇外戚として、政務を代行・補佐しているからこそ摂政や関白に価値があり、転じて自らの権威付け(銀メダル)もできます。天皇の価値をあえて下げ、貴族の分際で暫定トップに立つことには、メリットがなかったのです。このようなスタンスで、11世紀前半の平安時代後期には、藤原道長・頼通親子により摂関政治は全盛期を迎えます。

 このように、変化する政治状況を巧みに利用しながら、古代の天皇は自らの地位や権威をキープし続けたのです。


摂関政治」「院政」と天皇
 さて、平安時代末期、中世に突入すると、もと天皇により「院政」が始まります。外戚(=母方の父や伯父・叔父)として藤原氏の摂政・関白もいるのですが、父や祖父が皇位を退いたあとも新天皇の後ろ盾となり、政務をみることが常態化しました。

 国民的アニメ『サザエさん』を例に、摂関政治院政を説明してみましょう。

 フグ田家のタラちゃんが天皇の場合、同居する磯野家の波平やカツオ(=母方の祖父や叔父)が摂政や関白を務めるのが摂関政治。磯野家が外戚藤原氏にあたるわけです。一方の院政は、フグ田家すなわち皇室内の話です。もと天皇のマスオさんが新天皇のタラちゃんを擁し上皇として院政を敷くというイメージです。

 院政は、新天皇に圧倒的な権威(金メダル)を引き継ぐ際、もと天皇がメダルを首にかけてあげ、そのまま抱っこしている感じ。藤原氏から反発を買うことはありませんでした。なぜなら、摂政・関白という地位(銀メダル)を取り上げなかったからです。貴族ナンバーワンという立場は保障されています。

 1086年、白河天皇が8歳の子(堀河天皇)に皇位を譲り、上皇太上天皇のち出家して法皇)となったのが院政の初めです。この後、鳥羽上皇後白河上皇後鳥羽上皇などが院政を続けます。

 中世に院政が行われている間(後醍醐天皇の親政など例外はありますが)、鎌倉幕府室町幕府といった武家政権が誕生します。幕府は朝廷より軍事的には強大なパワーをもち、実質的に全国を支配していたわけですが、天皇上皇にとって代わろう、排除しようとはしませんでした。

 源頼朝にしても足利尊氏にしても、朝廷から賜った「征夷大将軍」という地位(銅メダル)で満足していました。なぜなら、権威(金メダルや銀メダル)を持つ朝廷から将軍に任命されることに価値があったからです。新興勢力である武家は自らを裏付ける伝統的な権威がなく、軍事力だけで政権は長続きしないことを知っていたのです。

 このように朝廷の天皇上皇)は、軍事力や経済力で上回る幕府の将軍に対し、ある程度の権威を承認するという方法で、自らの地位や権威を維持するようになったのです。クレバーな処世術といえるでしょう。

 戦乱期を経た近世の江戸時代も、基本的なスタンスは同じです。江戸幕府は圧倒的に強い存在でしたが、天皇は、政権を将軍に委任する伝統的権威の象徴として生き残りました。幕末の大政奉還も、「幕府の将軍が朝廷の天皇から預かった政権をお返しする」という構図ですね。

 朝廷の天皇は、その時点で最も強い勢力を持つ人物を積極的に承認することで権威を保ち続け、生き延びてきました。これは相対する勢力と直接戦って、やがて滅びていく運命をたどったヨーロッパの王朝とは、大きく異なる点なのです。

 基本的に天皇が率いる朝廷は処世術に長けていて、幕府と持ちつ持たれつの関係をキープしながら単一王朝を維持してきたといえるでしょう。


天皇とは日本人にとってどんな存在か?
 巨大な経済力・軍事力をもつ江戸幕府は、その気になれば朝廷を滅ぼすこともできたはずです。なぜ、そうしなかったのか。すでにおわかりでしょう。

 ここまで述べてきたように、朝廷の天皇と有力な権力者は、持ちつ持たれつの関係を維持してきました。朝廷は時の権力を承認することで利用し、一方の権力者は天皇の権威を借りることで統一を進めました。権力者は天皇に権威づけてもらわなければ国をまとめ、政権を維持することができなかったのです。

 それゆえ、朝廷の天皇勢力が当時の権力者に本気で逆らった「承久の乱」や「建武の新政」の際も、朝廷の天皇そのものを滅ぼすという発想はありませんでした。

 これは細かく歴史を振り返ってみても、終始一貫した日本独自の国民性といえます。

 たとえば、飛鳥時代蘇我馬子。当時は相当な権力者でしたが、本人が大王になろうとまではしませんでした。平安時代藤原道長平清盛もそう。2人とも、自分の娘を天皇に嫁がせて外戚となり、権威を利用しただけです。

 室町幕府の3代将軍・足利義満も、天下統一直前だった織田信長も、天皇になろうとか排斥しようと思ったことはありません。天下を統一した豊臣秀吉も、朝廷を滅ぼすだけの力を持っていましたが、あえて関白に就任しています。天皇の補佐をすることで、農村の足軽出身という出自の低さをリカバーしようとしました。

 日本史上最強である徳川家康の一族でさえも、朝廷の天皇から代々征夷大将軍内大臣に任命される道を選び、朝廷を潰そうとはしませんでした。

 明治時代以降も、どんなにいいポジションにいても、誰一人として天皇に成り代わろうと考えた人物はいないのです。

 そういう意味では、太平洋戦争後、GHQマッカーサー天皇制を維持した判断は正しかったといえます。天皇や国のために神風特攻隊や人間魚雷として命を投げ出すような国民ですから、天皇制を廃止してしまったら何をするかわからないし、日本はまとまらないと考えた背景には、これだけの歴史があったのです。

天皇畏るべし 日本の夜明け、天皇は神であった

天皇畏るべし 日本の夜明け、天皇は神であった


今日は天皇誕生日

「【主張】天皇誕生日 平成振り返り感謝したい」(産経新聞
 → https://www.sankei.com/column/news/181223/clm1812230001-n1.html

 天皇陛下は、85歳の誕生日を迎えられた。国民と苦楽をともにし、歩まれてきた陛下に、心からお祝いと感謝を申し上げたい。

 来春の譲位を控えて、平成最後の天皇誕生日である。陛下は、これに先立つ記者会見で「象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝する」と述べられた。常に国民を思うお気持ちが察せられる。

 陛下は平成15年に前立腺がんの手術、24年には心臓のバイパス手術を受けるなど大きな病を経験された。ご高齢にもかかわらず、長くお務めに精励されてきた。

 そのお姿に、どれだけ国民が勇気づけられたことだろう。

 7年の阪神大震災、23年の東日本大震災など、大災害があれば、皇后さまとともに現地に赴き、避難所の床に膝をつき、被災者に声をかけ励まされた。

 今年も災害の多い年で、西日本豪雨や北海道地震の被災地などを訪問されている。

 先の大戦戦没者の「慰霊の旅」も続けられてきた。

 戦後50年の節目に広島、長崎、沖縄などを訪問された。戦後60年にはサイパン島、戦後70年にはパラオペリリュー島など、遠い激戦の地にも足を運ばれた。

 諸外国との親善交流などで果たされてきた役割は計り知れない。陛下の歩みとともに、平成史を改めて振り返る機会としたい。

 日々のご公務などは多く、激務である。目に見える以外にも、宮中祭祀(さいし)を通じ、国民の安寧と豊穣(ほうじょう)を祈られている。

 古来、国民は「大御宝(おおみたから)」といわれる。

 天皇は国民のために祈り、国民は天皇に限りない敬意と感謝の念を抱いてきた。それが日本の歴史と国柄である。「祈り」は天皇の本質的、伝統的役割であることを国民は知っておきたい。

 陛下は皇室の伝統を守りつつ、時代を踏まえて行動され、国民の支持を集めてきた。

 記者会見では、ともに歩まれてきた皇后さまへの感謝も明かされた。来年、ご結婚から60年を迎える。皇位を継がれる皇太子さまの誕生日は2月23日である。

 天皇は日本国と国民統合の象徴であり、皇位が安定して続いていくことは国民の願いである。皇室に一層の理解を深め、弥栄(いやさか)を祈りたい。