NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

銀河を包む透明な意志

……われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である……


われらの前途は輝きながら嶮峻(けんしゅん)である

嶮峻のその度ごとに四次芸術は巨大と深さとを加へる

詩人は苦痛をも享楽する

永久の未完成これ完成である

理解を了へばわれらは斯(かか)る論をも棄つる

畢竟(ひっきょう)ここには宮沢賢治一九二六年のその考があるのみである

── 宮沢賢治(『農民芸術概論綱要』)



昭和8年(1922)9月21日 宮沢賢治 没。


宮沢賢治記念館』 http://www.city.hanamaki.iwate.jp/sightseeing/kenjimm/
宮沢賢治記念会』 http://www.miyazawa-kenji.com/
『2005年08月04日(Thu) 「3日目」』 http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20050804

一日一言「人間の欲」

九月二十日 人間の欲


 権利や義務も、主張することはもっともなことではあるが、言ってみると、これは満たされることを求める学問上の理論にすぎない。欲でつながっている社会では当たり前のことではあるが、せめて、夫婦、親子、親友の間では愛情とまごころをもって接しなければならない。


  兄弟が田を分取りの争ひは
      田分けものとや人のいふらん


  親友の仲も互いに敵となる
      欲ははげしき剣なりけり

── 新渡戸稲造(『一日一言』)


自ら損な立場がとれた時、初めて人間となる。

 権利を主張することが民主的な生き方であって、それが人間の最も望ましい生き方などと、私は思えない。私自身、弱いエゴイストだけれど、人間というものは、自分が損のできる人にならねばならないと思っている。できるかどうかは別として、そうありたいと願うのである。損な立場がとれた時、人間は初めて、動物ではなく、人間になれるからなのだ。

── 曾野綾子(『自分をまげない勇気と信念のことば』)

自分をまげない勇気と信念のことば (WAC BUNKO)

自分をまげない勇気と信念のことば (WAC BUNKO)

病床六尺

「きょう19日糸瓜忌 松山で追悼の集い」(愛媛新聞
 → https://www.ehime-np.co.jp/article/news201709199807

 「子規逝くや十七日の月明に」(高浜虚子
 19日は、来月生誕150年を迎える俳人正岡子規(1867~1902年)の命日糸瓜(へちま)忌。午前10時から愛媛県松山市道後公園の子規記念博物館で追悼の集い、午後1時半からは同市末広町の正宗寺で子規忌法要が行われる。


1902年(明治35年)9月19日 正岡子規


脊椎カリエスに冒され、体中が腐り膿が流れ出る。
7年もの間、六尺の病牀の中、自死への逃避と闘いながら、もがき苦しみ続けた。

 ○病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅(わず)かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団(ふとん)の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚(はなは)だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤(まひざい)、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪(むさぼ)る果敢(はか)なさ、それでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限つて居れど、それさへ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪(しゃく)にさはる事、たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるやうな事がないでもない。年が年中、しかも六年の間世間も知らずに寐て居た病人の感じは先づこんなものですと前置きして

病牀六尺 (岩波文庫)

病牀六尺 (岩波文庫)



だが、ある日、悟る。

 余は今迄禅宗の所謂(いわゆる)悟りといふものを誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居ることであった。

── 正岡子規『病床六尺』

いかなる場合にも平気で生きる。

敬老の日

 実は、どんなに用意しようと、私たちはやがて目がかすみ、耳が遠くなり、すべての機能が悪くなる。本当の老年の到来を迎えた時、私はたった一つの態度しか思いうかべることができない。それは汚辱にまみれても生きよ、ということである。
 「風になぶられるしなやかな髪、みずみずしい唇」の少女の日も、それは一つの状態であった。目も耳もダメになり、垂れ流しになりながら苦痛にさいなまれることも、しかし、やはり一つの人間の状態なのである。願わしい状態ではないが、心がけの悪さゆえにそうなるのではないのだから、どうして遠慮することがあろう。
 人間らしい尊敬も、能力もすべて失っても人間は生きればいいのである。尊敬や能力のない人間が生きていけないというのなら、私たちの多くは、すでに青春時代から殺されねばならない。

── 曽野綾子(『戒老録』)


今日は敬老の日
「【主張】敬老の日 尊厳を忘れぬ言葉遣いで」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/column/news/170918/clm1709180001-n1.html

 「おじいちゃん、どっちに行きたいの」「名前呼ばれるまでちゃんと待てる?」「やればできるじゃないの」-。街角や電車内、病院などで、お年寄りに対するこのような言葉遣いを耳にしたことはないだろうか。

 家族や旧知など気心の通じた仲なら親近感があって好ましい場合もあろうが、相手構わず高齢者を目下か子供のように扱う物言いは、悪意がなくても、いや、たとえ好意からであったとしても、高齢者の自尊心を傷つけることがある。

 高齢者と接する機会の多い病院や介護施設などでは、とくに注意が必要だろう。施設に入所した人が、自らの年齢の半分にも満たないような若い職員から幼児言葉で話しかけられたことで心を閉ざし、長らく施設になじめなかったといった例も見聞きする。

 日本看護倫理学会は看護職向けのガイドラインで、高齢者の尊厳を守り、高めるための行動として「理由なしに高齢者をちゃんづけや愛称で呼ばず、その人の名前を呼ぶ」ことなどを提唱している。距離感を縮める目的でのくだけた言葉遣いも、度を越せばなれなれしく不快な印象を与えよう。

 高齢者は一般的に社会的弱者と位置づけられることが多い。確かに現役世代に比べ身体能力や所得などで不利な立場にあるのは否めない。その意味では高齢者を弱者としていたわり、保護していく社会の仕組みは重要である。

 ただ忘れたくないのは、高齢者を大切にするのは彼らが弱者だからではなく、豊かな経験と知恵を培ってきた人生の先輩だからであるとの視点だ。高齢者の中には、これまで家族を支え、日本の復興と成長にも貢献してきたと自負する人が少なくない。

 そこに思いを致せば、ぞんざいな言葉遣いなどできようはずもない。相手や場面に応じて過不足なく敬語を使いこなすのを難しいと感じる人も多かろうが、言葉の端々まで敬意と思いやりを行き届かせれば、おのずと相手の心に響く会話ができるに違いない。

 「うやまう」と訓じる「敬」は左部分(音はキョク)が「引き締める」意を表すことから、「はっとかしこまってからだを引き締めること」(漢字源)だという。

 身を引き締め、折り目正しい言葉遣いで高齢者に接する大切さを改めて思ってみる。そんな「敬老の日」にしたいものである。

私は、もう、ねむい。

あつちへ行つてくれ。
私は、もう、ねむい。

 小説を読むなら、勉強して、偉くなつてから、読まなければダメですよ。陸軍大将になつても、偉くはない。総理大臣になつても、偉くはないさ。偉くなるといふことは、人間になるといふことだ。人形や豚ではないといふことです。
 小説はもともと毒のあるものです。苦悩と悲哀を母胎にしてゐるのだからね。苦悩も悲哀もない人間は、小説を読むと、毒蛇に噛まれるばかり。読む必要はないし、読んでもムダだ。
 小説は劇薬ですよ。魂の病人のサイミン薬です。病気を根治する由もないが、一時的に、なぐざめてくれるオモチャです。健康な豚がのむと、毒薬になる。
 私の小説を猥セツ文学と思ふ人は、二度と読んではいけない。あなたの魂自身が、魂自体のふるさとを探すやうになる日まで。
 私の小説は、本来オモチャに過ぎないが、君たちのオモチャではないよ。あつちへ行つてくれ。私は、もう、ねむい。

── 坂口安吾(『デカダン文学論』)

堕落論・日本文化私観 他二十二篇 (岩波文庫)

堕落論・日本文化私観 他二十二篇 (岩波文庫)

桜の森の満開の下・白痴 他十二篇 (岩波文庫)

桜の森の満開の下・白痴 他十二篇 (岩波文庫)

そんなに深刻ではない「食糧自給率」

「日本の『食糧自給率』、実はそんなに深刻ではなかった 日本が輸入に頼るのにはワケがある 」(現代ビジネス)
 → http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52734

実はそれほど低くない

日本の食料自給率が、23年ぶりの低水準に落ち込んでいる。

農林水産省が発表したところによると、'16年度の食料自給率は38%だった。'15年度まで6年連続で39%にとどまっていたが、冷害で37%に落ち込んだ'93年度に近づく数値を叩き出した。一方で政府は、'25年までに食料自給率を45%まで高める目標を掲げている。

アメリカがTPP(環太平洋パートナーシップ協定)離脱を表明して以降、食料の輸出入に関する報道がどことなく下火になっていたが、このような現状をどのように捉えればいいのだろうか。

まず、農水省が重要視している食料自給率は「カロリーベース」と呼ばれるもので、国内で生産され、1人1日当たりに供給される熱量(913キロカロリー)を、国民が1人1日当たりに消費する熱量(2429キロカロリー)で割って38%となっている。

これとは別に「生産額ベース」で食料自給率を求める方法がある。食料の国内生産額(10・9兆円)を、国内で消費された金額(16・0兆円)で割るが、この計算だと'16年度の食料自給率は68%となる。

農水省が強調するのは、カロリーベースの数字である。農水省は独自の計算で他国のカロリーベースを割り出し、それらと比較して日本の自給率は低いと主張する。ちなみに農水省が公表している'13年の数値でカナダ264%、オーストラリア223%、アメリカ130%、フランス127%、ドイツ95%、イギリス63%となっている。

これを'09年の生産額ベースで見てみる。カナダ121%、オーストラリア128%、アメリカ92%、フランス83%、ドイツ70%、イギリス58%となっている。単純比較はできないにしても、68%の日本はそれほど低くないことがわかるはずだ。


食糧自給率よりも深刻な問題

実は、この食料自給率という数字は、国際社会ではあまり使われない。食料自給率を公表している国は、日本のほかには、イギリス、スイス、ノルウェー、韓国と台湾くらい。先に見てきた数字は、農水省がわざわざ独自に計算しているほどだ。

このことを考えると、国際社会では食料自給率という指標がさほど重要視されていないことがわかる。国内でも、食料自給率にはこれまで多くの批判が上がった。たとえば、近代農業では、農耕機やビニールハウスなどでガソリンやガスなどのエネルギーが不可欠だ。

そのエネルギーの自給率は、日本では6%程度と圧倒的に低く、食料自給率だけをとやかく言うことに意味がないといった具合だ。仮に戦争などの有事を考えても、輸入が制限されるのは食料よりエネルギーが先で、そちらを先に何とかするべきだとする向きも多い。

そもそも食料の輸入が増えているのは、政府が自由貿易の枠組みを拡げようとしているからだ。にもかかわらず、食料自給率の上昇を掲げているのは矛盾している。政府が農業協同組合の顔色を窺っているからだろうか。

農水省がカロリーベースで食料自給率を発表するのは「第二次世界大戦後の飢餓を忘れないため」と言われることがある。たしかにそれは大事だが、悪く言えば国民を「だましやすい」数値であり、農水省としても予算獲得の方便として使っている可能性は否定できない。