NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

今紅くナナカマド

「【産経抄】死なないで 逃げるは恥かもしれないけれど共感を呼んでいる 9月3日」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/column/news/170903/clm1709030004-n1.html

 人と人の関係には足し算型と掛け算型がある。先月永眠した気象エッセイストの倉嶋厚さんが自著にそう書き留めていた。妻の泰子さんとは「1×1」の掛け算型夫婦だったという。自立した2人が暮らす「1+1」ではなく一心同体だった、と。

 足し算型なら、一方が欠けても「1」が残る。掛け算型は〈一人が「0」になるとすべてが「0」になってしまいます〉(『やまない雨はない』文芸春秋)。病で妻に先立たれた倉嶋さんはうつ病を患った。自殺の誘惑に何度も負けそうになったと打ち明けている。

 新学期の始まる9月1日前後に自ら命を絶つ子供が多い、との内閣府調査が示されたのは2年前である。この夏も、悲しいニュースに何度か触れた。人間関係やいじめを苦にする子供にとって、死の衝動に突き動かされやすい季節であることは理解できなくもない。

 掛け算型の間柄は、夫婦にかぎるまい。親子も、兄弟姉妹も同じだろう。「×1」の相手が失われることで、世界が「0」になる人は必ずいる。思い悩む子供たちに伝えたい。最後の一線を越える前に、喪失感に嘆き悲しむ人たちの顔を思い浮かべてはくれないか。

 アメリカバクは敵から身を守るとき、一目散に水に飛び込む。人も同じ。逃げなさい。上野動物園の公式ツイッターに載った書き込みが、共感を呼んでいる。「もし逃げ場所がなければ、動物園にいらっしゃい」と。似たような思いを誰もが抱えているからだろう。

 〈冬憶(おも)ふまじ今紅くナナカマド〉嶋田摩耶子。闘病中の倉嶋さんを慰めた句だという。先のことを思い煩うな、赤い実をつけた目の前のナナカマドを楽しもう-。この先、春秋に富む子供たちではないか。耐えきれないときは遠慮なく逃げなさい。


アンゴ先生かく語りき。

自殺なんて、なんだらう。そんなものこそ、理窟も何もいりやしない。風みたいに無意味なものだ。

── 坂口安吾『教祖の文学』

 死ぬ、とか、自殺、とか、くだらぬことだ。負けたから、死ぬのである。勝てば、死にはせぬ。死の勝利、そんなバカな論理を信じるのは、オタスケじいさんの虫きりを信じるよりも阿呆らしい。
 人間は生きることが、全部である。死ねば、なくなる。名声だの、芸術は長し、バカバカしい。私は、ユーレイはキライだよ。死んでも、生きてるなんて、そんなユーレイはキライだよ。
 生きることだけが、大事である、ということ。たったこれだけのことが、わかっていない。本当は、分るとか、分らんという問題じゃない。生きるか、死ぬか、二つしか、ありやせぬ。おまけに、死ぬ方は、たゞなくなるだけで、何もないだけのことじゃないか。生きてみせ、やりぬいてみせ、戦いぬいてみなければならぬ。いつでも、死ねる。そんな、つまらんことをやるな。いつでも出来ることなんか、やるもんじゃないよ。
 死ぬ時は、たゞ無に帰するのみであるという、このツツマシイ人間のまことの義務に忠実でなければならぬ。私は、これを、人間の義務とみるのである。生きているだけが、人間で、あとは、たゞ白骨、否、無である。そして、ただ、生きることのみを知ることによって、正義、真実が、生れる。生と死を論ずる宗教だの哲学などに、正義も、真理もありはせぬ。あれは、オモチャだ。
 然し、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるですよ。戦いぬく、言うは易く、疲れるね。然し、度胸は、きめている。是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ。そして、戦うよ。決して、負けぬ。負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありやせぬ。戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません。たゞ、負けないのだ。
 勝とうなんて、思っちゃ、いけない。勝てる筈が、ないじゃないか。誰に、何者に、勝つつもりなんだ。

── 坂口安吾『不良少年とキリスト』