死にたいと思う心は不変なのか
「【正論】死にたいと思う心と日進月歩の技術…「変わりやすさ」無視した欧米の安楽死論 京都大学名誉教授・加藤尚武」(産経新聞)
→ http://www.sankei.com/column/news/171030/clm1710300005-n1.html
≪疑問を抱く試験の「模範解答」≫
アメリカの医師国家試験の模擬試験問題に、医師による自殺幇助(ほうじょ)の実例が出ているそうだ。33歳の女性ボクサーが、首から下は完全マヒになり、人工呼吸器が取り付けられたが、医師に外してほしいという明確な意思表示をした。どうすべきか。
模範解答は「患者の要求に従って人工呼吸器を取り外す」というものだそうだ。
私がもしも同じ出題をしたら、別の模範解答を用意するだろう。
第1に、彼女は首から下が完全マヒになって、ショックを受けているだろう。プロボクサーだったとすると生活の見通しも立たないかもしれない。気持ちが落ち着き、生活の仕方が定まれば、別の意思決定をする可能性がある。
第2に、33歳の女性はその状態で5年生存する可能性がある。その5年以内に、新しい何らかの治療法が開発される可能性がある。
第3に、その状態が長く続く場合でも、彼女がボクシングの安全性について提言するとか、自叙伝を執筆するとか、別の生きがいを見いだす可能性がある。治療方法の開発に協力することが新しい生きがいになるというのが、最もありそうな可能性である。
人工呼吸器を外せば彼女の命は永久に失われる。「あのとき人工呼吸器を外さなければよかった」と後悔する可能性があるかどうかを十分に考えるべきである。これが私の用意する模範解答である。
≪オランダの免責要件は十分か≫
医師による安楽死を法律で認めているオランダでは、医師が死の責任を負わされない条件として「注意深さの6要件」が定められている。(1)患者の意思の自発性(2)苦痛が耐えがたい(3)患者に十分な説明(4)代替案がないことの確認(5)セカンドオピニオンの聴取(6)慎重な方法-。その中に、患者の意思が変わらないかどうか、新しい治療方法の開発を待った方がいいのではないか、という項目がない。
日本には安楽死に関する法律がないが、宗教上の理由で輸血を拒否した患者に輸血を行った医師が罰金刑に付されたという判例がある。その患者さん(68歳の女性)は、長年にわたってある宗教の信者としての生活を維持してきていて、その意思が変わらないことが、十分予測できた。
またその患者さんには手術が不可欠だったが、手術をすればかなりの程度の出血が避けられない。この患者さんは、この手術のあと間もなく亡くなっているので、内視鏡の手術が普及するまでなんとか生き延びるという可能性はなかったと思う。
オランダでは、安楽死の事例について、事後に適否を調査する活動も行われている。耳鳴りの苦痛を避けるために安楽死した女性の事例について「精神治療の可能性を追求すべきだった」という評価が出ている。
第1に苦痛に耐えて耳鳴りの治療をする、第2に聴覚を全て失っても生きることはできるという2つの選択肢を考えると、第1の選択肢は患者が拒否しているが、第2の選択肢について患者に説明したのかどうかが問題になる。取り返しのつかない措置をしたことへの後悔が成り立つ可能性がある。
≪死にたいと思う心は不変なのか≫
私は、心は変わりやすいと思う。ひたすらに死にたいと思う心でも変わりうる。「当人が安楽死を明確に要求しないかぎり安楽死は正当化されない」という自発性の尊重が、安楽死の安全基準とみなされている。
この基準を言い換えると「非自発的な安楽死は認められない」となる。「明確な意思表示がないと安楽死は許されない」という意味だが、これも極限的な場合には具合の悪いことになる。
私の精神が衰えたり、混乱したりして「たとえ死に近づく結果になるとしても、痛み止めの措置を施してほしい」という意思表示ができなくなるかもしれない。
そのとき意思表示がないという理由で、激痛にさらされるのは避けたい。前もって意思表示をしておけば、それが法律的に効力をもつだろうが、私が誤って「以前の意思表示は撤回します」と言ってしまうことだってありうる。私の心がどれほどひどく混乱するかの予測もできない。
結局、私の本当の気持ちをくみ取ってくれる人に私の最後のみとりをお任せする以外に方法はない。「非自発的な安楽死は認めない」という原則を、私に厳格に適用しないでもらいたい。私の心の混乱の程度を見極めて、苦しみを取り去ることを優先してほしい。
欧米の安楽死論をみていると、心は変わりやすい、医療技術は日進月歩であるという2つの変わりやすさを無視しているように見える。法律上の責任免除の形式を守ろうとすれば、文書で書くことになるが、文書は「変わらぬ状況下で、変わらぬ意思を表明する」という形を避けられない。
文書には書ききれないような状況の変化が実際に起こる。欧米では法律上の責任免除の形式に、実質的な状況判断が引きずられてしまっているのではないだろうか。(京都大学名誉教授・加藤尚武 かとうひさたけ)
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アンゴ先生、かく語りき。
死ぬ、とか、自殺、とか、くだらぬことだ。負けたから、死ぬのである。勝てば、死にはせぬ。死の勝利、そんなバカな論理を信じるのは、オタスケじいさんの虫きりを信じるよりも阿呆らしい。
人間は生きることが、全部である。死ねば、なくなる。名声だの、芸術は長し、バカバカしい。私は、ユーレイはキライだよ。死んでも、生きてるなんて、そんなユーレイはキライだよ。
生きることだけが、大事である、ということ。たったこれだけのことが、わかっていない。本当は、分るとか、分らんという問題じゃない。生きるか、死ぬか、二つしか、ありやせぬ。おまけに、死ぬ方は、たゞなくなるだけで、何もないだけのことじゃないか。生きてみせ、やりぬいてみせ、戦いぬいてみなければならぬ。いつでも、死ねる。そんな、つまらんことをやるな。いつでも出来ることなんか、やるもんじゃないよ。
死ぬ時は、たゞ無に帰するのみであるという、このツツマシイ人間のまことの義務に忠実でなければならぬ。私は、これを、人間の義務とみるのである。生きているだけが、人間で、あとは、たゞ白骨、否、無である。そして、ただ、生きることのみを知ることによって、正義、真実が、生れる。生と死を論ずる宗教だの哲学などに、正義も、真理もありはせぬ。あれは、オモチャだ。
然し、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるですよ。戦いぬく、言うは易く、疲れるね。然し、度胸は、きめている。是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ。そして、戦うよ。決して、負けぬ。負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありやせぬ。戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません。たゞ、負けないのだ。
勝とうなんて、思っちゃ、いけない。勝てる筈が、ないじゃないか。誰に、何者に、勝つつもりなんだ。
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