ニセ写真、歪曲相次ぎ…
「『南京大虐殺』展示撤去へ ニセ写真、歪曲相次ぎ… ピースおおさか」(産経新聞)
→ http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130918/wlf13091811140003-n1.htm
大阪府と大阪市が出資する財団法人「大阪国際平和センター」(ピースおおさか、大阪市中央区)で、日中戦争中に旧日本軍が行ったとされ、信憑(しんぴょう)性をめぐって議論が分かれる「南京大虐殺」に関する展示が撤去される見込みであることが18日、分かった。25日から始まる府の9月議会で基本設計案(中間報告)が報告され、戦後70年となる平成27年度までのリニューアルを目指す。自虐的な「偏向展示」で知られた同施設は、ようやく正常化に向けて舵を切る。
中国人の生首…無関係写真、真偽不明の資料
現在の展示は、展示室A「大阪空襲と人々の生活」、展示室B「15年戦争(満州事変から第2次世界大戦まで)」、展示室C「平和の希求」の3部構成で、展示室Bには、旧日本軍の南京攻略後に見つかった中国人の生首とされる写真など「南京大虐殺」のコーナーがある。
同施設の戦争資料をめぐっては、これまでにも旧日本軍による虐殺現場と説明した出所不明のニセ写真の展示など誤用や歪曲(わいきょく)が指摘され、撤去や修正を繰り返した。2年前にも、朝鮮人労働者の「強制連行」や虐殺・虐待などの解説文と並べて展示した写真4枚が、全く無関係のものだったことが分かり、撤去を余儀なくされた。
こうしたずさん展示の背景に、ゆがんだ歴史観に基づく「偏狭なイデオロギー」を指摘する声は根強い。先の大戦をめぐる評価や、「南京大虐殺」「強制連行」などの事案の真偽について、多様な見方を示さずに日本をことさら糾弾する立場に立つ自虐史観だ。
「南京大虐殺」の展示をめぐっても、市民団体や府市議らから、当時のデータや証言を踏まえ、「大虐殺はなかったとする研究結果も出てきた」「旧日本軍を悪逆非道な存在と決めつけ、でっち上げや捏造(ねつぞう)がある」などと虚構性を訴える声が上がり、橋下徹前知事(現大阪市長)が平成23年5月、展示のあり方について「府民の意思を反映すべきだ」と指摘。今年度予算でリニューアルの設計委託費1700万円が計上され、同施設は昨年、全面改装の方針を打ち出した。
今回の基本設計案によると、新しい展示は昭和20(1945)年の大阪空襲を軸に展開。戦時下の大阪の暮らし▽焼け野原になった大阪▽戦後の復興-などのテーマで構成。府市特別顧問で府立大の橋爪紳也特別教授ら有識者ら4人が監修し、10月末に完成させる予定だ。
これまでの議論では近年の研究結果も踏まえ、「南京大虐殺」関連の展示は子供たちに戦争の悲惨さを伝えるために必ずしも必須ではない-として盛り込まれなかった。
展示リニューアルは開館以来初めて。展示の変更理由について、運営法人は年間約7万5千人の来館者のうち約6割を小、中学生らが占めており、「大阪を中心に、子供の目線で平和を自分自身の課題として考えてほしい」としている。
歴史博物館の展示問題に詳しい拓殖大学の藤岡信勝客員教授(教育学)の話「大阪空襲の被害も、日本が世界で加害行為をした結果だというのがこれまでのピースおおさかの展示の論理だった。これは1980年代に歴史教科書に自虐史観が登場したのと歩調を合わせ、一部勢力の影響で全国の博物館に持ち込まれたものだ。今回の展示見直しは、歴史博物館の伝統的な形に戻ったものであり、評価できる」
大阪国際平和センター(ピースおおさか) 戦争と平和の調査研究と展示を目的に、大阪府と大阪市が建設・展示工事費として計25億9740万円を折半して補助し、平成3(1991)年9月に開館。今年度は運営費補助金として、府市合わせて計約8千万円が計上されている。年間の来館者は約7万5千人で、今年3月には約170万人を突破。約6割は小、中学生で、ほとんどが校外学習として利用されている。現在は写真や模型など約500点が展示されており、大阪空襲の犠牲者の名前が刻まれたモニュメントも設置している。
『2005年06月11日(Sat) 「虚構と真実」』 http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20050611
『2005年07月25日(Mon) 「虚構と真実(2)」』 http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20050725
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「朝日はまた反日を煽ろうというのか(8月28日)」(産経新聞)
→ http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130828/waf13082812090014-n1.htm
朝日新聞の27日夕刊を開いて、目を疑った。いや目を背けた。社会面に漫画「はだしのゲン」から「首をおもしろ半分に切り落したり」「妊婦の腹を切りさいて中の赤ん坊をひっぱり出したり」など、旧日本兵が中国戦線で行ったとする残虐なシーンが4コマ掲載されている。
うち1コマは朝刊にもあり、「松江市教委が問題視した場面」という説明が付いている。記事では作者の故中沢啓治さんの妻、ミサヨさんが「私もショックを受け『残酷すぎるのでは』と言いました。主人の答えは『きれいな戦争というのはないんだ』…」と語っている。が、こんなシーンは市教委ならずとも子供たちに見せたくない。
そもそも旧日本兵の蛮行に根拠はない。閲覧制限を表現の自由に関わるとする以前に、小欄は作品そのものに問題ありと考える。まして新聞に掲載された残虐シーンは事実として独り歩きしかねない。どこかの国はまた反日の材料ができたとほくそ笑んでいるだろう。
『2013年08月31日(Sat) 「戦争学のすすめ」』 http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20130831
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まったく毎度の事ながら、どこの国の話だかわからない。
人間のやることなのだから、良い面も悪い面もあるだろう。
例えば、幼い子供に両親や祖父母、先祖の悪い面だけを逐一教、事細かくえ込む必要があるだろうか。
精神形成に大切な幼少期に切り落とした生首だの切り裂いた腹部だのを見せつける必要があるだろうか。
しかも事実と無関係の写真や真偽不明の資料まで使って。
そういう事は、ある程度大人になってから勉強すれば良いのではないだろうか。
戦時中の美談も沢山ある。
幼少期には良い面を、悪い面は物心ついてからで良いのではないか。
Yahoo!知恵袋より抜粋。
hige4005さん
キスカ島
アッツ島玉砕の二の舞を避ける為、キスカ島の守備隊は米軍上陸の前に濃霧をついて撤退しましたが、撤退の際、後に上陸してくる米軍のために、撃墜され戦死した米軍パイロットをここに埋葬した、という英文の立札をたてておいたそうです。
坂井三郎
1942年2月28日、坂井一飛曹はジャワのスラバヤを1機で哨戒飛行中にDC-3に遭遇した。ゆっくりと飛ぶDC-3を、撃墜する前によくみようと横付けした一飛曹は、金髪の女性と小さな子供が胴体の窓越しに零戦を凝視しているのに気がついた。坂井一飛曹はその輸送機を攻撃せず、見逃した。帰投後上官には「雲中に見失う」と報告した。戦後、当時機内から坂井機を見ていたオランダ人の元従軍看護婦が、「あのパイロットに会いたい」と赤十字等の団体を通じて照会したところ、当該パイロットが有名な坂井三郎であることを知り、非常に驚いた。2人は再会し、互いの無事を喜び合った。
宮崎繁三郎
インパール作戦が失敗して退却戦になった時、殿を勤めて、彼は、負傷兵を戦場に残さないという信念の下、自らも負傷兵の担架を担ぎ、食料が欲しいと言われれば自らの食料を与えて兵たちを直接励ましたという。また他隊の戦死者や負傷兵を見つけると、遺体は埋葬し負傷兵を収容させ、日本軍の白骨死体で埋め尽くされた地獄の白骨街道を撤退し続けたのである。そこには宮崎の、軍人としての理性のみならず、人としての倫理観をも滲ませた。
駆逐艦 涼月
坊ノ岬沖海戦には「大和」の護衛として参加。艦橋前に150kgと推定される爆弾1発を受け損傷し、低速後進で佐世保に帰着する。帰着が遅く、すでに沈没してしまったと思われていたが、突然の帰還に佐世保工廠はサイレンを鳴らして大急ぎでタグボートを手配し、なんとかドックに収容することができたが、ドックの排水を待ちきれずドック内で着座してしまった。燃料も殆ど残っていなかった。沖縄から帰還した際に、船体前部のある部屋が内側から完全密閉処置され、なかで数名の水兵が酸欠死しているのが発見された。浸水によって脱出不能になったと思われるが、この空間の浮力が失われていたら、日本まで帰ることは出来なかっただろうと、艦長が遺体に頭を垂れたという話が残っている。
先の回答者さんの詳細です。
1942年2月28日、ジャワ海スラバヤ沖で、イギリスの駆逐艦「エンカウンター」が撃沈され、400名以上のイギリス兵が救助を求めて漂流しているところに、通りかかった日本海軍
の駆逐艦「雷(いかづち)」(乗組員約240名)、その前年には日本の病院船の救命ボートが攻撃されて撃沈されるということも起こっていたから、イギリス兵たちは一度は死を覚悟した。しかし、「雷」の艦長、工藤俊作は、自艦が攻撃される可能性を冷静に判断した上で、「雷」の乗組員の倍以上の422人のイギリス兵をひとり残らず救助した、日本兵は献身的に救助した。救助されたイギリス兵は翌日ボルネオ島近辺で病院船に引き渡された。救助されたイギリス兵の一人、サムエル・フォールは戦後外交官としてサーの称号を得た。彼は1966年「My Lucky Life」を執筆し、この経験を記し工藤を称えた。
駆逐艦「雷」はその後撃沈され、乗組員はほぼ全員が死亡、艦長工藤俊作は別の艦に移動していており、戦後日本へ帰国したがこの経験をいっさい語らず昭和54年死亡。
haihaiyaraseneさん
正確な年や日にち、経緯や真偽は詳しく知りませんが、いくつか聞いた事があります。
・ 日中戦争の際、日本軍のとある部隊は、戦闘が終わると、自分達が殺傷した中国軍の遺体を必ず埋葬して、簡易の墓を作り、黙祷を捧げた。『同じ軍人として、戦死者の英霊は弔わなければならない』
・ 太平洋戦争初期、イギリス植民地だったビルマ(現・ミャンマー)に日本軍が進攻。日本で軍事教育を受けた独立運動家のアウン・サン(アウンサンスーチーの父)が率いる独立義勇軍が日本軍と共にイギリス軍と戦い、勝利する。
大英帝国の奴隷だったビルマ人は、自分達と同じアジア人である日本軍が白人に勝利し、祖国を解放・独立させた事に感激した。(その為、ビルマの歴史教科書では現在も、日本軍は『侵略者』ではなく『解放者』の扱いになっている)・ 太平洋戦争初期、マレー沖かインド洋で日本海軍がイギリス海軍の艦船を撃沈。多くの英国水兵が海に投げ出された。
しかし、日本海軍の駆逐艦一隻が、殆ど命令無視とも言えるイギリス水兵救出作戦を敢行した。
ついでに救出、のようなものではなく、危険海域にいたにも関わらず、(操舵・機関を除く)最低限の砲以外の全水兵を救出活動に当たらせた。・ ナチスドイツでのユダヤ人狩りが続く中、ドイツ(orポーランド)にあった日本所有の施設(学校or事務所)内で数十名のユダヤ人が身分を偽って匿われていた。
しかしゲシュタポが彼らの身分偽装を突き止め、施設内へ突入した。しかし施設の所長はゲシュタポに銃を突き付けられても、彼らの引渡しを拒否した。
日本人は人間の壁を作って彼らに対抗し、数時間後にゲシュタポは上官からの命令で引き上げていったそうな。・ 1944年後半。当時日本領だった南洋の島国・パラオに米軍が接近。重要拠点・ペリリュー島への米軍上陸が確実となる。現地の人々はパラオの発展に貢献した日本に協力しようと、現地の日本軍司令官・中川大佐に義勇軍の編成を要請した。
しかし中川大佐はこれを断固拒否し、逆に、ペリリュー島の全島民を近隣の島へ軍の輸送艦で退避させた。
パラオ人は最初、『日本人に裏切られた』と落胆したが、その後、米軍が島を占領し、元のペリリュー島に戻った時、彼らは玉砕した日本軍守備隊の亡骸が米軍によって無残に放置されているのを見て落涙した。
『中川大佐は、我々パラオ人を悲惨な戦闘に巻き込みたくなかったのだろう』と現地の人は言った。
実在の記録によると、太平洋戦争中にパラオで戦闘に巻き込まれて死亡・負傷・餓死した住民はゼロである。こんな感じでしょうか。
所々間違ってると思うので、確認をお願いします。
私個人としては、戦争を美化する事は許せません。『日中戦争は侵略ではなかった』とか、『大東亜戦争=日本軍のお陰で東南アジアは独立できた』とか。(←きっかけにはなったと思う)
全ての悲惨な戦争に、『正義の』とか、『大儀ある』、なんて飾りがつく物は絶対にないと思っています。
でもその『戦争』という悪の中で、人道を見失わずに正義を守ろうと努めた日本人の事を、我々はもっと称賛するべきです。
mogamidateさん
パラオの離島にアメリカ軍が近い内に上陸をしかけてくる
現地の青年たちは仲良くしてくれた日本軍の守備隊長に「自分たちも一緒に戦わせて欲しい」と頼んだ
すると隊長は「おまえら土人と一緒に戦えるか!この島から邪魔だから出て行け」と叱り付けた
パラオの青年たちはこの言葉に失望した
本島に最後の船が出る
見送りはいなかった
パラオの青年たちが乗った船が港を出ると
ジャングルから兵士たちが跳び出して来て船に向かって手を振り
昔一緒に歌った歌を歌い出した
手を振る兵士の中にはあの隊長もいた
パラオの青年たちは理解した
「自分達を助けるために隊長はわざと怒ったフリをしたのだと」日本軍守備隊は圧倒的兵力差のある米軍に徹底対抗し全滅した
この離島にいたパラオの青年たちからは一人の犠牲者も出ていない
詳しくは「パラオの桜」で検索を
nakanochurchさん
先の太平洋戦争当時、北海道その他を管轄された
北部軍総司令官樋口季一郎」中将は、すばらしい軍人
でした。 札幌市の月寒の司令部に居られました。
Wikiで検索されれば、多くの話題が知られます。 どうぞ!
安吾は何でも知っている。
数百万の血をささげたこの戦争に、我々の心を真に高めてくれるような本当の美談が少いということは、なんとしても切ないことだ。それは一に軍部の指導方針が、その根本に於(おい)て、たとえば「お母さん」と叫んで死ぬ兵隊に、是が非でも「天皇陛下万歳」と叫ばせようというような非人間的なものであるから、真に人間の魂に訴える美しい話が乏しいのは仕方がないことであろう。
けれども敗戦のあげくが、軍の積悪があばかれるのは当然として、戦争にからまる何事をも悪い方へ悪い方へと解釈するのは決して健全なことではない。
たとえば戦争中は勇躍護国の花と散った特攻隊員が、敗戦後は専(もっぱ)ら「死にたくない」特攻隊員で、近頃では殉国の特攻隊員など一向にはやらなくなってしまったが、こう一方的にかたよるのは、いつの世にも排すべきで、自己自らを愚弄することにほかならない。もとより死にたくないのは人の本能で、自殺ですら多くは生きるためのあがきの変形であり、死にたい兵隊のあろう筈(はず)はないけれども、若者の胸に殉国の情熱というものが存在し、死にたくない本能と格闘しつつ、至情に散った尊厳を敬い愛す心を忘れてはならないだろう。我々はこの戦争の中から積悪の泥沼をあばき天日にさらし干し乾して正体を見破り自省と又明日の建設の足場とすることが必要であるが、同時に、戦争の中から真実の花をさがして、ひそかに我が部屋をかざり、明日の日により美しい花をもとめ花咲かせる努力と希望を失ってはならないだろう。
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