NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

「頑健な日本」の姿勢を見せよ

「【正論・戦後73年に思う】「頑健な日本」の姿勢を見せよ 明治大学名誉教授・入江隆則」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/column/news/180821/clm1808210006-n1.html

 世界は目下、歴史的な大転換期に遭遇している。何からの転換かといえば、第二次世界大戦の長かった「戦後の時代」からの転換である。むろん「戦後は終わった」くらいのことなら、何年も、いや何十年も前からさんざん言われてきたことではある。しかし、当時の人々の目には「戦後」が終わったことは漠然と見えてはいても、その後に何がくるのかが必ずしも判然としていなかった。

 それがやっと見えてきたのがこの数年間の情勢であり、その意味ではやっと人々の目に「ポスト戦後」の姿が映じてきたようにみえる。それは世界有数の大国が、自分自身の内部に回帰していく時代として現れていると思う。


 ≪米国抜きの安全保障を考えよ≫

 まずアメリカであるが、トランプ大統領が述べた「アメリカファースト」という言葉について、いろいろ解釈もあるようだが、私はアメリカ大陸以外の世界からの関与からの撤退と考えればよいと思う。いわゆるモンロー主義への回帰だ。

 周知のようにモンロー主義というのは第5代大統領のジェームズ・モンローが1823年に述べた、アメリカとヨーロッパの相互不干渉を主張する外交政策の原則である。ここでヨーロッパが出てくるのは、ヨーロッパこそが当時の世界の実質的な全てだと見なされていたからである。

 従って、今日、同じことを言おうとすれば、ヨーロッパのみならず中東からアジアまでを含めた全世界から降りるということになり、それが「世界の警察官といった愚行は一切、やめる」というトランプ大統領の言葉になる。

 もちろん、直ちに在韓米軍を引き揚げるわけではないにしても、徐々にそういう方向にアメリカが動いていくことは確かだと考えなければならない。日本としても「アメリカ抜きの世界」の安全保障を今から考えておかねばならないだろう。


 ≪中国は復讐を意図している≫

 次いで中国だが、同様に自分自身への回帰に向かっていくと考えられる。しかし、それは中国が繁栄した時代だった14世紀から17世紀にかけての明帝国に還(かえ)ろうとしているかのようだ。明朝時代の中国は、鄭和の艦隊の大航海が象徴しているように東シナ海南シナ海のみならず、インド洋からアフリカ沿岸までをも、その支配下に置いていた時代だった。だから現代の中国の世界戦略である「真珠の首飾り」や「一帯一路」といった海と陸からの大中華帝国に似た時代だった。

 同時に今日の中国には「世界列強への復讐(ふくしゅう)」という戦略があるのも見逃してはならない。これは歴史家のアーノルド・トインビーがつとに指摘していたところで、19世紀以後の中国は1840年にアヘン戦争が起こり、その半世紀後の94年に日清戦争が起こっている事実から明らかなように、世界の「列強」からいじめられてきた歴史がある。今日の中国がそれに対する「復讐」を意図しているのが、アメリカの先祖還りとの重大な相違である。


 ≪期待を裏切ってはならない≫

 では日本はどうか。思い出すべきは、第二次大戦後の日本人が自虐的な東京裁判史観によって“洗脳”された事実である。戦争に至る過程で「すべて日本が悪かった」というのがその考え方である。同時に戦後日本の「超平和主義」も、アメリカが日本の復讐を恐れて、日本人の頭にたたき込んだ結果である。この問題については、彼らが第一次大戦のドイツの戦後から学習した側面がある。

 第一次大戦敗戦国だったドイツは、勝者だった連合国によってさまざまな外的、軍事的な拘束を課された。将校の数が4000人を超えてはならないとか、10万人を超える軍隊を持ってはならないなどの規制である。

 しかし裏をかくのはたやすいことで、例えば民間人に実質的な軍人としての教育を施しておけば、一朝有事の際には軍人をそろえることができる。したがって思想教育や洗脳が重要なのであって、それを敗戦国民に施して大成功を収めたのが、日本の戦後の特色だった。

 それでは洗脳から脱して、本来の日本を取り戻すためにはどうしたらよいか。記憶すべきことは、昭和20年8月15日までの日本軍は世界第一級の精強な軍隊だったことである。それは日本軍と戦ったアメリカ人がよく知っていた。だからこそ、「超平和主義の日本」を意図的に作り上げたのである。

 しかし、世界の人々は「毅然(きぜん)として戦った日本」を決して忘れてはいない。

 戦後の日本が初めて遭遇する重大な国際紛争としての尖閣諸島問題に直面している今こそ、われわれは「頑健な日本」の姿勢を見せなければならないはずである。中国に対抗できる国は、東アジアでは日本しかないことを世界の人々は知っている。その期待を裏切ってはならない。

「現代こそ死者との絆は強い」

「『現代こそ死者との絆は強い』宗教学者が語る日本人の死生観」(AERA dot.)
 → https://dot.asahi.com/aera/2018081600015.html

 日本人の「墓離れ」の背景には、江戸時代にできた檀家(だんか)制度の弱体化があると言われる。時代と共に変わってきた私たちの宗教観や死生観は、お墓のあり方と無関係ではない。庶民とお寺との関係、「死」に対する意識はどのように変わってきたのか。『日本人の死生観を読む』(朝日新聞出版)の著書もある宗教学者島薗進さんに聞いた。

*  *  *
 民衆の祖先崇拝文化を仏教が取り込んで、今のような葬祭仏教を形成してきた日本の歴史は、世界でも特殊なケースです。

 今のような檀家制度の基盤は、15世紀から17世紀に生まれたと言われます。国土の津々浦々に仏教寺院が点在するという形態は世界的にも珍しく、一族、地域と結びつく形で、檀信徒関係が形成されてきた。それが江戸時代にキリシタン弾圧と結びつけられる形で、幕府によって檀家制度が作られ、お寺と檀家の関係が非常に強化されました。お寺が宗旨人別帳など戸籍台帳のようなものを管理するようになり、市民がお寺で葬式をすることが標準化しました。

 ただ、檀信徒関係が成立した後も、しばらくは葬式や墓の単位は「村」や「同族」であり、地域の家々が集まってお墓を作っていた。それが檀家制度が浸透していくなかで、お寺の中にお墓が作られるようになり、次第に「家単位」のお墓となります。それが標準化するのはもっと新しく、広まったのは明治時代になってからです。

 檀信徒関係の成立が17世紀だとして、葬祭仏教の歴史は300年近く続いてきました。遺骨、位牌(いはい)、仏壇など「モノ」を通して死者とつながるという文化は日本人の心に深く根を張り、だからこそ、お墓も世代を超えて死者を祭る重要なアイテムとして機能してきたのです。それが、1980年代後半から90年代に入ると揺らいできます。自然葬という新しい葬法が提案されたり、戒名にお金を払うことへの疑問が出てきたりと、葬祭仏教への問題意識が表出し始めます。

 この時期は、いかに死ぬかというテーマを扱った「死」に関する書籍も多く出版されました。ベストセラーとなった永六輔さんの『大往生』が発売されたのも、94年です。人それぞれが死について考え、自分なりの「死に方」を作っていくという方向へ社会が変化していった。民俗学者柳田国男が日本人共通のものと見ていた死生観が過去のものとなり、作家の柳田邦男さんのいう「手作りの死生観」が求められます。

 長寿社会となり、時間とお金、知識がある高齢者は「死」について自分なりの考えを持つようになる。その一方で、地方では寺院の維持が困難になり、葬祭仏教の基盤が弱体化してくる。自分の死に方にさまざまな選択肢を持とうとする市民と、危機感を強くする仏教界により、葬送の形式が多様化していくことは間違いないでしょう。しかし、300年以上かけて形成された檀信徒関係や「家」を中心とした墓の所有意識は、今後も主流派であり続けると思います。さらに言えば、「死者との絆」という点においては、地域社会が弱くなった現代こそ、逆に強くなってきている側面もあります。

 2006年、秋川雅史さんの「千の風になって」という曲が大ヒットしました。歌詞には「私のお墓の前で泣かないでください そこに私はいません」というフレーズもあり、日本人の死生観の変化も指摘されました。この歌詞が共感を呼んだとすれば、特定の場所に行って弔うという風習は弱まったけれど、いつでも、どこにいても故人を思い続けるという意識への変化が背景にある。お彼岸の時期にお墓にお参りをして済ますのではなく、時と場所を選ばずに故人を弔う気持ちを持ち続けるというのは、死者との絆を強く意識し続けることになります。

 地域の共同体が弱体化した今、自分にとって「大事な人」は親と子と配偶者だけと、とても少数になっています。少数ゆえに、一つ一つの「死」は重くなり、死者との絆も強いものになっていきます。私たちは、その少数の、重いつながりをどうやって維持して、慰めを生み出していくのか。それが問われる時代になっています。過去の日本人がどのような死生観を持ち、今の時代へとつながっているかを知ることは、その第一歩になるはずです。

日本人の死生観を読む 明治武士道から「おくりびと」へ (朝日選書)

日本人の死生観を読む 明治武士道から「おくりびと」へ (朝日選書)

誰も彼もが他人の頭で考へてゐる。

 日本中が、挙(こぞ)つて集団思考のわなに陥つてゐるではないか。上は如何にして世界に平和を齎(もたら)すべきかといふやうな大問題から、下は処世術や金の儲け方に至るまで、誰も彼もが他人の頭で考へてゐる。あすにも日銀に回収されさうな手垢のついた古紙幣にも似た合言葉で考へてゐる。が、恐ろしいのは、今日だけしか、そしてある集団にだけしか通じない思考法が、詰り自分の頭では何も考へなくても済む思考法が、やがて日本中を支配してしまふだらうといふ事だ。いや、もうさうなつてゐるのではないか。その証拠に言論はますます盛んである。

── 福田恆存『東風西風』

日本への遺言―福田恒存語録 (文春文庫)

日本への遺言―福田恒存語録 (文春文庫)

あの戦争の呼び名が、いつ「太平洋戦争」になったか...

「あの戦争の呼び名が、いつ『太平洋戦争』になったか知っていますか 実は、意図的な『転換』が行われていた」(現代ビジネス)
 → https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57034

先の戦争、どの名前で呼ぶべきか
先の戦争に関する呼称は、いつも揺らいでいる。
「先の戦争」とは昭和12年からの中華民国との戦争状態から、昭和16年アメリカ・イギリス領への奇襲攻撃と宣戦布告を経て、昭和20年にほぼ国土壊滅状態で終わった戦争のことを指している。

大きく「第二次世界大戦」と指しておけば間違いはないのだが、その場合、ヒットラーが引き起こした欧州での大戦もふくまれてしまい、示す範囲がやや広すぎる。

私たちの世代が昭和40年代に学校で習った用語では「太平洋戦争」であった。

学校でそう習った。また、新聞やらニュースでもその名前で呼ばれている。だから、そのまま何の疑問もなく使っていた。

ただ、文章を書くようになり、また、過去のいろんなものを調べるようになると、太平洋戦争という言葉には少しずれを感じるようになった。

うまくあの戦争を言い表していない。

ひとつは、その用語の示すエリアについて、であり、もうひとつはその用語が使われ始めた時期について、ずれを感じる。

エリアについていえば、かの戦争は太平洋エリアでだけ戦争を行っていたわけではない。

真珠湾と同時にマレー半島も進攻しており、東南アジアでの戦いは「太平洋での戦争」とは言えない(ビルマなどまったく太平洋に面していない)。また中国大陸での戦闘も継続しており、こちらもあまり太平洋ではない。「日本の生命線」とも呼ばれた満州は、ほぼ太平洋に面していない。

「太平洋での戦闘」はつまり「太平洋戦争の一部」でしかない。

太平洋での戦闘は、おもにアメリカとの戦闘である。

アメリカ軍から見た名称としては「太平洋戦争」が適当だったのだろう。

昭和16年の開戦当時、日本政府は「大東亜戦争」と名付けている。

東亜とは東アジアのことだから、「東アジア戦争」という意味になる。こちらの言葉のほうが、日本の戦闘エリアを正しく示している。わかりやすい。

ただ「東亜」という名称が「大東亜共栄圏」という言葉と関連づけられると、とたんにきな臭くなる。「大東亜戦争」という言葉が忌避されていくのは、その問題と関係がある。


当時は誰も「太平洋戦争」と呼んでいなかった
大東亜共栄圏」は、アジア諸国を、ヨーロッパ列強による植民地支配から解放し、アジアだけでのブロックとして自立しようという壮大な思想である。理念そのものは、そんなに悪いものではない。

ただ結果的には、提唱主体である日本だけが一方的に利益を得る展開をみせた。日本以外のアジア諸国からは、口では立派な思想を説きながら、その実態は日本自体が欧米列強になりかわって植民地化支配を目指してるよう見なされたし、そうおもわれてもしかたがない部分があった。

大東亜共栄圏」思想は、勇ましく、そして理想的である。その理想的なアジア社会を目指すというお題目を連想させる「大東亜戦争」という呼称は、欧米側からは認めがたかったようだ。それは僭称である、という指摘だろう。

占領軍がその言葉を使わないように指示して、「太平洋戦争」と言い換えられた。無条件で降伏しているのだから、日本は何も言えない。

エリア名として名付けるのなら、「東亜細亜および太平洋の戦争」というあたりが正確な戦争名称ではないか。

また、歴史的な呼称を絶やさないという意味では、「開戦時には大東亜戦争と呼ばれ、敗戦後に太平洋戦争と呼ばれた戦争」というのが正確だろう。文字数に余裕があるときは、私はなるべくそう書くようにしたい。

太平洋戦争という呼び名への違和感は、「戦争が進行中のときには誰もそう呼んでない」というところにもある。

戦場で散った「英霊」も、本土空襲で殺された一般人も、戦争で死んだ人たちは誰もあの戦争を「太平洋戦争」とは呼んでいない。戦争で死んだ人たちみんなにとって「大東亜戦争」であった。もし、お盆の季節に、彼らの御霊に直接話しかけるのだとすると「太平洋戦争」と言ったのでは通じなくなってしまう。それは何だか申し訳ない。

変な理屈だが、そういう感覚がある。

だからといって、大東亜戦争と呼ばなくてはならないともおもえない。それはそれでいろんな悪を呼び起こしそうだからだ。

まだ歴史となるには生々しいというところだろう。歴史をどの視点から見るかによって名称も変わるし、その視点がいまのところ定まっていないのだ。感情的にしか語れない人がたくさん残っている。

たとえば、関ヶ原石田三成について辛辣に批判しても、感情的に怒ってくる人は少ないとおもうが、そのあたりまで落ち着かないと、いろいろとむずかしいということである。

やはり「開戦時には大東亜、負けてからは太平洋」戦争と書いていくしかないような気がしている。

戦争を誰のために語るのか、という問題でもある。


戦後も続いた「大東亜戦争」の呼び名
では、太平洋戦争という言葉はいつから使われているのか。

少し当時の新聞を見てみる。

昭和20年の新聞は薄い。1枚きりである。裏表があるだけ。だから縮刷版を読むのも早い。

昭和20年8月15日、戦争が終わった日の紙面は「戦争終結の大詔渙発さる」との大見出しで、本文は「大東亜戦争は遂にその目的を達し得ずして終結するのやむなきにいたつた」と始まっている。終結する戦争は「大東亜戦争」である。

ふと、いまさらながら、なぜ8月15日の正午にラジオで放送された「戦争終結の大詔」が同日付の新聞に全文が載っているのが、不思議におもったが、どうやらラジオ放送のあとにこの新聞が配達されたらしい。記事そのものは放送前に書かれていたようだ。

戦争が終わると、鈴木貫太郎内閣が総辞職し、阿南陸相が自刃し、東久邇宮殿下が組閣の大命を拝している。なんというか、さほど切羽詰まった感じがない。近衛文麿が副総理格として入閣し、国民に期待されている。

いまと同じく階段に閣僚が並び、写真が撮られている。近衛文麿は、長身で容貌端正で、目立っている。何だかいろんなところに奇妙な気配が漂っている。誰もまだ状況をうまく把握できてなかったのだろう。

そのあとも、戦争名は「大東亜戦争」で記され続ける。政府が定めた正式名称なのだから、誰でもそう呼ぶ。

9月2日に降伏文書に調印し、占領軍が進駐したあとも、ずっと「大東亜戦争」と表記され、それ以外はない。

たとえば9月5日の東久邇首相の施政方針演説では「米英ソ支四国の共同宣言を受諾し、大東亜戦争は」という文言から始まった。

また「支那事変以来、大東亜戦争終結にいたる間」という言葉が再々使われている。

9月7日にはその8年間の食糧事情について報道があり、また9月22日にはその期間の戦争責任について、社説で触れている。「支那事変以来、大東亜戦争終結にいたる間」(1937年7月から1945年8月)」を特別視していた空気が強くある。

秋の彼岸には、「大東亜戦争中に散華した英霊」について何度か書かれている。
また陸軍の賜金について「支那事変関係」「大東亜戦争関係」と分けて公示され、敗戦後でも支給されると記事がある。支那事変・大東亜戦争という名称が昭和20年9月時点でも公的機関の正式名称だったことがわかる。


「太平洋戦争」が生まれた瞬間
その後、アメリカ人記者たちが、日本の要人へのインタビュー記事をいくつか書き、それが新聞に載る。そこでは「大東亜戦争」ではない表記が出てくる。 

まず10月24日付け紙面、宇垣一成大将のインタビューをAP記者が行っている。宇垣一成は「支那事変および大東亜戦争を通じて終始『反戦の態度を崩さなかった要人』」と紹介されている。

質疑と応答が分けられた記事である。記者は「では日米戦争は何が不可避の要素となったのですか」と聞いている。たしかにアメリカ人記者は「大東亜戦争」とは言わないだろう。宇垣大将の言葉ではないが「日米戦争」の文字が記事に出ている。

その3日後、27日紙面に、これもAP通信の記者が永野修身元帥に真珠湾攻撃についてインタビューしている。

そこには、永野元帥の「太平洋戦の根本原因は支那の事態に存した」とのコメントがある。

「太平洋戦」という言葉は、管見の限り(字が細かくてまさに管見なのだが)、これが初出である(朝日新聞にかぎる)。ただ、この記事は質問と回答という形式ではないため、おそらく記者が「太平洋戦の根本原因は何だとお考えですか」と聞き、永野元帥が答えたものを、記者が勝手にくっつけた可能性が高い。

永野元帥が、この時点で「太平洋戦」と言ったというのはにわかには信じがたい。大東亜戦争開戦時の責任者の一人が、敗戦2ヶ月で太平洋戦とは言い換えないだろう、という推察である。

10月31日には、平沼騏一郎元首相へのAP記者(ラツセル・ブラウン氏)のインタビュー記事がある。平沼男爵のコメントは「しかし当時三国同盟が太平洋戦争にまで発展するとは思はなかつた」で締めくくられている。

これまた、すでに八十近かった平沼氏が太平洋戦争という言葉を使ったというのは、やはり考えにくい。インタビュー記事は、発言者の言葉を正確には反映しないものだから、これは記者の言葉だと私は推察する。

実際にこの時期はまだ「大東亜戦争」の言葉がよく出ている。

たとえば10月26日の近衛文麿の栄誉拝辞の記事には「大東亜戦争勃発に至るまでの政治的責任」とあるし、11月7日は、朝日新聞が雄々しく「宣言」を出して、我が社も戦争責任を取るという内容が勇ましく書いてあるが(この勇ましさがすでに胡散臭くて申し訳ないが笑えてくる)、それは「支那事変勃発以来、大東亜戦争終結にいたるまで」と雄々しく始められている。

11月25日の日本教員組合の記事や、11月28日の斎藤隆夫議員の発言でも「支那事変、大東亜戦争」と表記されている。


日本人の意識を作り上げた呼び名
明確な言い換えが始まるのは、昭和20年12月に入ってからである。

12月7日紙面には、近衛文麿公爵、木戸幸一侯爵ら、戦争犯罪容疑で逮捕命令が下るとの記事が衝撃をもって報じられている。そこで近衛文麿について「所謂「日支事変」当時の首相であり、太平洋戦争直前において第三次近衛内閣の陸相たりし東条英機大将に道を譲った」と紹介されている。

支那事変ではなく日支事変、大東亜戦争ではなく太平洋戦争へと言い換えられている。

きわめて意図的である。

そして、ここが明確な転換点だとおもう。

昭和20年12月から、天皇周辺の要人も戦犯として逮捕されるようになり、支那事変・大東亜戦争という用語が使われなくなったのだ。

12月8日の紙面は3面と4面をぶち抜き(このために増ページされたものだとおもわれる)、2面全面を使っての「太平洋戦争史」記事が載る。これは連載記事となり、12月17日まで続いている。

「太平洋戦争」という文字が大きく出るのはこの12月8日紙面からである。

「米国司令部当局」が日本国民に戦争の真実を知らせると意図のもとに書いたと最初にそう明記されている。つまり「太平洋戦争」という呼称は占領軍が指定したものだということがわかる。

昭和6年奉天事件から記事は始まり、戦争へ突入した背景を説く。それまで報道規制によって戦争の全体像を把握しにくかった日本国民に向けて、この戦争がなぜいけなかったのかについて説明している。

まだまだ戦争推進した勢力が強い国内において、この戦争は明確に間違っていた、ということを示した記事である。これから軍事裁判が始まるため、戦争指導者の罪をあきらかにしておこう、という意図もあるのだろう。

だから日本の戦争指導者が使っていた「大東亜戦争」という言葉を廃し、「太平洋戦争」という耳慣れない言葉に換えた。

これによって日本人にとっての「自分たちが経験した大東亜戦争」と「敗戦してから反省する太平洋戦争」は分離されることになった。「大東亜戦争」は、戦争指導者とともにあちら側に送られ、ふつうの日本人にとっては「自分たちの意図したものではなかった太平洋戦争」があらたに示され、その理念を自分たちのものとして共有することになった。

大東亜戦争」は、最初は雄々しく勝ち続け、日本の占領地も広まり、威勢のいい始まりだったが、途中からよくわからない展開となり、最後は惨憺たる状況で負けた戦争であり、「太平洋戦争」というのは、アメリカから見えていた「負けるとわかってるのにつっかけてきた愚かな戦争」という全体像として提供されたのだ。

このふたつの意識は、みごとに分断された。日本人としては助かった気分だったはずだ。

戦時中の日本人の戦争観と、敗戦のあとの日本人の戦争観をよりきちんと分断するためにアメリカ軍占領司令部は、言い換えを強要したのだとおもう。

それは戦争が終わって、4ヶ月め、4年前の「開戦記念日12月8日」から始まった。それはその後、長く続くことになる。

これはいいとか悪いとか、判断できることではない。こちらは戦争を仕掛けて、負けたのだ。どうしようもない。是非に及ばず、としか言いようがない。

やはり、もう少し時間がたってきちんと冷静に歴史的に見直されるまでは、「開戦時には大東亜戦争、敗戦して太平洋戦争と呼ばれた戦争」と呼ぶしかないようにおもわれる。また、そう呼ばない場合も、そういう変化を意識はしておいたほうがいいと私はおもう。とても面倒な作業である。でも七十年を越えてそういう面倒を抱えさせるような戦争だったということなのだ。

限りある身の力ためさん

憂きことのなほこの上に積もれかし 限りある身の力ためさん

── 熊沢蕃山

「憂い事(辛い事)更にこの身に降り積もれ、限りあるこの身、己の力を試してやる」


元禄4年8月17日(1691年9月9日) 熊沢蕃山 没
知行合一”。行動する儒教陽明学徒。


また、「願わくば、我に七難八苦を与え給え」と三日月に祈ったのは“山陰の麒麟児”、山中鹿介である。


男おいどん、かく語りき。

すでに将来 安心なよか家に

金のある親もつやつもおる

おいどんには金もつ親も

将来 安心もヘチマもなか

ばってん

それでこそ男の生きがいが

あるとではなかろうか?

── 大山昇太『男おいどん

伝習録 (中公クラシックス)

伝習録 (中公クラシックス)



『2014年03月06日(Thu) 困難を避けない方がいい理由』 http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20140306

ソーラーパネルの法整備が急務

「【野口健の直球&曲球】ソーラーパネルの法整備が急務」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/column/news/180816/clm1808160004-n1.html

 2年前から、ネパールで森林再生プロジェクトを行っている。国土の大半は山岳地帯。平地が少ないため、人々は山を切り開き「段々畑の山」へと姿を変えた。2015年にネパール大地震が発生し、二次災害も多発。大規模な土砂災害だ。特に森林伐採がされた辺りは被害が大きかった。地球温暖化対策もあるが、ネパール山間部で森づくりを始めた最大のテーマは「災害対策」のためだ。

 しかし、足元の日本では、至る所で自然エネルギーという名の下に全国各地の山々が削られ、ソーラー発電施設が設置されていく。先日、長野県茅野市のPR大使に就任したが、その時に聞かされたのは美しい八ケ岳の近くに計画中の大規模メガソーラーだった。何と東京ドーム約40個分という山林にソーラーパネル31万枚の設置という事業が計画されていたのだ。この事業が計画されているのは諏訪市の霧ケ峰だが、その下流域にある湧水池は、茅野市の水源の一部である。

 この水源は、とても上質であり、多くの日本酒の蔵元がある。茅野市の住民からは貴重な水源が失われ、水が変質してしまうのではないかと不安の声が上がっている。また、この地域は「土石流危険渓流」に区分されており、昭和58年には下流の地域が土砂災害で大打撃を受けている。

 太陽光発電といえば、世界的に進んでいるのがドイツで、かなり厳しく規制している。施設建設による森林伐採においては、その6倍もの植林を行わなくてはならない。また約25年もの間、森の管理も行う必要がある。

 ソーラーパネルの寿命は30年といわれており、行政は、事前に事業主より、供託金を預かり、事業途中で倒産してしまった場合、この供託金より行政がパネルなどの回収作業を行うのだ。

 ある自民党議員に相談したら「民主党政権がルールを変更し、メガソーラー発電が増えた。われわれの責任ではない」と。しかし、その政策を引き継いだ現政権の責任でもある。景観を含めた環境面、また豪雨による土砂災害を防ぐためにもドイツ並みの法整備が急務である。

『終戦の日』-特攻隊に捧ぐ-

終戦の日
戦没者を追悼し平和を祈念する日


この時期になると読み返す一冊がある。
GHQの検閲により発禁・削除され、十数年前に発見された坂口安吾のエッセイ『特攻隊に捧ぐ』である。


戦争にからまる何事をも悪い方へ悪い方へと解釈するのは決して健全なことではない。」「ことさらに無益なケチをつけ、悪い方へと解釈したがることは有害だ。


偏る世論に一石を投ず。
無頼派"坂口安吾、此処に在り。


以下、抜粋。

 数百万の血をささげたこの戦争に、我々の心を真に高めてくれるような本当の美談が少いということは、なんとしても切ないことだ。それは一に軍部の指導方針が、その根本に於(おい)て、たとえば「お母さん」と叫んで死ぬ兵隊に、是が非でも「天皇陛下万歳」と叫ばせようというような非人間的なものであるから、真に人間の魂に訴える美しい話が乏しいのは仕方がないことであろう。
 けれども敗戦のあげくが、軍の積悪があばかれるのは当然として、戦争にからまる何事をも悪い方へ悪い方へと解釈するのは決して健全なことではない。

 たとえば戦争中は勇躍護国の花と散った特攻隊員が、敗戦後は専(もっぱ)ら「死にたくない」特攻隊員で、近頃では殉国の特攻隊員など一向にはやらなくなってしまったが、こう一方的にかたよるのは、いつの世にも排すべきで、自己自らを愚弄することにほかならない。もとより死にたくないのは人の本能で、自殺ですら多くは生きるためのあがきの変形であり、死にたい兵隊のあろう筈はないけれども、若者の胸に殉国の情熱というものが存在し、死にたくない本能と格闘しつつ、至情に散った尊厳を敬い愛す心を忘れてはならないだろう。我々はこの戦争の中から積悪の泥沼をあばき天日にさらし干し乾して正体を見破り自省と又明日の建設の足場とすることが必要であるが、同時に、戦争の中から真実の花をさがして、ひそかに我が部屋をかざり、明日の日により美しい花をもとめ花咲かせる努力と希望を失ってはならないだろう。

 私は文学者であり、生れついての懐疑家であり、人間を人性を死に至るまで疑いつづける者であるが、然し、特攻隊員の心情だけは疑らぬ方がいいと思っている。なぜなら、疑ったところで、タカが知れており、分りきっているからだ。要するに、死にたくない本能との格闘、それだけのことだ。疑るな。そッとしておけ。そして、卑怯だの女々しいだの、又はあべこべに人間的であったなどと言うなかれ。

 彼等は自ら爆弾となって敵艦にぶつかった。否、その大部分が途中に射ち落とされてしまったであろうけれども、敵艦に突入したその何機かを彼等全部の名誉ある姿と見てやりたい。母も思ったであろう。恋人のまぼろしも見たであろう。自ら飛び散る火の粉となり、火の粉の中に彼等の二十何歳かの悲しい歴史が花咲き消えた。彼等は基地では酒を飲み、ゴロツキで、バクチ打ちで、女たらしであったかも知れぬ。やむを得ぬ。死へ向かって歩むのだもの、聖人ならぬ二十前後の若者が、酒を飲まずにいられようか。せめても女と時のまの火を遊ばずにいられようか。ゴロツキで、バクチ打ちで、死を恐れ、生に恋々とし、世の誰よりも恋々とし、けれども彼等は愛国の詩人であった。いのちを人にささげる者を詩人という。唄う必要はないのである。詩人純粋なりといえ、迷わずにいのちをささげ得る筈はない。そんな化け物はあり得ない。その迷う姿をあばいて何になるのさ何かの役に立つのかね?

 我々愚かな人間も、時にはかかる至高の姿に達し得るということ、それを必死に愛し、まもろうではないか。軍部の欺瞞とカラクリにあやつられた人形の姿であったとしても、死と必死に戦い、国にいのちをささげた苦悩と完結はなんで人形であるものか。

 人間が戦争を呪うのは当然だ。呪わぬ者は人間ではない。否応なく、いのちを強要される。私は無償の行為と云(い)ったが、それが至高の人の姿であるにしても多くの人はむしろ平凡を愛しており、小さな家庭の小さな平和を愛しているのだ。かかる人々を強要して体当りをさせる。暴力の極であり、私とて、最大の怒りをもってこれを呪うものである。そして恐らく大部分の兵隊が戦争を呪ったにきまっている。

 けれども私は「強要せられた」ことを一応忘れる考え方も必要だと思っている。なぜなら彼等は強要せられた、人間ではなく人形として否応いやおうなく強要せられた。だが、その次に始まったのは彼個人の凄絶せいぜつな死との格闘、人間の苦悩で、強要によって起りはしたが、燃焼はそれ自体であり、強要と切り離して、それ自体として見ることも可能だという考えである。否、私はむしろ切り離して、それ自体として見ることが正当で、格闘のあげくの殉国の情熱を最大の讃美を以もって敬愛したいと思うのだ。

 強要せられたる結果とは云え、凡人もまたかかる崇高な偉業を成就しうるということは大きな希望ではないか。大いなる光ではないか。平和なる時代に於(お)いて、かかる人の子の至高の苦悩と情熱が花咲きうるという希望は日本を世界を明るくする。ことさらに無益なケチをつけ、悪い方へと解釈したがることは有害だ。美しいものの真実の発芽は必死にまもり育てねばならぬ。

 私は戦争を最も呪う。だが、特攻隊を永遠に讃美する。その人間の懊悩苦悶(おうのうくもん)とかくて国のため人のためにささげられたいのちに対して。先ごろ浅草の本願寺だかで浮浪者の救護に挺身し、浮浪者の敬慕を一身にあつめて救護所の所長におされていた学生が発疹チフスのために殉職したという話をきいた。
 私のごとく卑小な大人が蛇足する言葉は不要であろう。私の卑小さにも拘(かかわ)らず偉大なる魂は実在する。私はそれを信じうるだけで幸せだと思う。

 青年諸君よ、この戦争は馬鹿げた茶番にすぎず、そして戦争は永遠に呪うべきものであるが、かつて諸氏の胸に宿った「愛国殉国の情熱」が決して間違ったものではないことに最大の自信を持って欲しい。
 要求せられた「殉国の情熱」を、自発的な、人間自らの生き方の中に見出すことが不可能であろうか。それを思う私が間違っているのだろうか。

『2006年09月17日(Sun) 戦艦大和ノ最期』 http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20060917


 日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そのかわり何ものにもかえ難いものを得た。これは、世界のどんな国も真似のできない特別特攻隊である。ス夕-リン主義者たちにせよナチ党員たちにせよ、結局は権力を手に入れるための行動であった。日本の特別特攻隊員たちはファナチックだったろうか。断じて違う。彼らには権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかっ た。祖国を憂える貴い熱情があるだけだった。代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナチズムとは根本的に異質である。人間はいつでも、偉大さへの志向を失ってはならないのだ。
 戦後にフランスの大臣としてはじめて日本を訪れたとき、私はそのことをとくに陛下に申し上げておいた。
 フランスはデカルトを生んだ合理主義の国である。フランス人のなかには、特別特攻隊の出撃機数と戦果を比較して、こんなにすくない撃沈数なのになぜ若いいのちをと、疑問を抱く者もいる。そういう人たちに、私はいつもいってやる。「母や姉や妻の生命が危険にさらされるとき、自分が殺られると承知で暴漢に立ち向かうのが息子の、弟の、夫の道である。愛する者が殺められるのをだまって見すごせるものだろうか?」と。私は、祖国と家族を想う一念から恐怖も生への執着もすべてを乗り越えて、 いさぎよく敵艦に体当たりをした特別特攻隊員の精神と行為のなかに男の崇高な美学を見るのである。

── アンドレ・ マルロー(『特別攻撃隊の英霊に捧げる』


【人間爆弾「桜花」最後の証言】
「(1)鹿嶋・神之池基地へ 「新兵器の乗員に、お前は志願するか」問う隊長に佐伯正明・上飛曹は答えた…」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/premium/news/180813/prm1808130004-n1.html
「(2)初の訓練で着地失敗 「これに乗って死ぬのか。ずいぶんと狭苦しい棺おけやな」」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/premium/news/180814/prm1808140004-n1.html
「(3)病室で聞く仲間の出陣 桜花隊初出撃「俺が治るのが先か、日本がなくなるのが先か」」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/premium/news/180815/prm1808150002-n1.html

 僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。
 大事変が終った時には、必ず若(も)しかくかくだったら事変は起らなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。
 必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、それさえなければ、起こらなかったか。
 どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐しいものと考えている。
 僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか。

── 小林秀雄