『これから先ずっと、この世界で幸福に生きることを命ずる』
救世主は言われました。
静けさの中、救世主のお声はよく響いた。
「ねえ君達、私はさっき神に向かって聞いてきた。『私はどんな犠牲を払おうとも何よりもまずこの苦悩に満ちた世の中を救いたいのです』とね。すると神は、私のなすべきことをお教えになった。私は神の言うことに従うべきでしょうかね?」
群衆は「もちろんだ!」と口をあわせて叫んだ。
「当たり前です、神がお望みになるのなら地獄の責め苦も喜んで受けるべきです」静けさの後のどよめきは恐ろしい音量となって、救世主は思わず耳をふさがれたりした。
「ええと、その責め苦がどんなに想像を絶したものであってもかね?」とまた救世主は、群衆のどよめきが静まるのを見はからって言われた。
「首を吊られようと、磔にされて火で焼かれようとも光栄だと思うべきです。それが神の御心ならば」そう群衆は答えた。
「うん、それではどうかな」と救世主は再び尋ねられた。群衆のざわめきは続いていて、大声をお出しにならなくてはいけなかった。
「もし、神が君達の目の前にお立ちになって、『これから先ずっと、この世界で幸福に生きることを命ずる』とおっしゃられたら、その時君達はどうしますか?」
群衆は答えられなかった。ざわめきも止み、沈黙が一帯を支配したのだ。
救世主は、大きな沈黙の固まりになってしまった群衆に向かって、言われた。
「ええと、私は自分が好まない道は歩くまいと思うのですよ。私が学んだのはまさにこのことなのです。だから、君達も、人に頼ったりしないで自分の好きなように生きなさい、そのためにも、私はどこかに行ってしまおうと決めたんです」
── リチャード・バック著(村上龍訳)(『イリュージョン』)
人は永遠に真理を探すが、真理は永遠に実在しない。
人は永遠に真理を探すが、真理は永遠に実在しない。探されることによつて実在するけれども、実在することによつて実在することのない代物です。真理が地上に実在し、真理が地上に行はれる時には、人間はすでに人間ではないですよ。人間は人間の形をした豚ですよ。真理が人間にエサをやり、人間はそれを食べる単なる豚です。
── 坂口安吾(『余はベンメイす』)