NAKAMOTO PERSONAL

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すがすがしい神道文化の中で育った日本人

「【正論・戦後72年に思う】すがすがしい神道文化の中で育った日本人であること、誇りにこそ思え卑下するつもりはない 東京大学名誉教授・平川祐弘」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/column/news/170821/clm1708210004-n1.html

 〈人のみぬ 時とてこころ ゆるひなく みのおこなひを まもりてしかな〉

 他人が見ていようがいまいが、気を弛(ゆる)めず、身の行いはきちんと持(じ)したいものです--これは明治天皇の皇后美子(はるこ)が明治44年に詠まれた御歌である。そんなお説教はどうでもいい、と当世の子女は顔をそむけるかもしれない。いや宮中でも、西洋志向の強い人は、この歌を読み過ごすだろう。だが、比較文化史的に考察すると別様の意味が浮かびあがる。それは日本の皇室が体現してきた神道文化の価値である。


≪「罪の文化」と「恥の文化」≫

 米国の文化人類学ルース・ベネディクトは日本の敗戦直後、1946年、『菊と刀』を公刊した。彼女の日本文化論は西洋プロテスタント文化を「罪の文化」 guilt cultureと規定し、「恥の文化」shame cultureと呼ぶ日本文化と対比させ、罪の文化では人は内面的な罪の自覚に基づいて行動するが、恥の文化では人は世間という外面的強制力を意識して行動する、と説明した。恥とは他人の批判に対する反応である。

 そんなベネディクトの日本人論の翻訳が出るや、東大法学部の川島武宜教授は全面的に賛同し『菊と刀』の国民性分析は「〈日本人の〉みにくい姿を赤裸々に白日の下にさらすものであって、われわれに深い反省を迫ってやまない」と自己卑下した。だが、日本人は他人の目ばかり気にして行動するとは本当か。

 日本には古代から神道がある。その上に外来の宗教文化が次々と重なった。そうしてできたわが国の文化は世間体のみを気にする「恥の文化」なのか。そのベネディクト説は正しいのか。


≪日本人が良しとした道徳規範≫

 かつて漢学を学んだ日本人は「俯仰不愧天地(ふぎょうてんちにはじず)」と言い、仰いで天に対し伏して地に対し恥じない、という孟子の道徳規範を良しとした。

 儒教由来のこの訓(おし)えは武士の胸に刻まれたが、それは曲がったことはしたくない、という日本庶民の心根とも合致したから、人口に膾炙(かいしゃ)した。それはまた清らかさを尊ぶ神道由来の日本人の美意識とも重なった。恥ずべきことをしてはお天道(てんとう)さまやご先祖さまに相済まぬ、という感覚を日本人は、士族にかぎらず、分かち持ったし、いまでも分かち持っている。

 そのように天を畏れて身を処する人は、世間の義理を欠くことを惧(おそ)れて、外的強制力の下にのみ行動する人ではない。他人が見ていようがいまいがきちんと身を持する人は「罪の文化」の人でもなければ「恥の文化」の人でもない。日本人はそうと自覚せずとも実は先祖代々の「神道の文化」に従っている人である。

 冒頭の御歌で皇后は人間の心掛けをまっすぐにそのまま口にされた。詩というにしてはあまりに直接な訓戒であり自戒のお言葉である。皇后はとくに神道の訓えと考えることなく歌に詠まれたのだろう。平常のお心掛けがおのずと三十一(みそひと)文字と化したものと拝察する。


≪倫理的情操を大切に育みたい≫

 だがこの御歌は日本にはそれなりに神道に根ざした倫理感覚があることをはからずも示した。御歌は日本人一般の心掛けに近い。暁に神社に参拝する自分を思い浮かべてみよう。

 社頭(しゃとう)に立ち、姿勢を正し、柏手(かしわで)を打つ。その胸を張ったときに心に覚えるかすかな気持ちの張り、--その緊張の瞬間に覚える清らかさ--そこにこそ、この「こころゆるひなく」「みのおこなひをまもりてしかな」の心掛けは、おのずと胚胎する。そんな倫理的情操を私たちはやはり大切に育(はぐく)みたい。

 わが国は昔は大陸から、明治後は西洋から、文化を取り入れた。それが昭和前期には日本のみを尊しとする夜郎自大の言動や行動も見られた。敗戦を機に今度はそれが逆転し、日本を悪く言えばそれがあたかも正義であるかのような論調となり、一部の学者先生は旧日本をあしざまに言うことで論壇のヒーローとなった。その知的倒錯の度が過ぎて、人民民主主義万歳を叫ぶ人も出た。

 だが幸いわが国は文化大革命をやらかすような野蛮国にならずにすんだ。そんな20世紀後半の世界史の有為転変にもかかわらず、わが国の論壇では日本を悪く言えば格好がいいと心得る人が今もなお結構いらっしゃる。

 過去70年、確かに私も外国の良さを多く感じた。だから、多くの時間を外国語学習に費やした。国外に野蛮もあれば偉大もあることは承知している。そして人間いやしくも自己を偉大にしようとする限り、他の偉大を容(い)れるに吝(やぶさ)かなるはずはない。そんな国際主義を奉ずる私だが、それでもそっと言いたい。--私は自分が神道文化の中で育った日本人であることを、誇りにこそ思え、自己卑下するつもりはない、と。

日本人に生まれて、まあよかった (新潮新書)

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