NAKAMOTO PERSONAL

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「霊が“カンペ”を見ながら喋る」

「文春批判の幸福の科学で霊が“カンペ”を見ながら喋る」(やや日刊カルト新聞)
 → http://dailycult.blogspot.jp/2012/07/blog-post_25.html#more

7月11日発売の『週刊文春』が幸福の科学大川隆法総裁の“下半身問題”を「性の儀式」としてリポートしたことに対して、大川総裁は同誌の発売日前日の10日、発行元・文藝春秋社の創業者である作家・菊池寛の霊を召喚しました。その中で、菊池寛(霊)が自分の経歴が書かれた“カンペ”を見ながら話すという不思議な現象が起こっていたことがわかりました。しかもその内容がWilipediaに掲載されている内容と瓜二つであることが、本紙による調査でわかりました。


菊池寛の霊言は、ザ・リバティwebにも一部掲載され、7月24日付で『「文春」に未来はあるのか? 創業者・菊池寛の霊言』として書籍化されています。ザ・リバティwebを見ればわかる通り、菊池寛(霊)が、自分を文春の神であると語り、なおかつ自分がいま地獄にいると語っていることから、週刊文春に対してネガティブな評価を印象づける内容になっています。内容の詳細はザ・リバティwebや書籍でお楽しみいただければと思いますが、実はこの霊言では、霊が自分のプロフィールが書かれた紙をカンニングペーパーよろしく手にして喋るという、不思議な現象が確認されています。

冒頭、霊を下ろす前の大川隆法総裁が、クリップファイルを見ながら菊池寛の来歴を語っています。

「いま見てみますと、来歴を見ますと、高松中学校の頃は主席なんて書いてありますけど、家庭の経済的事情で学費免除の東京高等師範学校に進んだけど、授業をサボって除籍処分になっている。それから地元の素封家から頭脳を見込んで経済支援を受けたけど、明治大学法学部に入学。法律を学んで一時は法律家を目指したが、一高入学を志して中退。徴兵逃れを目的として早稲田大学政治経済学部に籍を置いたけど、受験勉強をして、大学図書館で井原西鶴を耽読した。1910年、早稲田大学を中退して一高一部に入学したが、同時に入学して親友となった、ああ芥川龍之介なんかとも会ってるんですね。しかし卒業直前に友人佐野文夫が、共産党の幹部ですね、窃盗の罪を着て退学。その後、友人の成瀬さんの実家から援助を受けて京大英文科に入学したものの、旧制高校卒業の資格がなかったため、当初は本科に学ぶことができず、選科に学ぶことを余儀なくされた。後に本科への転学に成功する。1916年に京大卒業後、時事新報社会部記者を経て、小説家となる。1923年に私費で雑誌『文藝春秋』を創刊し大成功を収め、富豪ともなった。日本文藝家協会を設立。芥川賞直木賞の設立者でもあります」

「大映の初代社長や報知新聞客員を務めて、これで得た資産などで、川端康成横光利一小林秀雄等の新進の文学者に金銭的な援助をおこなった。テレビドラマ『真珠夫人』は、彼の作品が原作で、ドラマ化もされた。2002年にドラマ化されたと。1925年文化学院文学部長就任。 1928年、第16回衆議院議員総選挙に、東京1区から社会民衆党公認で立候補したが、落選した。麻雀や競馬に熱中していたことでも知られ、麻雀では日本麻雀聯盟初代総裁を務めた。これ私も知らなかった。まさかあんな文芸雑誌というか作家の●●(不明)みたいな人が麻雀お好きだったとは知らなかったんですが、日本麻雀聯盟初代総裁。向こうにも総裁がいたんですね。また競馬では『日本競馬読本』は競馬入門本として現在でも評価が高い。また、戦前は馬主として多くの有力な競走馬を所有しており、能力検定競走として軍人や関係者約200名のみが観戦した1944年の東京優駿も、所有馬トキノチカヒを出走させていたことから観戦している。また将棋にも関心があり、「人生は一局の将棋なり 指し直す能わず」というフレーズを作ったといわれていると。太平洋戦争中、文芸銃後運動を発案し、翼賛運動の一翼を担ったために、戦後は公職追放の憂き目にあい失意のうちに没した。「我々は誰にしても戦争に反対だ。然し、いざ戦争になってしまえば協力して勝利を願うのは、当然の国民の感情だろう。」とは戦後の本人の弁であると書いてあります」

来歴の説明の後、クリップファイルを左手の脇に置いたまま、いよいよ菊池寛(霊)降臨です。大川総裁(実物)の口を通じて語り始めました。

教団職員(実物)「菊池寛さんでいらっしゃいますか」

菊池寛(霊)「菊池寛“さん”って、何?」

教団職員(実物)「菊池寛“先生”でいらっしゃいますか」

菊池寛(霊)「ああ。“先生”は最低かな。“さん”はないでしょう」

菊池寛(霊)は、右手の手元に置かれた週刊文春を開き、グラビアページをめくりながら、

「グラビアにパンダの写真。これくらい大きく載せないとな。どじょうが載って、日経新聞の社長が載って、AKB? AKB…最近のはよくわからんけども。石原さとみ? 創価学会の広告塔じゃないか。ベッドの上に横になって、やらしいじゃないか、ええ?」

そして話が進んでいくと、

菊池寛(霊)「まあ食っていくのは大変なんだなあ、はっはっは」

教団職員(実物)「会社が潰れてはいけないという思いはおありなんですよね」

菊池寛(霊)「まあ、これ(週刊文春は)何年に作ったって書いてある、ん?」

教団職員(実物)「1959年です。創刊が。1959年ですね」

ここで菊池寛の左手が、さきほど大川総裁(実物)が読み上げていたクリップファイルに伸びます。

教団職員(実物)「昭和34年です」

菊池寛(霊)「それは大川隆法さんの御聖誕祭の方が格上だから(週刊文春は)嫉妬してるんだよ」

あとはもう、カンペ見ながら楽しそうに。

菊池寛(霊)「いまの文春にかかったらオレなんかさ、学校いっぱい辞めてさ、除籍処分受けたりさ、泥棒の扱いで退学したりさ。衆議院議員には落ちるわ、麻雀連盟の総裁に、競馬やって楽しんで、叩き放題だろうな」

菊池寛(実物)は1948年に亡くなってからだいぶ経つので、菊池寛(霊)はカンペでも見ないとご自身の経歴も思い出せないのでしょうか。こういうこともあるということは、ほかの霊にもカンペを見せながら喋らせないと危険です。自分の経歴すら忘れた霊が適当なことを喋ったら、「大川隆法の霊言は史実とも合っていないからインチキだ」などと言われかねません。

当然、霊にカンペを見せるにしても、ちゃんとした情報が載ったカンペでないと意味がありません。菊池寛(霊)がパラパラめくっているクリップファイルの中身は、いったい何なのでしょうか。

本紙主筆・藤倉は、大川総裁が読み上げた文章を霊能力を使わず分析。とりあえずググって出てきたWikipediaに、こんな記述を見つけました

Wikipedia菊池寛
来歴 [編集]
香川県香川郡高松の生まれ。菊池家は江戸時代、高松藩の儒学者の家柄だった。高松中学校を首席で卒業した後、家庭の経済的事情により、学費免除の東京高等師範学校に進んだものの、授業をサボっていたのが原因で除籍処分を受けた。
しかし地元の素封家から頭脳を見込まれて経済支援を受け、明治大学法学部に入学。法律を学んで一時は法律家を目指したこともあったが、一高入学を志して中退。徴兵逃れを目的として早稲田大学政治経済学部に籍のみ置き、受験勉強の傍ら、大学図書館で井原西鶴を耽読した。
1910年、早稲田大学を中退して第一高等学校第一部乙類入学。同期入学には後に親友となり彼が創設する文学賞に名を冠する芥川龍之介らと出会う。しかし卒業直前に友人佐野文夫(後年の日本共産党幹部)の窃盗の罪を着て退学。その後、友人成瀬正一の実家から援助を受けて京都帝国大学文学部英文学科に入学したものの、旧制高校卒業の資格がなかったため、当初は本科に学ぶことができず、選科に学ぶことを余儀なくされた(後に本科への転学に成功する)。
1916年に京大卒業後、時事新報社会部記者を経て、小説家となる。1923年に私費で雑誌『文藝春秋』を創刊し大成功を収め、富豪ともなった。日本文藝家協会を設立。芥川賞直木賞の設立者でもある。
大映初代社長や報知新聞客員を務め、これらの成功で得た資産などで、川端康成横光利一小林秀雄等新進の文学者に金銭的な援助をおこなった。テレビドラマ『真珠夫人』は、彼の作品が原作であり、長らく絶版となっていたが、2002年のテレビドラマ化に伴い復刊された。
1925年文化学院文学部長就任。 1928年、第16回衆議院議員総選挙に、東京1区から社会民衆党公認で立候補したが、落選した。
麻雀や競馬に熱中していたことでも知られ、麻雀では日本麻雀聯盟初代総裁を務めた。競馬では『日本競馬読本』は競馬入門本として現在でも評価が高い。また、戦前は馬主として多くの有力な競走馬を所有しており、能力検定競走として軍人や関係者約200名のみが観戦した1944年の東京優駿も、所有馬トキノチカヒを出走させていたことから観戦している。
また将棋にも関心があり、「人生は一局の将棋なり 指し直す能わず」というフレーズを作ったといわれる。
太平洋戦争中、文芸銃後運動を発案し、翼賛運動の一翼を担ったために、戦後は公職追放の憂き目にあい失意のうちに没した。「我々は誰にしても戦争に反対だ。然し、いざ戦争になってしまえば協力して勝利を願うのは、当然の国民の感情だろう。」とは戦後の本人の弁である。

冒頭で紹介した大川総裁の前説と比べてみると、コピペしただけなのではないかと思えるほどそっくりです。

幸福の科学は、この霊言の内容を「大川隆法・著」として幸福の科学出版から出版しています。タイトルは、『「文春」に未来はあるのか? 創業者・菊池寛の霊言』。しかし、Wikipediaらしきものをカンペにして喋る霊の言葉で文春の評価を貶めるというのは、はたしてまっとうな批判と言えるのでしょうか。

もともと、霊言という宗教行為が客観的な真実であるという立証はできませんから、霊言によって特定の人物・団体の名誉を傷つければ名誉毀損という違法行為(たとえ公共性・公益目的があっても、真実性がなければ違法です)となる可能性があります。ましてや、自分の経歴すらもWikipediaらしきものをカンペにして喋る霊の言葉となると、仮に本物の霊だと仮定しても、そんな霊にどれほどの証言能力があるのか、という話になります。当然、「信頼性に疑問がある霊の言葉を出版した責任」は、大川隆法総裁や幸福の科学にあります。

菊池寛の霊言終了後、大川総裁はご自身の言葉で、こう語りました。

「せっかく(週刊文春が)書いてくれたんだから、性の儀式始めようかな。性の儀式のグランドマスターって。これやったらけっこう客来るんじゃない? まずは文春に招待状出して、みんなに経験していただいて」

こうやって責任の所在が明らかな形で冗談を言う方が、カンペを見ながら喋る菊池寛(霊)の言葉を使って文春を貶めるよりも、面白いと思います。

 信じやすい人というのは、奇妙なことがらを信じることに無上の喜びを見出すものだ。しかも、奇妙であればあるほど受け入れやすいときている。ところがそういう人は、平明でいかにもありそうなことがらは重んじようとしない。というのもそんなものは誰でも信じることが出来るからだ。

── サミュエル・バトラー『人さまざま』


ダーウィンに挑んだ文学者―サミュエル・バトラーの生涯と作品

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