NAKAMOTO PERSONAL

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ホンダよ、本田宗一郎の魂を今こそ

「ホンダよ、本田宗一郎の魂を今こそ。F1での『負け癖』を払拭するため。」(NumberWeb)
 → http://number.bunshun.jp/articles/-/831714

「もしオヤジが生きていたら、みんなボコボコに殴られていたでしょうね」

 オヤジとは、ホンダの創業者である本田宗一郎のこと。そして、この言葉はその長男の本田博俊が今年のフランスGPに視察に来ていた際に、ホンダの現状を見て放ったセリフだった。

 もちろん、殴れば速くなるほど、F1が単純だとは博俊も思ってはいない。彼も、かつては自ら興した無限という会社でエンジンをメンテナンスし、F1に挑戦した経験を持っている。'96年のモナコGPで、リジェに搭載した無限ホンダ・エンジンは、並み居る強豪を退けてトップチェッカーを受けた。

 日本のエンジンメーカーでF1のレースに優勝したのは、ホンダと無限ホンダだけ。ドライバーでなく、エンジンメーカーの社長として親子でF1を勝ったのは、本田宗一郎&博俊だけだ。

 その博俊が、乱暴な言葉を使うことができるのは、彼がホンダの社員でもなければ、ホンダで働いたことさえない部外者だからだ。宗一郎は同族会社に入って大きな間違いを犯さないよう、博俊がホンダに入ることを禁止した。

 冒頭の言葉は、筆者には「私が社長だったら、ボコボコに殴っていたでしょうね」と聞こえた。


実力でホンダが勝ったのは……。
 じつはいまのホンダのF1活動が低迷している原因は、そこにあるのではないかと感じているからだ。それは「負け癖」だ。

 ホンダがF1で最後に勝利したのは、2006年のハンガリーGP。しかし、それはタイトル争いを演じていた有力ドライバーが相次いでリタイアした末に巡って来たチャンスをものにした結果。実力でもぎ取った勝利ではなかった。

 それは第3期と呼ばれる2000年から'08年までの9年間で1勝しかできなかったことが物語っている。

 実力でホンダが勝った最後のレースは、第2期の最後のレースとなった'92年の最終戦オーストラリアGPではないだろうか。つまり、ホンダはF1で26年間、負け続けていることとなる。


'80年代も初めは問題だらけで。
 そのホンダに今年から加わったのが、HRD Sakura担当の執行役員の浅木泰昭だった。浅木はホンダの大ヒット軽自動車である「N BOX」の開発責任者だが、じつは'80年代のF1活動に関わっていた人物で、ホンダが輝いていた時代を知る、いまのホンダでは数少ない人物だ。

 しかし、浅木は'80年代もF1活動を始めた当初は、状況はいまとそんなに変わらなかったという。

「私が初めてF1の仕事をした'80年代も初めのうちは問題だらけで、まったく勝てる雰囲気はなかった。そういう光が見えないような状況でも、ずっともがきながら開発を続けていた。

 レースというのは、闇の中での戦い。闇の中で、もがきながら光を手繰り寄せようという努力が人材を育てる。そういう経験が会社が厳しい状況になったときに、会社の役に立つ人間になるのだから」


光を求めた結果、N BOXが。
 こうして開発されたのが、N BOXだった。
「N BOXの開発を始めたとき、ホンダが軽自動車を作ると割高になるので、安さが勝負の軽自動車の世界でホンダが戦えるはずがない、という声が少なくなかった。撤退した方がいいんじゃないかとも言われました。まさに闇だった。でも、光を求めて必死にやった」(浅木)

 しかし、闇はそこに留まり続けると、やがて目が慣れて闇ではなくなり、闇にいるという自覚さえなくなってしまう。負け癖とは、そういうことなのかもしれない。

 それに気づいたのが、'16年からホンダのモータースポーツ部長として、F1活動を統括している山本雅史だった。


ホンダがレースに参加する意味。
「真のリーダーというのは、今われわれは闇の中にいるということをスタッフに認識させ、どうすれば光が差すかを考えさせられる人間。そういう人がリーダーでないと、いまやっていることが正しいと勘違いし、新しいことにチャレンジしないし、前進もしない。

 ホンダがレースに参加するのは、そのため。結果がすぐ出るから、負ければ、即、闇へ放り込まれる。でも、闇にいることさえわかっていないのなら、それを悟らせる人物が必要だと感じた。それが浅木です」(山本)

 勝負をすれば、必ず敗者が生まれる。しかし、勝利を目指して敗れることと、勝てないと思いつつ負けることは、まったく違う。同じ敗者でも、私たちは美しき敗者を見たい。