NAKAMOTO PERSONAL

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似非平和主義

「【一筆多論】軍事科学研究で自国守ることのどこが『平和主義に反する』のか? 奇妙な国『日本』 榊原智」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/politics/news/160528/plt1605280026-n1.html

 高度な科学技術を持ちながら、それを外国の侵略から自国と国民を守り抜くことに生かそうとすると、「平和主義に反する」と批判される奇妙な国がある。

 ほかならぬ現代日本のことだ。

 このようなおかしな軍事忌避の風潮を作ってきた“張本人”の一つが日本学術会議だ。法律で設置され、国の予算で運営される日本の科学者を代表する公的機関だが、2度に亘(わた)り軍事目的の科学研究の否定を声明し、それが科学技術研究の基本原則とされてきた。

 「戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない決意の表明」(昭和25年4月総会)と「軍事目的のための科学研究を行わない声明」(42年10月総会)である。

 税金を最も多く支給されてきた大学と思われる東京大学も軍事研究を長く禁じてきた。

 平成27年1月の東大総長見解には「学術における軍事研究の禁止」は「東京大学のもっとも重要な基本原則の一つ」とある。軍民両用技術(デュアル・ユース)のあり方は「丁寧に議論し対応していくことが必要」とし、軍民両用技術の研究だけは場合によっては認めるが、軍事に絞った研究は認めないというところか。軍事研究を禁じたり、制限する内規を持つ日本の大学は他にも存在する。

 学術会議も東大もまるで似非(えせ)平和主義である。

 侵略から国と国民を守るには、外交や自衛隊、日米同盟だけでは足りない。優れた防衛装備を整えるため科学者、技術者の貢献が欠かせない。それは世界の民主主義国の常識であり、平和への道である。

 災害派遣で汗を流してくれる自衛隊員は兵士である。自衛隊が日本を守るために戦うことは、自衛のための「戦争」にほかならない。この戦いまで否定するのは侵略者に塩を送るに等しい。

 平時の今でさえ、命がけで警戒監視の任務にあたっている自衛隊員たちに優れた装備を与えようと努めることが、平和主義に反するわけがない。

 日本の科学技術が自衛隊や、ときには同盟国、友好国の軍隊を強くすることは平和を保つ抑止力を向上させる。日本国民と自衛隊員の命を守ることにもつながる。

 学術会議や東大などが軍事科学研究を忌避して喜ぶのは誰か。隙あらば日本を侵略しよう、軍事力で脅かして日本を従わせようという外国とそれを喜ぶ勢力だろう。冷戦期ならソ連とそのシンパだ。今ならどこか、読者の頭には容易に浮かぶはずだ。

 防衛省は27年度から、先端研究に資金配分する「安全保障技術研究推進制度」を作り、東京工業大などとプログラムを組んでいる。「産学官の力を結集」するとした「国家安全保障戦略」(25年12月閣議決定)を受けた制度だ。

 閣議決定された方針との齟齬(そご)が気になるのだろう。学術会議の大西隆会長は26日の記者会見で、軍事科学研究を否定した先の2声明について、見直しも含め検討することを明らかにした。

 あるべき答えは簡単だ。2声明を撤回し、日本や仲間の国を守るための軍事科学研究を禁じたり統制したりすることをやめればいいのである。


今日の日本では、戦争を研究すること自体が悪であるような、平和を唱えると平和になる、と考えるような念力主義が幅を利かせている。
“念ずれば花開く”念力主義もおおいに結構だが、そのような超能力者が居なくとも、非超能力者の我々が不要な戦争を避け平和を維持し続けるためには体系だった研究と理論構築が必要なのである。

 健康な人だけを研究して医学ができるわけはない。平和の状態の研究だけから国際法ができるわけはない。病人を研究して医学ができ、戦争や紛争を研究して国際法ができる。この世界の常識が戦後の日本の法律学者や政治家に欠けていた。「平和を叫べば平和が来る」というのは「念力主義」にすぎないと喝破したのも小室氏である。

── 渡部昇一『自らの国を潰すのか』

ドイツ参謀本部-その栄光と終焉 (祥伝社新書168)

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米陸軍戦略大学校テキスト 孫子とクラウゼヴィッツ

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