NAKAMOTO PERSONAL

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人生に行き詰まりを感じたら

「人生に行き詰まりを感じたら 毎朝、声に出して読みたい金言≪留魂録 吉田松陰≫」(PRESIDENT Online)
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 幕末の英雄たちに大きな影響を与え、30歳の若さで散った吉田松陰。彼が死を覚悟して綴った言葉には、自分の殻を破るヒントがちりばめられている。


1.自分の中に命を懸けて尽くしたいものがあるか

 高杉晋作伊藤博文など多くの志士に影響を与えた幕末の思想家、吉田松陰は、2度捕まって牢に入れられています。1回目は、ペリーの黒船が来航した24歳のとき。アメリカへの密航を企てたものの失敗し、牢に入りました。

 2回目は29歳です。老中の暗殺計画を立てたために藩にとらえられ、30歳で江戸に移送。本来は別件で江戸に呼ばれたのですが、問われてもいない暗殺計画を自ら白状して、処刑されました。

 2回目にとらわれて死を覚悟したとき、松陰は自らの思いや門弟に託したいことを獄中で綴りました。それが遺書である『留魂録』です。

 身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ぬとも 留置まし大和魂

 遺書の冒頭にあるのが、上の有名な句です。松陰の辞世の句といえば、これを指すことが多いようです。

 当時、処刑された罪人は満足な待遇を受けることはもちろんありませんでした。松陰も処刑後は自らがそうなることが予想されましたが、それに対して、「たとえ自分の身が野辺に捨てられて滅んでしまっても、大和魂だけはここにおいていきたい」と詠んだのです。

 松陰は、大和魂をとても大事にしていました。1回目にとらわれたときも、「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」という句を詠んでいます。つまり大和魂はそのころからすでに松陰の中に存在して、死後も世に留めたいものだったといえます。

 では、松陰のいう大和魂とは何だったのか。個人レベルでいえば「君臣の義」、つまり本気で尽くしたいものに命を懸けるということです。また国家レベルでいえば「華夷の弁」です。華夷とは、本質と邪道のこと。アメリカのように武力で開国を迫るのは邪道であり、日本は正しい道をゆかなくてはいけないというのが、松陰の考え方でした。

 どちらにおいても共通しているのは、日本をよくしたいという思いです。松陰は自分の生死より、そうした志が滅ぶことのほうに痛みを覚えました。裏を返すと、志があれば生死さえも超越できるということ。その峻烈さが、私たちの胸を打つのでしょう。


2.どうすれば覚悟が決まり持てる力を発揮できるか

 先ほどの辞世の句は、太平洋戦争のときの特攻隊員にも好まれました。なかには、遺書をまねて「身はたとひ 南の海に朽ぬとも 留置かまし大和魂」と詠んだ人もいたそうです。

 ただ、松陰があの時代に生きていたら、特攻作戦に対してきっと批判的だったでしょう。というのも、松陰は命を無駄に捨てる行為を嫌っていたからです。

 ……英雄自ら時措(じそ)の宜しきあり。
 要は内に省みて疚(やま)しからざるにあり。
 抑々(そもそも)亦人を知り幾を見ることを尊ぶ。
 吾れの損失、当(まさ)に蓋棺(がいかん)の後を待ちて議すべきのみ。

 「英雄自ら時措の~……」の言葉は、「英雄は時とところによって、相応しい態度を取る。大事なことはこの自らを省みて、やましくない人格を養うこと。そして相手をよく知り、機を見ることが重要だ」という意味です。

 これを私なりに超訳すると、志のために身を賭すのだとしても、ただ突っ込むのではなく、タイミングを考えろということです。

 別のところで松陰は、「武士の命は山よりも重く、羽根よりも軽い」といっています。武士は志を果たすために命を投げ出すものだが、そうでなければ命を粗末にしてはいけないというわけです。

 これは現代にも通じる考え方でしょう。もちろん現代で命を懸けるシーンは考えられないし、実際に命を投げ出すようなことがあってはならないと思います。ただ、自分のクビをかけてプロジェクトに取り組む場面はありえます。そのときに、本当にいまがすべてを懸けるタイミングなのか、それをしっかり見極めたいところです。

 逆にいうと、本気で何かに取り組みたいなら、安全圏にいるのではなく、失敗すれば何かを失うリスクを背負うべきです。むやみにリスクを取ればいいというものではありませんが、ここぞというときにリスクを背負うからこそ人は覚悟が決まり、持てる力を発揮できる。それが松陰の教えです。

 では、どのようなタイミングで身を賭すべきか。

 大事なのは「内に省みて」です。現代はスピードが速く、情報が次々に飛んできます。そうした外的な環境に反応して何かを懸けるのは、単なるギャンブラーです。松陰はそうした反応的な生き方をするのではなく、「立ち止まって内省せよ」といいました。つまり自分の内面と対話して、志に合っているかどうか、それを判断の軸にせよと教えているのです。

 続いて松陰は「吾れの損失、当に蓋棺の後を待ちて議すべきのみ」と書いています。これは「私の人間としての在り方がいいのか悪いのか、私が棺に入った後、歴史に判断を委ねるしかない」ということ。この一文からも、「いま得だから」と目先の利益に振り回されるのではなく、志を大事にすれば評価は後からついてくるという松陰の考え方がうかがいしれます。


3.どんなに批判をされても自分の誠意を貫けるか

 松陰には、まわりの評価よりも大切なものがありました。江戸に留学していたころ、東北にかたき討ちにいくという友人に感動して、同行する約束をしました。旅行には藩の許可が必要でしたが、運悪く担当者が藩に帰っていて不在。普通なら旅行を諦めるところですが、松陰はあっさり脱藩することを決めました。

 脱藩すれば社会的な身分は保証されず、出世の道も絶たれます。しかしそんなことに頓着せず、友情を選びました。

 社会的な評価を気にしない松陰の性格は、この一節にも表れています。

 吾れ此の回初め素より生を謀らず、又死を必せず。
 唯だ誠の通塞(つうそく)を以て、天命の自然に委したるなり。

 
 これは「私は初めから生きようとも死のうとも考えていない。ただ、誠意が通じるかどうか、それを天命に委ねるつもりだった」という意味ですが、注目したいのは天命に委ねるという部分です。

 松陰は、自分がやったことは、まわりの人ではなく「天」が評価すると考えていました。松陰のやることは過激ですから、周囲からはよく批判されます。しかし、誠意を持って取り組んでいれば天が黙って認めてくれているはずだから、雑音に一喜一憂する必要はないと考えていたのです。

 この考え方は、私たちも見習いたいものです。ビジネスパーソンにとっての「誠」は、お客様を幸せにしたり会社を発展させることによって、社会をよくすることでしょう。

 社会をよくすることに貢献している確信が持てるなら、その仕事を一生懸命やればいい。ときに上司や同僚と衝突するかもしれませんが、気にする必要はない。たとえ批判されても、自分の誠意を貫き通すことが大事です。批判を恐れて信じることを封じこめてしまうのはもったいないことです。


4.志半ばで挫折したとき何を励みとすればいいか

 松陰は必ずしも最初から処刑されることを受け入れていたわけではなく、『留魂録』も、死を自分に納得させるために書かれた側面があります。では、獄中でどんな境地に達したのか。その心境を記したのがこの言葉でしょう。

 今日死を決する安心は四時(しじ)の順環に於て得る所あり。

 現代語訳すると、「今日死を目前にして平安な心境でいるのは、四季の循環に思いを寄せたからだ」でしょうか。

 これには2つの意味が込められています。松陰は、人生は四季と同じで、誰のもとにも春夏秋冬がやってくると考えました。だから、自分が冬のときに人が実りの秋を迎えていても羨むなといい聞かせたのです。

 もう一つ、自分の志が次の世代に引き継がれるだろうという期待も読み取れます。同じ章で、松陰は「自分が秋に実らせた種はただのもみがらなのか、大きな木に育つ種なのかわからないが、誰かが受け継いでくれたら、穀物が毎年実るのと同じで、収穫があるだろう」と書いています。志半ばで死を迎えるのは悔しいことです。しかし、そもそも自分は延々と続く自然のサイクルの一つに過ぎず、自分が礎となって次世代につなぐことができれば、それで満足だというわけです。


5.尊敬する先人から学び取るべきものは?

 善術を設け前緒を継紹せずんばあるべからず。

 獄中における松陰の最大の心配事は、自分の死後、尊王攘夷の火が消えてしまうのではないかということでした。『留魂録』でも尊王攘夷運動について書いているのがこの言葉です。これは「もっといい方法を考え、先人の考えを継承せねばならない」という意味です。

 松陰らしさがよく表れているのは、「前緒」という表現でしょう。松陰は尊王攘夷運動の思想的リーダーでしたが、思想そのものは松陰のオリジナルではありません。水戸学をはじめ先人たちの思想を引き継いだうえで、自分のものにしました。

 「前緒」は現代でも重要なキーワードです。私たちは松陰のように高い志を持った人物に憧れます。ただ、自分も志を持とうとしたとき、どのように立てればいいのかよくわからないという人は多いはずです。現代はノウハウの時代であり、目標さえ定まれば、それを実現する方法はいろいろと調べられます。ただ、志を立てるノウハウはありません。それゆえ多くの人が「やりたいことが見つからない」と悩んでいるのです。

 ならば、松陰のように「前緒」を引き継げばいいのです。昔は個別にノウハウを学ぶことは難しく、誰かに師事をして、その人物からすべてを学びました。志も、先生や自分が尊敬する人のコピーです。いまだって、それでかまわないはずです。オリジナルかどうかにこだわるのは小さなこと。大切なのは、あくまでも志の中身です。松陰がいったように、引き継いだものを改善し、次につなげることに意味があるのではないでしょうか。


6.たった一度の失敗でへこたれていないか

 門弟に向けた『留魂録』には、死後に実行すべき事柄が書かれています。多くは、あそこの藩に憂国の士がいるから会えという内容。松陰は人のつながりを重視していました。

 天下の事を成すは天下有志の士と志を通ずるに非ざれば得ず。(中略)一敗乃ち挫折する。
 豈に勇士の事ならんや。

 この言葉も「天下の事は天下の有志の士と志を通じなければ達成できない」という意味です。松陰は、人のネットワークの力で攘夷を成し遂げようとしました。人の協力が大事であるのは、いまも同じ。素直に人の力を借りることが大事です。

 もちろん人の力を借りたからといって、うまくいく保証はありません。大きなことに挑戦すれば、むしろ失敗することのほうが多いはずです。しかし松陰はこう言っています。
 
 「一敗乃ち挫折する。豈に勇士の事ならんや」

 1度失敗しただけで挫折するような人は、勇気のある人ではないというのです。実際、松陰は2度も牢に入れられつつ、尊王攘夷の実現を諦めなかった。まさしく不屈の人です。

 松陰は辞世の句に、「二十一回猛子」という号を用いました。当時の人はさまざまな節目で、新たに生まれ変わるという思いを込めて改名しました。二十一回猛子は、21回狂ったことをして生まれ変わるという意味。深読みすると、「20回失敗するが、そのたびに立ち上がればいい」という意味にも取れます。松陰は号を通しても、失敗を恐れない心を教えてくれているのです。

 吉田松陰は、関原(せきがはら)の役において、西軍の殿将として、大坂を守り、徳川氏に向かって弓を挽(ひ)ける、毛利家の世臣(せいしん)なり。彼は杉氏の子、出でて叔父吉田氏を続(つ)ぎ、禄五十七石を食む。彼は固(もと)より微禄の士。天保元年八月長門国萩城の東郊に生れ、安政六年十月国事犯罪人として、江戸において首を斬られる。その間僅か三十年、而(しこう)して彼が社会に馳駆(ちく)したるは嘉永四年侯駕(こうが)に扈(こ)して江戸に赴きたるより以来、最後の七、八年に過ぎず。彼の社会的生涯かくに如く短命なり。彼果たして伝うべきものあるか。
 曰く、然り。
 彼は多くの企謀を有し、一の成功あらざりき。彼の歴史は蹉跌の歴史なり。彼の一代は失敗の一代なり。然りといえども彼は維新革命における、一箇の革命的急先鋒なり。もし維新革命にして云うべくんば、彼もまた伝えざるべからず。彼はあたかも難産したる母の如し。自ら死せりといえども、その赤児は成育せり、長大となれり。彼れ豈(あ)に伝うべからざらんや。

── 徳富蘇峰(『吉田松陰』)