一日一言「しなくてはならない仕事」
二月二十七日 しなくてはならない仕事
しなくてはならない仕事は、気軽く積極的にすること。何事でも気持ちよく手を動かせば、仕事がはかどって疲労も少ない。仕事がいやだと思えば思うほど神経を痛め、億劫にすればするほど神経を痛める度合いが増すことになる。
早ければ為す事有りて身は安く
遅くて急ぐ道は苦しし
すべき事片付けるこそ善所なれ
せずに置く気はいつも苦しむ
お千代さんにも曰く、
何事をするにも、それをするのが好き、と言う振りをすることである。それは、単なるものまねでもいい。すると、この世の中に、嫌いなことも、また嫌いな人もいなくなる。
── 宇野千代 (『行動することが生きることである』)
行動することが生きることである―生き方についての343の知恵 (集英社文庫)
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絶望から出発せよ
その人の性格にもよるでしょうが、私は絶望というものがあらゆるものの出発点だと思うのです。人間というのは絶対孤独であって、人と人との間に最終的には架ける橋はないというのが私の人間観です。人間はエゴイスティックなもので、本当は自分のことだけしか考えていないのだということを、一度痛切に見つめることが大切です。そうすると、人間というものは非常に悪いもののように思われますが、私はそのエゴイズムというものが、生きる力、生命のエネルギーだと思います。
── 福田恆存(『人間の生き方、ものの考え方 学生たちへの特別講義』)
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「正義と勇気の日」
「【産経抄】『二・二八事件』70周年…多くの台湾人の命を救った1人の日本人がいた 2月25日」(産経新聞)
→ http://www.sankei.com/column/news/170225/clm1702250003-n1.html
陸軍将校らがクーデターを起こした昭和11年の二・二六事件から、もう81年がたつ。「あのころ、マルクス理論の本などを読んでいる将校がかなりおりましたよ」。地方紙、夕刊フクニチ(現在は休刊)の創設者、浦忠倫は日本新聞協会のインタビューに、東京の歩兵第一連隊に勤務していた当時の空気をこう証言している。
浦は「青年将校の思想などは、一種の国家社会主義に近い」とも語っている。イデオロギーや正義感、動機の純粋性にとらわれると、人は時に暴挙に出る。現代社会にも通じる貴重な教訓が読み取れるが、今や二・二六事件は遠い昔の話として風化しつつあるようだ。
一方、お隣の台湾では、1947年に起きた「二・二八事件」70周年が、蔡英文政権により国家的事業として位置づけられている。日本に代わり、台湾の統治者となった国民党政府による台湾人弾圧・虐殺事件のことである。犠牲者総数は2万人を超える。
台北でたばこ売りの寡婦が警察に殴打されたことをきっかけに、事件は勃発した。抗議の民衆デモに警察が機銃掃射を行い、「中国人を追い出せ」と民衆蜂起は広がり、台湾全島が大混乱に陥った。
ノンフィクション作家の門田隆将さんの著書『汝、ふたつの故国に殉ず』によると、そんな中で混乱の沈静化を図り、多くの台湾人の命を救った1人の日本人がいた。日本人の父と台湾人の母の間に生まれた坂井徳章(とくしょう)である。
「台湾人、バンザーイ」。最期に日本語で叫んで銃殺された坂井の姿は台湾人の感動を呼び、国民党政府の戒厳令下でもひそかに語り継がれた。2014年には台南市が、坂井の命日を「正義と勇気の日」に制定した。こちらの「事件」が風化しなかったことがうれしい。
汝、ふたつの故国に殉ず ―台湾で「英雄」となったある日本人の物語―
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「イイシラセ」
「大川隆法の『イイシラセ』清水富美加に感じたシンパシーの遠因 島田裕巳」(IRONNA)
→ http://ironna.jp/article/5840
女優の清水富美加さんが、芸能界を引退し、幸福の科学に出家するということで大きな騒ぎになっている。
幸福の科学は、宗教のなかでは一般に「新宗教」に分類されている。新宗教をいったいいかなる宗教集団としてとらえるかについては、学界でも議論があり、一時幸福の科学は新宗教よりもさらに新しい「新新宗教」に分類されていたたこともあった。
新新宗教とは、戦後の高度経済成長が終わり、オイルショックを景気に低成長、安定成長の時代に入ったことを象徴する宗教のことである。
従来の新宗教が病気治しや「現世利益」の実現を約束するのに対して、終末論やそうした事態を乗り越えるための超能力の獲得を宗教活動の中心に据えるものが新新宗教であるととらえられてきた。
そうした新新宗教のなかで、1980年代後半からのバブルの時代に台頭したのが、幸福の科学であり、当時はそのライバルと言われることも多かったオウム真理教である。
幸福の科学が社会的に注目されたのは、1991(平成3)年のことである。その年の7月7日には、教団の総裁である大川隆法氏の誕生日を祝う「ご誕生祭」が東京ドームで開かれ、事前にテレビで相当に派手な宣伝が行われた。私も、実際にこの祭典を取材に出かけたが、急成長する教団の存在を社会に向かって強くアピールしようとするような内容になっていた。
ただ、その一方で、講談社の出版物が教団とその信者の名誉を甚だしく毀損する記事を掲載したとして、当時信者であった作家の景山民夫氏や女優の小川知子氏などが被害者の会を結成し、講談社に対して強硬な抗議活動を行ったことでも、この教団は注目されることとなった。
講談社に対しては、膨大な抗議のファックスが送られ、また、教団や信者が講談社などに対して億単位の訴訟が行われた。ちょうとこの時期は、オウム真理教が進出した地域で住民とトラブルになっており、両者あいまって、社会的な注目を集めざるを得なかった。
おそらく、幸福の科学の存在が一般の人々に強く印象づけられたのは、この時期のことだろう。ただ、それ以降は、幸福の科学に関連してそれほど大きな話題や出来事はなかったので、若い世代になれば、今回のことが起こるまで、幸福の科学の存在自体を認識していなかったという人も少なくないのではないだろうか。
幸福の科学がオウム真理教と同じ時期に注目を集めたからといって、そのあり方や宗教としての中身は大きく隔たっている。ともに仏教教団であると称している点では共通するが、仏教に対するとらえ方も大きく異なるし、幸福の科学の特徴である大川氏の「霊言」のようなものはオウム真理教にはない。逆に、オウム真理教の最大の特徴であるヨーガの実践も、幸福の科学では行われていない。
オウム真理教が1984年という象徴的な年(ジョージ・オーウェルの近未来小説『1984年』や村上春樹の『1Q84』が思い起こされる)に誕生したのに対して、幸福の科学はその2年後の86年に誕生している。
総裁の大川氏は、東京大学の法学部を出たエリートで、その点でも盲学校しか出ていない麻原彰晃とは対象的である。ただ、大川氏の父親は宗教家であり、大川氏はその影響を強く受けながら成長した。その点で彼は、「教祖二世」なのである。
東大を卒業した大川氏は、大手総合商社のトーメン(現在の豊田通商)に入社するが、入社直前の1981年には、宗教体験をしている。それは、鎌倉時代の宗教家、日蓮の弟子の一人、日興の霊が降り、大川氏の手が勝手に動いて、「イイシラセ、イイシラセ」と書きはじめたというものである。
その後も、彼はさまざまな霊と交信を行ったとされるが、ここで注目されるのは、まず日興の教えを受け継ぐものは日蓮宗のなかで富士門流と呼ばれ、創価学会が、それこそ幸福の科学とオウム真理教のことが社会的に注目される1991年まで信奉してきた日蓮正宗につながるということである。
また、「イイシラセ」とは、キリスト教で言えば「福音」のことである。ここには、幸福の科学が、創価学会やキリスト教などの既存の宗教からさまざまに影響を受けていることが示されている。さらに、生長の家やGLAの影響もある。
大川氏自身は自らのことを「再誕の仏陀」ととらえているが、その再誕の仏陀は、幸福の科学の本尊である「エル・カンターレ」とも重ね合わされている。エル・カンターレに最初に言及したのは、GLAの開祖である高橋信次であった。
結局のところ、大川氏はトーメンを退社し、その後宗教家としての道を歩みはじめるわけだが、大川氏に降ったとされる各種の著名人の霊言ということが教団活動の中心に位置づけられている。
現在では、「守護霊インタビュー」と呼ばれ、信者に対して公開で行われている。それは、信者ならインターネットを通しても見ることができるし、追って書籍化され、一般の人間でもそれを読むことができる。
霊言や守護霊と言うと、一般にはおどろおどろしいものを感じさせたりするが、幸福の科学の霊言は、守護霊が本人の本音を語るというようなもので、公開の場では、守護霊の正体を聞き手となった教団の人間が追求していくというところがやま場になっている。それは、信者にとっての楽しみであり、守護霊インタビューはエンターテイメントの要素をもっている。
今回の騒動では、『女優清水富美加の可能性』という守護霊インタビューがクローズアップされたが、この本の前書きでは、大川氏自身が清水さん本人に対して「覚悟」を求めるメッセージを発しており、また、引退騒動に教団の幹部や弁護士が直接乗り出してきたことでも異例の展開を示している。
教団が、一信者のためにそれだけ積極的に出てきたのは、統一教会の合同結婚式をめぐって、元新体操の選手、山崎浩子氏の脱会騒動があったときくらいではないだろうか。
なぜ大川氏は、清水さんに覚悟を求めたのか。おそらくそこに、この騒動の根本的な原因があるのだろうが、清水さんも信者としては二世であり、その点で教祖二世の大川氏と重なる。そして、父親の影響が色濃いという点でも似ている。あるいはそこに、大川氏が彼女に対して強いシンパシーを感じた遠因があるのかもしれない。
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“哲学の巫女”
考えることは、悩むことではない。
世の人、決定的に、ここを間違えている。人が悩むのは、きちんと考えていないからにほかならず、きちんと考えることができるなら、人が悩むということなど、じつはあり得ないのである。なぜなら、悩むよりも先に、悩まれている事柄の「何であるか」、が考えられていなければならないからである。「わからないこと」を悩むことはできない。「わからない」は考えられるべきである。ところで、「人生をいかに生くべきか」と悩んでいるあなた、あなたは人生の何をわかっていると思って悩んでいるのですか。
平成19年(2007年)2月23日 “哲学の巫女” 考える人 池田晶子 没
「宗教」ではない宗教性
信じる人は困ったものだと皆が言っている。根は真面目で、しかも頭の良い人たちなのに、と。
そういうふうに言うときの人々の口調に、何かずるいものを私は感じる。確かに彼らは頭が良いが、信じているから馬鹿なのだ。信じる人は馬鹿なのだ。知的な人間は信じないものだ、信じない自分のほうがだから彼らより知的なのだ、それで一段高みから彼らを論評する資格が自分にはあるのだといったような。
これ、うそ。この両者、おんなじ。信じてる人も、信じてない人も、なぜ信じ、なぜ信じていないのかを、考えることなく信じてたり信じてなかったりするのだからまったくおんなじ、つまり考えなし。考えることなく信じている、これを信仰という。世のほとんどが無宗教信者。
人が何がしかの宗教的なものに関わるのは、救われたいからだ縋(すが)りたいからだと思うのは、もうやめにしてもいいのではないか、信じてる人も信じてない人も、ちょうど、きりよく二千年たつことだし。
信じてる人、聞いてください。
あなたが信じたのは、自分の孤独に不安を覚えたからだった。ところで、信じたところで、あなたがあなたでなくなりますか、宇宙が宇宙でなくなりますか。いや、信じることによって自分と宇宙は一体化できるのだというのなら、宇宙自身の孤独はどうなるのですか。宇宙は自分が自分であって自分以外ではないという孤独を、何によって癒せばよいのでしょう。そのときあなたの孤独は、じつは宇宙大に拡大しただけの話ではないでしょうか。つまることろ、「あなた」とは誰ですか。あなたはそれについて、信じるのではなく考えたことがありますか。また、考えるために大勢でまとまる必要が、なぜあるのでしょうか。
信じてない人、聞いてください。
あなたが信じていないのは、自分は自分であり宇宙とは別物であると信じているからだった。ところで、そう信じられるためには、あなたは「自分」という言い方で何を指示しているのかを、明確にできなければならない。それはあなたの肉体を指しますか。それとも心ですか。では心はどこにありますか。心なんてものはない。それは脳のことを指すのだというのなら、では、脳を作ったのはあなたですか。あなたの脳を作ったのは、ほかでもない、宇宙ではないのですか。ではなぜ、宇宙と自分とを別々にして考えられましょうか。人が宗教的なものに考え至らざるを得ないのは、実は救済以前の問題なのだと、このとき気づきはしませんか。
私は、信仰はもっていないが、確信はもっている。それは、信じることなく考えるからである。私は考えるからである。宇宙と自分の相関について、信じてしまうことなく考え続けているからである。救済なんぞ問題ではない。なぜなら、救済という言い方で何が言われているのかを考えることのほうが、先のはずだからである。人類はそこのところをずうーっと、あべこべに考えてきたのだ。これは、驚くべき勘違いである、気持ちは、わかるけど、オウムの事件は、たぶん、トドメの悪夢なのだ。
新しき宗教性は、だから、今や「宗教」という言葉で呼ばれるべきではない。それは「宗 - 教」ではない。教祖も教団も教理も要らない、それは信仰ではない。それは、最初から最後までひとりっきりで考え、られるし、また考える、べき性質のものなのだ。だからそのあらたなる名称は、
垂直的孤独性、とか
凝縮的透明性、とか
そんなふうな響きをもった、何を隠そうその名は、「哲学」なのである。
『(池田晶子記念)わたくし、つまり Nobody賞』 http://www.nobody.or.jp/
『池田晶子 - Wikipedia』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%99%B6%E5%AD%90_(%E6%96%87%E7%AD%86%E5%AE%B6)
- 作者: 池田晶子,NPO法人わたくし、つまりNobody
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- 作者: 池田晶子,わたくし、つまりNobody
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