NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

「努力は報われる? 報われない?」

「『努力は報われる? 報われない?』 不毛な論争にキッパリ終止符を打つ!」(ダ・ヴィンチニュース)
 → https://ddnavi.com/review/449173/a/

「努力したら負け」
 表紙に大きく書かれたキャッチコピーに思わず食いついてしまった。努力がなにより嫌いな私が書店で手に取ったのは、『努力不要論』(中野信子/フォレスト出版)。本書序盤では、あの明石家さんまがラジオ番組で語ったという、努力に関する持論が引用されている。

「努力は報われると思う人はダメですね。努力を努力だと思ってる人は大体間違い」

「できることなら努力したくない」と思う私のような人間にとって、これは嬉しいニュースである。本書を記したのは、脳科学者・医学博士である中野信子氏。科学的観点からのみならず、歴史的観点からも「いかに我々が努力に踊らされているか」が記されている。

 今日はその中から、努力はなぜ不要なのか、また、努力の代わりに一体何をしたらいいのかを中心として本書のエッセンスを紹介していきたい。


■いままで「努力」だと思い込んできたものの実態とは?
●努力が報われない理由には2種類ある
 努力が報われない理由には、「(1)そもそも努力になっていない」「(2)努力の方向が間違っている」という2通りがある。具体的に例を挙げるとそれぞれ「筋トレしているつもりがきちんと負荷がかかっていない」「余計に鍛えすぎて体に故障が出た」といったものだ。
 本人はちゃんと努力していると思っていても、これではただむなしいだけだろう。


●がむしゃらに努力すれば良いわけではない
 本当の努力というものは、(1)目標を設定する、(2)戦略を立てる、(3)実行する、という3段階のプロセスを踏むことである。このなかのどれが間違っていても成立しない。これを無視してただ「努力すれば報われる」と思っているのは、お門違いということだ。


●努力は人をダメにする
 本書では「努力が人をダメにする」例として、アラフォー女性の婚活が挙げられている。「専業主婦になりたい」という目標を胸に、エリートをつかまえるために仕事をバリバリがんばり、自分磨きをしている女性もいるかもしれない。だが自分のお嫁さんには専業主婦になってもらいたい男性というのは、キャリアウーマンを敬遠するのだという。
 とにかく人は「努力に酔っている」状態に陥りやすい。それで満足してしまい、あるいは疲れるばかりで、本来掲げていた目標には近づいていないのではないだろうか。


■努力の代わりに身につけるべき才能とは?
○他人の才能をつかいこなす
 本書では中国の有名な古典『水滸伝(すいこでん)』の逸話を例に挙げている。主人公・宋江(そうこう)の周りには豪傑がたくさん集まっていて、豪傑たちはそれぞれに特技があるのだが、宋江自身には突出した何かはない。ではなぜこの男がリーダーでいられるのか? それは、彼に「人を見抜く力」という才能があるからだという。

 著者が「努力」の代わりに提唱しているのが「人の力を借りる」ことである。自分の得意と不得意を把握し、できないことはお願いして動いてもらう。自分でできることを優先的にやり、才能を伸ばし、力を付ける。そうすれば目標への道筋もできるだろう。
 自分ひとりで何でもやろうとするのは、無駄で、間違った努力なのだ。


○人の生き方を真似する
 努力の代替案として、「人の生き方を真似する」という方法も挙げられている。自分の特性に似ている有名な人物を探して、そのメソッドを真似する。すると先行モデルがあるので道に迷いにくくなり、効率が良い。努力があちらこちら余計な方向に向かずに済むのだ。

 著者は、「努力は報われるというのは半分本当で半分ウソ」と結論づける。それは、「正しい努力」には価値があるが、私たちが信じているのは往々にして「間違った努力」だからだ。できないことはそれができるという人に任せ、自分は自分でできることに夢中になる――その先に、努力するよりもカッコイイ未来が待っているかもしれない。


露伴先生が言うには、努力には2つある。「一は直接の努力で、他の一は間接の努力である。」
努力が報われないのは「それは努力の方向が悪いからであるか、しからざれば間接の努力が欠けて、直接の努力のみが用いらるるためである。」
しかし、「努力して努力する、それは真のよいものではない。努力を忘れて努力する、それが真の好いものである。」


久しぶりに『努力論』でも。


『初刊自序』(抜粋)

 努力とは一である。しかしこれを察すれば、おのずからにして二種あるを観る。一は直接の努力で、他の一は間接の努力である。間接の努力は準備の努力で、基礎となり源泉となるものである。直接の努力は当面の努力で、尽心竭力(けつりょく)の時のそれである。

 人はややもすれば努力の無効に終ることを訴へて嗟嘆(さたん)するもある。しかれど努力は功の有と無とによって、これを敢てすべきや否やを判ずべきでは無い。努力ということが人の進んで止むことを知らぬ性の本然であるから努力すべきなのである。そして若干の努力が若干の果を生ずべき理は、おのづからにして存して居るのである。

 ただ時あって努力の生ずる果が佳良ならざることもある。それは努力の方向が悪いからであるか、しからざれば間接の努力が欠けて、直接の努力のみが用いらるるためである。無理な願望に努力するのは努力の方向が悪いので、無理ならぬ願望に努力して、そして甲斐(かい)のないのは、間接の努力が欠けて居るからだろう。

 瓜の蔓(つる)に茄子(なすび)を求むるが如きは、努力の方向が誤って居るので、詩歌の美妙なものを得んとして徒(いたず)らに篇を連ね句を累(かさ)ぬるが如きは、間接の努力が欠けて居るのである。誤った方向の努力を為すことはむしろ少ないが、間接の努力を欠くことは多い。詩歌の如きは当面の努力のみで佳なるものを得べくはない。不勉強が佳なる詩歌を得る因にはならぬが、ただ当面の努力のみによって佳なる詩歌が得らるるものではない。

 努力は好い。しかし努力するということは、人としてはなお不純である。自己に服せざるものが何処かに存するのを感じて居て、そして鉄鞭を以てこれを威圧しながら事に従うて居るの景象がある。
 努力して居る 、もしくは努力せんとして居る、ということを忘れて居て、そして我が為せることがおのずからなる努力であって欲しい。そうあったらそれは努力の真諦であり、醍醐味である。

 努力して努力する、それは真のよいものではない。努力を忘れて努力する、それが真の好いものである。しかしその境(さかい)に至るには愛か捨(しゃ)かを体得せねばならぬ、然らざれば三阿僧祇劫(さんあそうぎごう)の間なりとも努力せねばならぬ。愛の道、捨の道をこの冊には説いて居らぬ、よってなおかつ努力論と題している。

努力論 (岩波文庫)

努力論 (岩波文庫)