欲望について
欲望は秩序のために犠牲にせざるを得ないものではあるけれども、欲望を欲することは悪徳ではなく、我々の秩序が欲望の満足に近づくことは決して堕落ではない。むしろ秩序が欲望の充足に近づくところに文化の、又生活の真実の生育があるのであり、人間性の追求といふ文学の目的も、かゝる生活の生育のための内省の手段として、その意味があるのだらうと思ふ。
人は肉慾、慾情の露骨な暴露を厭ふ。然しながら、それが真実人によつて愛せられるものであるなら、厭ふべき理由はない。
我々は先づ遊ぶといふことが不健全なことでもなく、不真面目なことでもないといふことを身を以て考へてみる必要がある。私自身に就て云へば、私は遊びが人生の目的だとは断言することができない。然し、他の何物かゞ人生の目的であるといふことを断言する何等の確信をもつてゐない。もとより遊ぶといふことは退屈のシノニムであり、遊びによつて人は真実幸福であり得るよしもないのである。然しながら「遊びたい」といふことが人の欲求であることは事実で、そして、その欲求の実現が必ずしも人の真実の幸福をもたらさないといふだけのことだ。人の欲求するところ、常に必ずしも人を充すものではなく、多くは裏切るものであり、マノン侯爵夫人も決して幸福なる人間ではなかつた。無為の平穏幸福に比べれば、欲求をみたすことには幸福よりもむしろ多くの苦悩の方をもたらすだらう。その意味に於ては人は苦悩をもとめる動物であるかも知れない。
- 作者: 坂口安吾,川村湊
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1996/01/10
- メディア: 文庫
- 購入: 1人 クリック: 18回
- この商品を含むブログ (29件) を見る