『幸福三説』-『惜福の説』
幸田露伴の『努力論』(4)
第四章には幸福になるための三つの方法が書いてある。
『幸福三説』である。
これを自説のように説いている新興宗教団体もあるが.....。
1、惜福 = 福を惜しむこと。
2、分福 = 福を分けること。
3、植福 = 福を植えること。
『惜福の説』の巻。
『惜福の説』-(幸福三説第一)
第一に幸福に遇う人を観ると、多くは『惜福』の工夫のある人であって、然らざる否運の人を観ると、十の八、九までは少しも惜福の工夫のない人である。福を惜しむ人が必ずしも福に遇うとは限るまいが、何様(どう)も惜福の工夫と福との間には関係の除き去るべからざるものがあるに相違ない。
惜福とはどういうのかというと、福を使い尽くし取り尽してしまわぬをいうのである。
たとえば掌中に百金を有するとして、これを浪費に使い尽くしして半文銭もなきに至るがごときは惜福の工夫のないのである。正当に使用するほかには敢て使用せずして、これを妄擲浪費せざるは惜福である。
「幸運は七度人を訪う」という意の諺があるが、如何なる人物でも周囲の事情がその人を幸(さいわい)にすることに際会することはあるものである。その時に当たって出来る限り好運の調子に乗ってしまうのは、福を惜しまぬのである。控え目にして自らを抑制するのは惜福である。
十万円の親の遺産を自己が長子たる故を持って尽く取ってしまって、弟妹親戚にも分たぬのは、惜福の工夫に欠けて居るので、その幾分かをば弟妹親戚らに分ち与うるとすれば、自己が享けて取るべき福を惜み愛(おし)みて、これを存留して置く意味に当たる。これを惜福の工夫という。即ち自己の福を取り尽くさぬのである。
倹約や吝嗇(りんしょく)を惜福と解してはならぬ、すべて享受し得べきところの福佑を取り尽くさず使い尽くさずして、これを天といおうか将来といおうか、いずれにしても冥々たり茫々たる運命に預け置き積み置くを、福を惜むというのである。
何故に惜福者はまた福に遇い、不惜福者は漸くにして福に遇わざるに至るのであろうか。
惜福者は人に愛好され信憑さるべきものであって、不惜福者は人に憎悪され危惧さるべきものであるから、惜福者が数々福運の来訪を受け、不惜福者が終に漸く福運の来訪を受けざるに至るも、自から然るべき道理である。
万事此樣(こん)な道理が、暗々の中、冥々の間に行われて、惜福者は数々福運の来訪を受け、不惜福者は漸く終に福運の来訪を受けざるに至るのであらう。
- 作者: 幸田露伴
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