NAKAMOTO PERSONAL

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客観報道とは名ばかり

翁に曰く、

 言論というものは、実はあんまり重みがないほうがいいのである。新聞の言論はだれも信じるようになったから、世を誤るようになったのである。すこししか信じなければ誤ることもすこしだから、そのほうがいいのである。

── 山本夏彦『何用あって月世界へ』


集団的自衛権問題でニュース面が論説面化---客観報道とは名ばかりの朝日と読売」(現代ビジネス)
 → http://gendai.ismedia.jp/articles/-/39741


7月2日付朝日の1面


新聞社にとって客観報道は基本であるとはいえ、百パーセント客観的な紙面作りは事実上不可能だ。だからといって、国を二分するような論争が起きているときに一方に肩入れし過ぎていいわけではない。

肩入れし過ぎの好例は、直近では集団的自衛権をめぐる報道だろう。政府は7月1日の閣議決定で、集団的自衛権行使の容認に向けて憲法解釈の変更に踏み切った。すると主要紙は、旗幟鮮明にした関連報道で翌日の紙面を埋め尽くした。

集団的自衛権行使では反対派と賛成派の代表格である全国紙(西部支社版)を見比べてみよう。


賛成派の声を載せなかった朝日

まずは反対派代表格の朝日新聞。1面では最上段に「平和主義覆す解釈改憲」と大見出しを掲げ、「『強兵』への道 許されない」と題した編集委員コラムを載せている。編集委員がコラムで「許されない」という主観を打ち出すのは珍しくないが、通常のニュース記事で「平和主義覆す」という表現は大胆だ。

続いて、1面に次いで重要なニュース面である総合面(2面と3面)でも、見開きで集団的自衛権報道を全面展開している。主な見出しを選んでみると、次のようになる。1面の「平和主義覆す」と同様に大胆な見出しだ。

<危険はらむ軍事優先>
<周辺国刺激 緊張招く懸念>
<抑止力 逆に低下する恐れ>
<ねじ曲げられた憲法解釈>
<「自衛措置」強引に拡大>
<論理の暴走 戦前と同じだ>



7月2日付朝日の社会面


社会面も見開きで全面展開し、「戦争放棄捨てるな」「平和見失うな」という大見出しを軸に紙面を作成。「絶対に許さないぞ」と拳を上げる市民らを写した写真の横には、「列島 抗議のうねり」という記事を載せている。

オピニオン面を見ると、「声」の欄は「列島 抗議のうねり」を裏づける内容だ。読者からの手紙5本のうち3本は集団的自衛権関連であり、そろって反対派の声なのだ。見出しはそれぞれ「平和憲法の無力化 許せない」「閣議決定は『違憲で無効』だ」「戦争の悲惨 継承できない不幸」。1人でもいいから賛成派の声も載せられなかったのか。


社会面で一部バランスを配慮した読売

賛成派代表格の読売新聞はどうか。朝日と同様に、閣議決定翌日の紙面では集団的自衛権報道を全面展開。1面では、最上段の「集団的自衛権 限定容認」のほか「安保政策を転換」「憲法解釈 新見解 閣議決定」などの見出しを掲げている。朝日の「平和主義壊す」と比べれば中立的なトーンだ。

ところが、続く総合面(2面と3面)では景色が違ってくる。主な見出しは次の通りだ。

<首相 中国台頭を警戒>
自衛隊・米軍 緊密に行動>
<抑止力向上へ意義深い「容認」>
<日米同盟さらに強化>
尖閣防衛 統合作戦も>
<米評価「平和に貢献」>

朝日の総合面に出た「危険はらむ」「ねじ曲げられた」「論理の暴走」などと比べれば、見出しベースでは読売の総合面は落ち着いているといえよう。それでもほぼ賛成一色であることに変わりはない。



7月2日付読売の1面


7月2日付読売の社会面


国際面では、「アジア安定化 期待」「ASEAN、豪が支持」という記事が目に飛び込んでくる。集団的自衛権行使について日本政府の立場を支持する東南アジア諸国連合ASEAN)とオーストラリアに焦点を当てているからだ。警戒心が強い中国と韓国については触れていない(中韓両国の反応はそれぞれ2面のベタ記事)。

社会面も賛成派の視点が色濃く出ているが、例外がある。一部記事で見出しに「不安感じる」という表現を入れ、記事中で集団的自衛権行使を不安視する市民の声を載せているのだ。首相官邸前で集団的自衛権憲法解釈見直しに反対する人たちが開く抗議集会の写真も使っている。読売は社会面ではバランスに配慮したといえよう。


社論を色濃く出したニュース面

国を二分するような論争が起きているとき、単純に両論併記したからといって客観報道を実現できるわけではない。単純な両論併記は、記者が考えることをやめ、速記者に成り下がることと本質的に変わらない。一方で、一方的報道も客観報道ではなく、一歩間違えれば偏向報道だ。

言うまでもないが、報道では何事にも百パーセント正しいということはない。報道は科学とは違う。どんなに正しいと想定できるテーマについて書いているときでも、最低限のバランスを確保する必要がある。紙面を見ていて読者が自然に「異なる声もあるんだな」と気づく程度のバランスだ。

そもそも、大手新聞社は紙面上でかねて少数派の意見を尊重するよう説いてきたことを忘れてはならない。集団的自衛権行使では、朝日にとっての少数派は賛成派、読売にとっての少数派は反対派だ(朝日の世論調査では反対派が賛成派を上回り、読売の世論調査では賛成派が反対派を上回っている)。

主義主張を明確に打ち出したいのならば、社内の論説委員や外部のコラムニストらが執筆する論説面を使えばいい。朝日ならオピニオン面、読売なら解説面だ(読売は閣議決定翌日の紙面で4ページに及ぶ特別面を設け、識者の意見などを紹介している)。社説は社によって掲載場所は異なるが、論説面の”顔”である。

この意味で興味深いのは、閣議決定翌日の朝日オピニオン面だ。反対派の立場一色にしてもよかったのだが、あえて賛成派の神保謙慶應大准教授の意見も大きく載せている。一方、総合面や社会面などニュース面に載せた識者の意見(総合面2本、社会面2本)はそろって反対派だ。つまり、社論が色濃く出ているのは論説面というよりもニュース面なのだ。


政治部長はコラムニストではない

主要紙の紙面を点検して気になるのは、客観報道に軸足を置かなければならないニュース面に論説面的要素が混在している点だ。本来、論説面(言論)を担当するのが論説委員会であり、ニュース面(報道)を担当するのが編集局。論説委員会はニュース面に介入してはいけないし、編集局は社論でニュース面を埋め尽くしてはいけない。だからこそ、論説委員会と編集局は組織上切り離されているのだ。

現実には論説委員会と編集局の境界はあいまいだ。たとえば閣議決定翌日の読売1面。そこには「真に国民を守るとは」と題した田中孝之政治部長のコラムが載っている。大きな政治ニュースが飛び出したとき、政治部長が1面にコラムを書くのは、日本の新聞界ではよくあることだ。

だが、よく考えてみてほしい。政治部長はニュース面の編集責任者の1人であり、コラムニストではない。つまり客観報道を指揮する立場にある。にもかかわらず、まるで論説委員会の一員であるかのようなコラムをニュース面に書いているのだ。

このことは論説委員会と編集局の一体化、言い換えれば「言論」と「報道」の一体化を裏づけているともいえる。事実、「政治部長論説委員」をはじめ、新聞社では部長や編集委員など編集局ポストを兼務している論説委員は多い。

好対照なのは米ニューヨーク・タイムズ論説委員会だ。現在の論説委員長はアンドリュー・ローゼンタール氏。同紙は紙面上で「論説委員会は編集局から完全に分離されています。ローゼンタール氏は編集局ではなく、発行人アーサー・サルツバーガー・ジュニアの直接指揮下にあります」と明記している。ローゼンタール氏を含め論説委員18人の略歴を見ても、編集局ポストを兼務している人はいない。

今から半世紀以上も前のアメリカ。米経済紙ウォールストリート・ジャーナルの中興の祖バーニー・キルゴアは、その後のジャーナリズムに大きな影響を及ぼすことになる報道スタイルを確立した(詳細はエドワード・シャーフ著『ウォールストリート・ジャーナル』参照)。長文記事を書くとき、記事後半で必ず反対命題を入れるというスタイルだ。

このスタイルの狙いは、記事内容が一方的になるリスクを反対命題の導入によって排除することだ。たとえば、「世界での日本の存在感が薄れている」という命題で記事を書くとしよう。後半で「日本には底力がある」といった反対命題も示すわけだ。個々の記事で一定のバランスが必要なように、紙面全体でも一定のバランスは必要だ。客観報道を標榜する限りは・・・。

私は断言する。新聞はこの次の一大事の時にも国をあやまるだろう。

── 山本夏彦『何用あって月世界へ』

座右の山本夏彦 (中公新書ラクレ)

座右の山本夏彦 (中公新書ラクレ)