NAKAMOTO PERSONAL

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『自己の革新』

露伴の『努力論』より。


幸田露伴著『努力論』(3)

『自己の革新』

 もし新しい好い自己を造り得なかったとあれば、それは新しい自己を造り得ない道理があってではなくて、新しい好い自己を造るに適しない事を為して歳月を送ったからだといってよろしいのである。即ち新しい自己を造るべき道を考えてこれを実行することが粗漏であったために、新しい自己が造れなかったという事は明らかなのである。

 もしも去年や一昨年と同一の自己であるならば、自己が受取るべき運命も同一なるべきはずである。即ち新しい自己が造り成されぬ以上は、新しい運命が獲得される訳はない。同一の自己は同一の状態を繰り返すだろう。

 自己を新にするにも、他によるのと自らするのと二ツの道がある。他力を仰いで、自己の運命をも自己その物をも新にした人も、決して世に少くは無い。

 立派な人や賢い人や勢力者や黽勉家(びんべんか)や、それらの他人に身を寄せ心を託して、そしてその人の一部のようになってその人のために働くのは、即ち自己のために働くのと同じであると感じて居て、その人と共に発達し進歩して行き、つまりその人の運命の分け前を取って自己も前路を得て行くというのも世間にあることであって、決して恥ずべき事でも厭うべきことでもない。やはり一の立派な事なのである。

 他人によって自己をなそうとしたならば、昨日の自己は捨ててしまわねばならぬのである。

 自己を没却してしまって、自己より卓絶した人、即ち自己がそうありたいと望むような人に随従して、その人の立派な運命の圏中において自己の運命を見出すのも、見苦しい事ではないのみならず、合理的な賢良な事である。古来良臣というのにはけだしこの類の人があるのであろう。これは他力によって自己を新にする方の談である。

 しかし世にはまたどうしても自己を没却することの出来ぬ人もある。そういう人は自ら新しい自己を造らんと努力せねばならぬである。他力に頼るのは易行道であって、これは頗(すこぶ)る難行道である。何故難行道であるかというに、今までの自己がよろしくないから新しい自己を造ろうというのであるに、その造ろうというものがやはり自己なのであるからである。

 自己を新にするの第一の工夫は、新にせねばならぬと信ずるところの旧いものを一刀の下に斬って捨てて、余蘖(よげつ)を存せしめざることである。

 いやしくも自ら新にせんとするものは昨日の自己に媚びてはならぬのである。一刀の下に賊を斬ってしまわねばならぬのである。

 何をするにも差当って健康は保ち得るようにせねば、一切瓦解する虞(おそれ)があるから、従来が不健康なら発憤して賊を馘(き)るのが何より大切だ。親譲りで体質の弱い人は実に気の毒であるが、それでもすべて従来做し来った事で悪いと認めた事はずんずんと斬り棄てて行ったら、終にあるいは従来に異なった健康体となり得ぬとも限らぬのである。

 再び言う。新しくせねばならぬと思うところの旧いものは、未練気なく斥けてしまわねばならぬのである。

 不健康の人が衛生に苦労する余り、アレコレいって下らぬことにあくせくとして居るのはそもそも間違きった談(はなし)で、歯磨、石鹸の瑣事まで神経を悩まして居たり、玩弄物のような、もしくは間食が変形したような薬などを、嘗めたり噛ったりして居るが如き事に心を使っている居るのは、それが先ず第一に非衛生的の頂点で、それよりも酒を廃するとか煙草を廃すとか、不規則生活を改めるとかした方が、何程早く健康を招き致すか知れたものではない。

 自己の生活状態を新にすれば自己の身体状態は必らず変易せずにはいない。激変を与えるのだから、身心共に楽では無いに相違無いが、これが出来ぬならやはり永久に、昨年の如く、一昨年の如く、一昨々年の如く、同じ胃病に悩んで青い顏をしているが宜いので、そして胃病宗の帰依者となつて、遂に胃病のために献身的生涯を送るが宜いのだから、嘆息して不足などをいわぬがよいのである。右が嫌なら左に行け、左が嫌なら右に行けである。

 例によって例の如き旧い運命に生捕られたくないならば、旧い状態を改むるに若くは無いのである。

 父母のために悪体質を賦与されて、それが原因で常に薬餌と親むべき状を有している、最も悲むべきものもある。が、要するに従来の自己に不滿を感ずるならば、従来の自己状態を改めてしまうのがよいのである。

 とかくに理屈を付けて昨日の自己を保護弁護しつつ、さてその結果だけは昨日より好いものを得たいと望むのが人情であるから、恕(ゆる)すべきではあるが、それを恕するとすれば数理上やはり自己は新にならぬのであるから何にもならない。是非英断を施さねばならぬのである。

 身体が弱くては一切不幸の根が断れず、一切幸福の泉が涸れがちであるから、いやしくも自らを新にしようと思ったならば、苦痛を忍んで不健康を致す昨日の自己の旧い悪習と戦って是に克ち、これを滅し、これを殲(つく)してしまわねばならぬである。

 しかし身体が弱くても事が成せぬのではない。身が弱くても意が強ければ、一日の身があれば一日の事は成せるのである。

 が、もし身体を弱くする原因が何であるかを知悉しながらも、これを改むることが出来ぬように意が弱くて、そして身が弱くては、気の毒ながらその人は自ら新にする事が出来難いのであって、従来通りの状態を超越する事は出来ぬのである。それではならぬ。よろしく発憤して自ら新にすべしである。