NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

反原発と魔女狩り

一人の人間を除いて全人類が同じ意見で、一人だけ意見がみんなと異なるとき、その一人を黙らせることは、一人の権力者が力ずくで全体を黙らせるのと同じくらい不当である。

── J・S・ミル『自由論』


昨日の産経抄より。

「【産経抄】『小さな声』でも、原発擁護を口にすれば…」(産経新聞)
 → http://sankei.jp.msn.com/economy/news/120719/biz12071903060001-n1.htm

 〈原発はむしろ被害者、ではないか小さな声で弁護してみた〉〈原子力は魔女ではないが彼女とは疲れる(運命とたたかふみたいに)〉。歌人の岡井隆さんが、「3・11」の後、原発事故について詠んだ作品だ。

 岡井さんは、反原発を主張する東京新聞に「けさのことば」という連載を持つ。今年2月、その東京新聞のインタビューに、元医師でもある岡井さんは、「ぼくは原子力容認派」と答えていた。勇気ある発言に驚いたものだ。

 「日本中の新聞で原発擁護を書いたのは岡井さん一人。袋だたきに遭いますよ」と周りから言われるそうだ。歌壇の大御所でさえ、このありさまである。まして、電力会社の社員に、発言の自由はないらしい。将来のエネルギー政策に関して、国民からの意見を聴取する会に、東北電力の幹部や中部電力の関係者が発言者として出席していたことに、批判が広がっている。

 「個人的な意見として、原発をなくせば経済や消費が落ち込み、日本が衰退する」「(福島第1原発事故では)放射能の直接的な影響で亡くなった人は一人もいない」。小欄にはもっともな意見に聞こえるが、会場は騒然となり、テレビのコメンテーターは「信じられない」と罵(ののし)っていた。政府は今後、電力関係者を排除するという。

 16日に東京都渋谷区の代々木公園で開かれた「さようなら原発10万人集会」は、主催者発表で約17万人、警視庁によれば約7万5千人と、大変なにぎわいだったらしい。作家の落合恵子さんは、「今日ここに来ているのが、国民であり市民」と言い切った。

 「小さな声」でも、原発擁護を口にすれば国民とは認められない。そんな日が来るとしたら、放射能より恐ろしい。


今や『反原発』は金科玉条、錦の御旗である。
原発擁護者の主張は抹殺され、魔女狩り、村八分となる。『反原発=正義』『原発擁護=悪』という空気が醸成されつつある。
理論・理屈は無視され反原発者を批判すると原発推進者と見なされる。
そして最後には『反対か、推進か』短絡化された二者択一の『踏み絵』である。


山本七平はこの反論を認めない絶対的正義権力を『空気』と呼んだ。

いわば彼を支配しているのは、今までの議論の結果出てきた結論ではなく、その「空気」なるものであって、人が空気ら逃れられない如く、彼はそれから自由になれない。従って、彼が結論を採用する場合も、それは論理的結果としてでなく、「空気」に適合しているからである。採否は「空気」が決める。従って「空気だ」と言われて拒否された場合、こちらにはもう反論の方法はない。人は、空気を相手に議論するわけにいかないからである。

この言葉は一つの“絶対の権威”の如くに至る所に顔を出して、驚くべき力を振るっているのに気づく。「ああいう決定になったことに非難はあるが、当時の会議の空気では・・・」「議場のあのときの空気からいって・・・」「あのころの社会全般の空気も知らずに批判されても・・・」「その場の空気も知らずに偉そうなことを言うな」「その場の空気は私が予想したものと全く違っていた」等々々、至る所で人びとは、何かの最終決定者は「人でなく空気」である、と言っている。

むしろ日本には「抗空気罪」という罪があり、これに反すると最も軽くて「村八分」刑に処せられるからであって、これは軍人・非軍人、戦前・戦後に無関係のように思われる。

この『空気』に抵抗出来る唯一のものが『水』である。
「話に水を差す」如く『水』を差し続けることが必要である。


水を差し続ける産経新聞をぼくは支持する。
反対にしろ擁護にしろ、“魔女狩り”があってはならない。


翁に曰く、

してみれば言論の自由とは、大ぜいと同じことを言う自由である。大ぜいが罵るとき、共に罵る自由、罵らないものをうながして罵る自由、うながしてもきかなければ、きかないものを村八分にする自由である。

── 山本夏彦『毒言独語』

自由論 (光文社古典新訳文庫)

自由論 (光文社古典新訳文庫)


「空気」の研究 (山本七平ライブラリー)

「空気」の研究 (山本七平ライブラリー)


毒言独語 (中公文庫)

毒言独語 (中公文庫)