NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

あとは各自で宜しくやって下さい。

 考えることは、悩むことではない。
 世の人、決定的に、ここを間違えている。人が悩むのは、きちんと考えていないからにほかならず、きちんと考えることができるなら、人が悩むということなど、じつはあり得ないのである。なぜなら、悩むよりも先に、悩まれている事柄の「何であるか」、が考えられていなければならないからである。「わからないこと」を悩むことはできない。「わからない」は考えられるべきである。ところで、「人生をいかに生くべきか」と悩んでいるあなた、あなたは人生の何をわかっていると思って悩んでいるのですか。

── 池田晶子『残酷人生論―あるいは新世紀オラクル』


平成19年(2007年)2月23日 “哲学の巫女” 考える人 池田晶子 没

「宗教」ではない宗教性


 信じる人は困ったものだと皆が言っている。根は真面目で、しかも頭の良い人たちなのに、と。
 そういうふうに言うときの人々の口調に、何かずるいものを私は感じる。確かに彼らは頭が良いが、信じているから馬鹿なのだ。信じる人は馬鹿なのだ。知的な人間は信じないものだ、信じない自分のほうがだから彼らより知的なのだ、それで一段高みから彼らを論評する資格が自分にはあるのだといったような。
 これ、うそ。この両者、おんなじ。信じてる人も、信じてない人も、なぜ信じ、なぜ信じていないのかを、考えることなく信じてたり信じてなかったりするのだからまったくおんなじ、つまり考えなし。考えることなく信じている、これを信仰という。世のほとんどが無宗教信者。
 人が何がしかの宗教的なものに関わるのは、救われたいからだ縋(すが)りたいからだと思うのは、もうやめにしてもいいのではないか、信じてる人も信じてない人も、ちょうど、きりよく二千年たつことだし。
  信じてる人、聞いてください。
 あなたが信じたのは、自分の孤独に不安を覚えたからだった。ところで、信じたところで、あなたがあなたでなくなりますか、宇宙が宇宙でなくなりますか。いや、信じることによって自分と宇宙は一体化できるのだというのなら、宇宙自身の孤独はどうなるのですか。宇宙は自分が自分であって自分以外ではないという孤独を、何によって癒せばよいのでしょう。そのときあなたの孤独は、じつは宇宙大に拡大しただけの話ではないでしょうか。つまることろ、「あなた」とは誰ですか。あなたはそれについて、信じるのではなく考えたことがありますか。また、考えるために大勢でまとまる必要が、なぜあるのでしょうか。
  信じてない人、聞いてください。
 あなたが信じていないのは、自分は自分であり宇宙とは別物であると信じているからだった。ところで、そう信じられるためには、あなたは「自分」という言い方で何を指示しているのかを、明確にできなければならない。それはあなたの肉体を指しますか。それとも心ですか。では心はどこにありますか。心なんてものはない。それは脳のことを指すのだというのなら、では、脳を作ったのはあなたですか。あなたの脳を作ったのは、ほかでもない、宇宙ではないのですか。ではなぜ、宇宙と自分とを別々にして考えられましょうか。人が宗教的なものに考え至らざるを得ないのは、実は救済以前の問題なのだと、このとき気づきはしませんか。
 私は、信仰はもっていないが、確信はもっている。それは、信じることなく考えるからである。私は考えるからである。宇宙と自分の相関について、信じてしまうことなく考え続けているからである。救済なんぞ問題ではない。なぜなら、救済という言い方で何が言われているのかを考えることのほうが、先のはずだからである。人類はそこのところをずうーっと、あべこべに考えてきたのだ。これは、驚くべき勘違いである、気持ちは、わかるけど、オウムの事件は、たぶん、トドメの悪夢なのだ。
 新しき宗教性は、だから、今や「宗教」という言葉で呼ばれるべきではない。それは「宗 - 教」ではない。教祖も教団も教理も要らない、それは信仰ではない。それは、最初から最後までひとりっきりで考え、られるし、また考える、べき性質のものなのだ。だからそのあらたなる名称は、
  垂直的孤独性、とか
  凝縮的透明性、とか
 そんなふうな響きをもった、何を隠そうその名は、「哲学」なのである。

── 池田晶子『残酷人生論―あるいは新世紀オラクル』

『(池田晶子記念)わたくし、つまり Nobody賞』 http://www.nobody.or.jp/
池田晶子 - Wikipedia』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%99%B6%E5%AD%90_(%E6%96%87%E7%AD%86%E5%AE%B6)

 自ら考えて討死しなさい。病いと心中してみせなさい。それだけの覚悟がないのなら、ぐずぐず悩まず、つべこべ言わず、哲学など徹底的に無視しましょう。無視して力強く潔く生きてゆきましょう。きれい好きが昂じて、「考える」という無用の用を、それのみ取り分けてこの世のくさぐさから別にしておきたかった私の仕事、煎じ詰めれば、たったのこれだけ。これで、おしまい。
 あとは各自で宜しくやって下さい。

── 池田晶子『考える人―口伝(オラクル)西洋哲学史』

死とは何か さて死んだのは誰なのか

死とは何か さて死んだのは誰なのか

私とは何か さて死んだのは誰なのか

私とは何か さて死んだのは誰なのか

絶望を生きる哲学 池田晶子の言葉

絶望を生きる哲学 池田晶子の言葉

幸福に死ぬための哲学――池田晶子の言葉

幸福に死ぬための哲学――池田晶子の言葉

無敵のソクラテス

無敵のソクラテス

陰謀論

 信じやすい人というのは、奇妙なことがらを信じることに無上の喜びを見出すものだ。しかも、奇妙であればあるほど受け入れやすいときている。ところがそういう人は、平明でいかにもありそうなことがらは重んじようとしない。というのもそんなものは誰でも信じることが出来るからだ。

── サミュエル・バトラー(『人さまざま』)


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奇妙な論理〈1〉―だまされやすさの研究 (ハヤカワ文庫NF)

奇妙な論理〈1〉―だまされやすさの研究 (ハヤカワ文庫NF)

カール・セーガン 科学と悪霊を語る

カール・セーガン 科学と悪霊を語る

悪霊にさいなまれる世界〈上〉―「知の闇を照らす灯」としての科学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

悪霊にさいなまれる世界〈上〉―「知の闇を照らす灯」としての科学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

一日一言「六憎」

二月二十一日 六憎


 六憎というのは、憎むべきものが六つあるということ。
  一、自分の詞に気持ち高ぶること(自分の言葉に酔うこと)
  二、事実を見なくて物知り顔をすること
  三、人に物をやって恩にきせること
  四、けちなこと
  五、欲深きこと
  六、他人をねたむこと


   憎むとも憎み返すな憎まれて
       憎み憎まれ果てしなければ   <柳沢里恭>

── 新渡戸稲造(『一日一言』)

人は永遠に真理を探すが、真理は永遠に実在しない。

 人は永遠に真理を探すが、真理は永遠に実在しない。探されることによつて実在するけれども、実在することによつて実在することのない代物です。真理が地上に実在し、真理が地上に行はれる時には、人間はすでに人間ではないですよ。人間は人間の形をした豚ですよ。真理が人間にエサをやり、人間はそれを食べる単なる豚です。

── 坂口安吾(『余はベンメイす』)



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完全教祖マニュアル (ちくま新書)

完全教祖マニュアル (ちくま新書)

カルト宗教信じてました。 「エホバの証人2世」の私が25年間の信仰を捨てた理由

カルト宗教信じてました。 「エホバの証人2世」の私が25年間の信仰を捨てた理由

「カルト宗教」取材したらこうだった (宝島社新書)

「カルト宗教」取材したらこうだった (宝島社新書)

坂口さんのこと。

坂口安吾福田恆存

 坂口さんは人間のすなおなやさしさといったものを求めていた人であるし、またそういうものを皆がじかに出しあって、傷つかずに生きていくことを夢みていた人でもあろう。ぼくが坂口さんのことをローマン派だとおもうゆえんである。
 坂口さんが伊東にいた頃、二度ばかり遊びにいったことがあるが、そういう時にもすなおなやさしさにふれたいという彼の切ない気持ちを感じた。

─ 中略 ─

 坂口さんが家を探していた時、ちょっと手伝ってあげたそのお礼に、アメリカ製のカンキリを貰った。今でも愛用しているが、これがとうとうかたみになってしまった。オモチヤみたいな機械類を好んだ坂口さんをぼくは好きだった。

── 福田恆存「坂口さんのこと」『知性』昭和三○年四月号

滅びゆく日本へ: 福田恆存の言葉

滅びゆく日本へ: 福田恆存の言葉

堕ちよ。生きよ。

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昨日は安吾忌。


久し振りに『堕落論』でも。
『堕落論』、『続堕落論』より抜粋)

 半年のうちに世相は変った。醜(しこ)の御楯(みたて)といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋となる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。

 あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた。猛火をくぐって逃げのびてきた人達は、燃えかけている家のそばに群がって寒さの煖をとっており、同じ火に必死に消火につとめている人々から一尺離れているだけで全然別の世界にいるのであった。偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない。

 終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、自らの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。人間は永遠に自由では有り得ない。なぜなら人間は生きており、又死なねばならず、そして人間は考えるからだ。政治上の改革は一日にして行われるが、人間の変化はそうは行かない。遠くギリシャに発見され確立の一歩を踏みだした人性が、今日、どれほどの変化を示しているであろうか。

 人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。

 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。

 人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

 人間の、又人性の正しい姿とは何ぞや。欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だと言う、要はただそれだけのことだ。好きなものを好きだという、好きな女を好きだという、大義名分だの、不義は御法度だの、義理人情というニセの着物をぬぎさり、赤裸々な心になろう、この赤裸々な姿を突きとめ見つめることが先ず人間の復活の第一の条件だ。そこから自分と、そして人性の、真実の誕生と、その発足が始められる。

 先ず裸となり、とらわれたるタブーをすて、己れの真実の声をもとめよ。未亡人は恋愛し地獄へ堕ちよ。復員軍人は闇屋となれ。堕落自体は悪いことにきまっているが、モトデをかけずにホンモノをつかみだすことはできない。表面の綺麗ごとで真実の代償を求めることは無理であり、血を賭け、肉を賭け、真実の悲鳴を賭けねばならぬ。堕落すべき時には、まっとうに、まっさかさまに堕ちねばならぬ。道義頽廃、混乱せよ。血を流し、毒にまみれよ。先ず地獄の門をくぐって天国へよじ登らねばならない。手と足の二十本の爪を血ににじませ、はぎ落して、じりじりと天国へ近づく以外に道があろうか。

 堕落自体は常につまらぬものであり、悪であるにすぎないけれども、堕落のもつ性格の一つには孤独という偉大なる人間の実相が厳として存している。即ち堕落は常に孤独なものであり、他の人々に見すてられ、父母にまで見すてられ、ただ自らに頼る以外に術(すべ)のない宿命を帯びている。

 善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野(こうや)を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、この道が天国に通じているということに変りはない。

 人間の一生ははかないものだが、又、然し、人間というものはベラボーなオプチミストでトンチンカンなわけの分らぬオッチョコチョイの存在で、あの戦争の最中、東京の人達の大半は家をやかれ、壕にすみ、雨にぬれ、行きたくても行き場がないとこぼしていたが、そういう人もいたかも知れぬが、然し、あの生活に妙な落着(おちつき)と訣別(けつべつ)しがたい愛情を感じだしていた人間も少くなかった筈で、雨にはぬれ、爆撃にはビクビクしながら、その毎日を結構たのしみはじめていたオプチミストが少くなかった。

 生々流転、無限なる人間の永遠の未来に対して、我々の一生などは露の命であるにすぎず、その我々が絶対不変の制度だの永遠の幸福を云々し未来に対して約束するなどチョコザイ千万なナンセンスにすぎない。無限又永遠の時間に対して、その人間の進化に対して、恐るべき冒涜ではないか。我々の為しうることは、ただ、少しずつ良くなれということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしか有り得ない。人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何物かカラクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるであろう。そのカラクリをつくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々は先ず最もきびしく見つめることが必要なだけだ。

坂口安吾 - Wikipedia』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E5%8F%A3%E5%AE%89%E5%90%BE
坂口安吾デジタルミュージアム』 http://www.ango-museum.jp/

堕落論・日本文化私観 他二十二篇 (岩波文庫)

堕落論・日本文化私観 他二十二篇 (岩波文庫)


福田恆存も言う。
「絶望から出発せよ」

 その人の性格にもよるでしょうが、私は絶望というものがあらゆるものの出発点だと思うのです。人間というのは絶対孤独であって、人と人との間に最終的には架ける橋はないというのが私の人間観です。人間はエゴイスティックなもので、本当は自分のことだけしか考えていないのだということを、一度痛切に見つめることが大切です。そうすると、人間というものは非常に悪いもののように思われますが、私はそのエゴイズムというものが、生きる力、生命のエネルギーだと思います。

── 福田恆存『人間の生き方、ものの考え方 学生たちへの特別講義』

安吾忌

すべて「一途」がほとばしるとき、人間は「歌う」ものである。

── 坂口安吾『ピエロ伝道者』


あちらこちら命がけ


安吾忌。
昭和三十年(1955年)年2月17日 坂口安吾 没。


安吾のことば。
厳選(しきれなかった)五十、とちょっと。
ぼくの生きる指針!

  • もしそれ電車の中で老幼婦女子に席をゆずる如きが道義の復興であるというなら、電車の座席はゆずり得ても、人生の座席をゆずり得ぬ自分を省みること。(『エゴイズム小論』)
  • 道義退廃などと嘆くよりも先ず汝らの心に就いて省みよ。人のオセッカイは後にして、自分のことを考えることだ。(『エゴイズム小論』)
  • 人間の尊さは、自分を苦しめるところにあるのさ。満足はだれでも好むよ。けだものでもね。(『風と二十の私と』)
  • 人生を面白がろうとしないのだ。面白くないことを百も承知で平気で生きている奴の自信に圧倒されたのである。(『神サマを生んだ人々』)
  • 私は善人は嫌いだ。なぜなら善人は人を許し我を許し、なれあいで世を渡り、真実自我を見つめるという苦悩も孤独もないからである。(『蟹の泡』)
  • 私は悪人だから、悪事が厭だ。悪い自分が厭で厭でたまらないのだ。ナマの私が厭で不潔で汚くてけがらはしくて泣きたいのだ。私はできるなら自分をズタ/\に引き裂いてやりたい。そしてもし縫ひ直せるものならすこしでもましなやうに縫ひ直したい。(『蟹の泡』)
  • 言いたい者には、言わしめよ。人に対して怒ってはならない。ただ、汝の信ずるとろころを正しく行えば足りるものである。(『肝臓先生』)
  • 人情や愛情は小出しにすべきものじゃない。全我的なもので、そのモノと共に全我を賭けるものでなければならぬ。(『詐欺の性格』)
  • 盲目的な信念というものは、それが如何ほど激しく生と死を一貫し貫いても、さまで立派だとは言えないし、却って、そのヒステリィ的な過剰な情熱に濁りを感じ、不快を覚えるものである。(『青春論』)
  • 持って生まれた力量というものは、今更悔いても及ぶ筈のものではないから、僕には許された道というのは、とにかく前進するだけだ。(『青春論』)
  • モトデをかけずにホンモノをつかみだすことはできない。表面の綺麗ごとで真実の代償を求めることは無理であり、血を賭け、肉を賭け、真実の悲鳴を賭けねばならぬ 。(『続堕落論』)
  • 善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然と死んでゆく。(『続堕落論』)
  • もとより死にたくないのは人の本能で、自殺ですら多くは生きるためのあがきの変形であり、死にたい兵隊のあろう筈はないけれども、若者の胸に殉国の情熱というものが存在し、死にたくない本能と格闘しつつ、至情に散った尊厳を敬い愛す心を忘れてはならないだろう。(『特攻隊に捧ぐ』)
  • 我々はこの戦争の中から積悪の泥沼をあばき天日にさらし干し乾して正体を見破り自省と又明日の建設の足場とすることが必要であるが、同時に、戦争の中から真実の花をさがして、ひそかに我が部屋をかざり、明日の日により美しい花をもとめ花咲かせる努力と希望を失ってはならないだろう。(『特攻隊に捧ぐ』)
  • いのちを人にささげる者を詩人という。(『特攻隊に捧ぐ』)
  • 我々愚かな人間も、時にはかかる至高の姿に達し得るということ、それを必死に愛し、まもろうではないか。軍部の欺瞞とカラクリにあやつられた人形の姿であったとしても、死と必死に戦い、国にいのちをささげた苦悩と完結はなんで人形であるものか。(『特攻隊に捧ぐ』)
  • 青年諸君よ、この戦争は馬鹿げた茶番にすぎず、そして戦争は永遠に呪うべきものであるが、かつて諸氏の胸に宿った「愛国殉国の情熱」が決して間違ったものではないことに最大の自信を持って欲しい。(『特攻隊に捧ぐ』)
  • 人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し救わなければならぬ。(『堕落論』)
  • 人はあらゆる自由を許されたとき、自らの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。(『堕落論』)
  • ともかく、希求の実現に努力するところに人間の生活があるのであり、夢は常にくづれるけれども、諦めや慟哭は、くづれ行く夢自体の事実の上に在り得るので、思惟として独立に存するものではない。(『デカダン文学論』)
  • 人間は先づ何よりも生活しなければならないもので、生活自体が考へるとき、始めて思想に肉体が宿る。生活自体が考へて、常に新たな発見と、それ自体の展開をもたらしてくれる。(『デカダン文学論』)
  • 私はたゞ人間、そして人間性といふものゝ必然の生き方をもとめ、自我自らを欺くことなく生きたい、といふだけである。(『デカダン文学論』)
  • 日本文学は風景の美にあこがれる。然し、人間にとつて、人間ほど美しいものがある筈はなく、人間にとつては人間が全部のものだ。(『デカダン文学論』)
  • めいめいが各自の独自なそして誠実な生活をもとめることが人生の目的でなくて、他の何物が人生の目的だろうか。(『デカダン文学論』)
  • 私は風景の中で安息したいとは思はない。又、安息し得ない人間である。(『デカダン文学論』)
  • 偉くなるといふことは、人間になるといふことだ。人形や豚ではないといふことです。(『デカダン文学論』)
  • 俗なる人は俗に、小なる人は小に、俗なるまま小なるままの各々の悲願を、まっとうに生きる姿がなつかしい。(『日本文化私観』)
  • 忘れな草の花を御存知?あれは心を持たない。しかし或日、恋に悩む一人の麗人を慰めたことを御存知?(『ピエロ伝道者』)
  • 親がなくとも、子は育つ。ウソです。親があっても、子が育つんだ。(『不良少年とキリスト』)
  • 負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありゃせぬ。戦っていれば、負けないのです。(『不良少年とキリスト』)
  • 人間は生きることが、全部である。死ねば、なくなる。名声だの、芸術は長し、バカバカしい。私はユーレイはキライだよ。死んでも、生きているなんて、そんなユーレイはキライだよ。(『不良少年とキリスト』)
  • 死ぬ時は、ただ無に帰するのみであるという、このツツマシイ人間のまことの義務に忠実でなければならぬ。私は、これを人間の義務とみるのである。生きているだけが、人間で、あとは、ただ白骨、否、無である。そして、ただ、生きることのみを知ることによって、正義、真実が、生れる。生と死を論ずる宗教だの哲学などに、正義も、真理もありはせぬ。あれは、オモチャだ。(『不良少年とキリスト』)
  • 要するに今あるよりも「よりよいもの」を探すことができるだけだ。絶対だの永遠の幸福などというものがある筈はない。(『欲望について』)
  • 無為の平穏幸福に比べれば、欲望をみたすことには幸福よりもむしろ多くの苦悩の方をもたらすだろう。(『欲望について』)
  • ほんとうのことというものは、ほんとうすぎるから、私はきらいだ。死ねば白骨になるという。死んでしまえばそれまでだという。こういうあたりまえすぎることは、無意味であるにすぎないものだ。(『恋愛論』)
  • 私はいったいに同情はすきではない。同情して恋をあきらめるなどというのは、第一、暗くて、私はいやだ。(『恋愛論』)
  • 私は弱者よりも、強者を選ぶ。積極的な生き方を選ぶ。この道が実は苦難の道なのである。(『恋愛論』)
  • 所詮人生がバカげたものなのだから、恋愛がバカげていても、恋愛のひけめになるところもない。バカは死ななきゃ治らない、というが、われわれの愚かな一生において、バカは最も尊いものであることも、また、銘記しなければならない。(『恋愛論』)
  • 人生において、最も人を慰めるものは何か。苦しみ、悲しみ、せつなさ。さすれば、バカを恐れたもうな。(『恋愛論』)
  • 孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外に花はない。(『恋愛論』)
  • 私は悪人です、と言うのは私は善人ですというよりもずるい。(『私は海を抱きしめていたい』)
  • 人生はつくるものだ。必然の姿などといふものはない。歴史といふお手本などは生きるためにはオソマツなお手本にすぎないもので、自分の心にきいてみるのが何よりのお手本なのである。仮面をぬぐ、裸の自分を見さだめ、そしてそこから踏み切る、型も先例も約束もありはせぬ、自分だけの独自の道を歩くのだ。自分の一生をこしらへて行くのだ。(『教祖の文学』)
  • 人間孤独の相などとは、きまりきつたこと、当りまへすぎる事、そんなものは屁でもない。そんなものこそ特別意識する必要はない。さうにきまりきつてゐるのだから。(『教祖の文学』)
  • 自分といふ人間は他にかけがへのない人間であり、死ねばなくなる人間なのだから、自分の人生を精いつぱい、より良く、工夫をこらして生きなければならぬ。人間一般、永遠なる人間、そんなものゝ肖像によつて間に合はせたり、まぎらしたりはできないもので、単純明快、より良く生きるほかに、何物もありやしない。(『教祖の文学』)
  • 人間は悲しいものだ。切ないものだ。苦しいものだ。不幸なものだ。なぜなら、死んでなくなつてしまふのだから。自分一人だけがさうなんだから。銘々がさういふ自分を背負つてゐるのだから、これはもう、人間同志の関係に幸福などありやしない。それでも、とにかく、生きるほかに手はない。生きる以上は、悪くより、良く生きなければならぬ。(『教祖の文学』)
  • 大人はずるいものだ。表と裏が別で、口では正義を説きながら裏では利慾をはかり、自らの為し得ざえることを人には要求し、カラクリだの陰謀術数を人生の経緯とし、これを称して人間ができてゐるとか、大人物だとか、申してゐます。青年の純潔さや一本気な情熱などは青二才の馬鹿さ加減と考へてゐるのが常識で、又、悲しむべき現実でもあります。(『青年に愬ふ』)
  • 他をたよつたり、味方をふやすことを考へる必要もない。他の嘲笑を恐れる必要もないし、自分だけ正しく行動してゐるのに他の人々が悪いことをいてゐるといつて怒ってしまつてはもう駄目だ。(『青年に愬ふ』)
  • 青年は先づ「ひとり」であることが大切だ。さうして、自分とは何者であるか、何を欲し、何を愛し、何を憎み、何を悲しんでゐるか、それを自覚し、そして自分自身を偽らぬことです。(『青年に愬ふ』)
  • 他人が正しくないと云って憤るよりも、自分一人だけが先づ真理を行ふことの満足のうちに生存の意義を見出すべきではないですか。(『青年に愬ふ』)
  • 私は結社や徒党はきらひで、さういふものゝ中でしか自分を感じ得ぬ人々は特にきらひなのです。(『青年に愬ふ』)
  • 青年は純潔だなどゝ申しても、人間は悲しいもので、年をとると、だめになります。情熱はだんだんあせ、正義よりも私利に傾き、せちがらくなり、ずるくなり、例の大人になります。(『青年に愬ふ』)
  • 何物を破壊する必要もない。正しいもの、美しい物を造ることによって自ら破壊は行はれるでせう。(『青年に愬ふ』)
  • 重ねて言ふ、大人はずるく、青年は純潔です。君自身の純潔を愛したまへ。(『青年に愬ふ』)

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坂口安吾 - Wikipedia』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E5%8F%A3%E5%AE%89%E5%90%BE
坂口安吾デジタルミュージアム』 http://www.ango-museum.jp/
新潟市 - 安吾賞 -Ango Awards-』 http://www.city.niigata.lg.jp/info/bunka/ango/


堕落論 (新潮文庫)

堕落論 (新潮文庫)

桜の森の満開の下 (講談社文芸文庫)

桜の森の満開の下 (講談社文芸文庫)