NAKAMOTO PERSONAL

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世論とは何か

「【断 富岡幸一郎】世論とは私語の堆積か」(産經新聞
 → http://sankei.jp.msn.com/life/environment/081213/env0812130308000-n1.htm

 麻生内閣の支持率が急落している。本紙12月2日付によれば、政権発足から約2カ月で、支持率は17ポイント以上も落ちて3割を切り、不支持は6割近く。原因としては、人柄・指導力・改革意欲・言動といった「首相の資質」をめぐる問題だという。
 世界的な金融危機を前にして、首相の指導力が問われるなか、政策決定は遅れ、発言もブレてばかりでは支持率低下も当然であると、ひとまず納得できる。
 しかし、よくよく考えれば、政治家、首相としての指導力はともかく、人柄とか言動についての支持率とは何か。マスコミが首相は毎晩ホテルのバーに行っているだの、漫画ばかり読んでいて漢字が読めないだのと、箸(はし)にも棒にもかからぬ瑣事(さじ)を針小棒大に“報道”しているのだから、判断の基準は何処にあるのか。まして人柄などパーセントで出すこと自体おかしい。衆愚政治も極まれりの感がする。
 1930年代、大恐慌の余韻のなかボルシェヴィズムとファシズムを睨(にら)みながらスペインの哲学者のオルテガは、大衆支配の危機を『大衆の反逆』という本で訴えた。いわく、大衆は喫茶店での話題から得た結論を実社会に強制し、それに法の力を与える権利を持っていると信じている、と。つまりは世論の暴走である。世論とは本来はパブリック・オピニオンのはずだが、平成日本では私語の堆積(たいせき)の様相を呈してはいまいか。
 各新聞の世論調査が政治を動かし、政治家はその数字を見ながら動く。世論に憂慮する政治家ではなく、憂国の政治家の出現をこそ期待したい。

 新聞はあくまで事実の報道という形で、国民を一定の方向に追いやることができますが、さらにその限度を超えて、最初から「世論はこうだ、こうだ」と国民の頭上におっかぶせていくとなると問題です。ことに一般の国民は難解拙劣な政治記事を読まずに、見出しや煽情的な社会面を読みがちですから、そういう工作は易々たるものです。もちろん、国民の大部分は動かされはしませんでした。

― 福田恆存『輿論を強ひる新聞』


大衆の反逆 (中公クラシックス)

大衆の反逆 (中公クラシックス)