NAKAMOTO PERSONAL

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現代人に効くキルケゴールの哲学

「『“あなた自身”の幸せは何?』現代人に効くキルケゴールの哲学」(現代新書)
 → https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59393

自分自身にとっての幸せとは?
FBなりインスタなりを見ていると、「何らかのリーグで勝っていないといけない雰囲気」が漂っているように感じます。

SNSでの勝者の姿と現実の自分とが乖離する中で「自分って何だろう」と悩んだり、他の人と比べた時に不甲斐なく思えてきたり、人と張り合うことに虚しさを感じてしまうという人も少なくないでしょう。

俯瞰で見た際の、わかりやすい幸せの形というものは確かに存在すると思います。高価な買い物をしたり、人が羨むような場所へ旅行に出かけたり、隙なく充実した毎日が誇示され続けているSNSを見ると、紋切り型とも言える幸せの形をなぞり、誇示することが正解なのではないか、という強迫観念にかられてくるものだと思います。

また、このような俯瞰で見た際の幸せにケチをつけようものなら「嫉妬乙」と言った具合に、敗者認定されてしまうという風潮もあります。

しかし、そんな「ありふれた幸せ」は誰しも当てはまるものではありません。まるで現在のSNSをめぐる状況に警鐘を鳴らすような形で、「自分自身の真理を追求することが何よりも大切だ」と唱えた哲学者がいます。それはキルケゴールです。


「ポエミー」な哲学者・キルケゴール
キルケゴールは19世紀に活躍したデンマークの哲学者です。代表作である『死に至る病』という本のタイトルを聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。

当時、19世紀のヨーロッパではヘーゲルという哲学者が注目を浴びていました。ヘーゲルは「弁証法でエンドレスで考えれば、いつか真理まで到達するじゃん!!」というようなことを言っており、近代哲学を完成させたとも言われる大哲学者です。

弁証法について簡単に説明すると、「お腹いっぱいご飯食べたい」というテーゼに対して「でもお腹いっぱい食べて太りたくない」というアンチテーゼがあった場合、「お腹いっぱい食べたい」けど「太りたくない」の矛盾した意見のハイブリッド・妥協点・いいとこ取り、として「じゃあいっぱい食べても太らない糖質制限食にしよう!」というアウフヘーベンを生むことです。

つまり、AとBで悩んだ場合に、その中間を行くC案をひねり出す、というのが弁証法であり、Aがテーゼ、Bがアンチテーゼ、C案がアウフヘーベンになります。

ヘーゲル哲学を糖質制限に置き換えて説明していきましょう。弁証法によって生まれたC案「糖質制限食にしよう!」ですが、さらにここにまた新しいアンチテーゼ「けど甘いものも食べたい!」が生まれます。その場合、「糖質制限食にしよう!」をテーゼ、「けど甘いものを食べたい!」をアンチテーゼとし「じゃあ糖質オフのデザート食べよう!」というアウフヘーベンが生まれます。

この弁証法をコツコツ突き詰めていくことにより、いつか絶対的な「真理」にたどり着けると言ったのがヘーゲルでした。そして、「国家とは何か」「世界精神とは何か」など、途方もなく大きな問い(形而上学的問い)を掲げ、究極の真理の探究にささげたのです。『法の哲学』『精神現象学』などの大著をたくさん書きました。

しかし、そこで「そんな抽象的な真理、自分の人生に関係なくない?自分の人生にとっての真理の方が大事じゃない?」と言ったのがキルケゴールです。キルケゴールは「ヘーゲル哲学で絶対的な真理にたどり着けたとしても、自分自身の真理とは関係ない」と、「自分自身にとっての真理」を探求した哲学者でもありました。

なんて人間らしいキルケゴール。ここまでの流れを見ると頭でっかちの大人・ヘーゲルに対し「けど、先生。……それ俺らに関係ないっしょ」とねじ伏せる、いけすかないけど話してみると割と話が分かる不良生徒が言い放ちそうなシーンが思い浮かびます。

キルケゴールは哲学者の巨人の中でも、一際キャラ立ちしている存在です。哲学者というと「事実の総体は、何が成立しているかを規定すると同時に、何が成立していないかをも規定するからである」なんて二度見してもすぐには理解しがたい文章を書きがちですが、キルケゴール「少量のワインは私に悲哀をそそり、大量のワインは憂鬱にする」と言った文言や「一人の乙女に忠実であれ……君はそれを悔いるだろう。彼女に不実であれ……君はそれも悔いるだろう」などポエミーなツイッタラーを思わす文章も書いています。

どの言葉もキルケゴールの人生の苦悩がにじみ出ていて面白く、思わず引用したくなりますね。


絶望しないための「実存」のありかた
キルケゴールは自分の生き方や、自分にとっての真理にとにかく熱中していた哲学者であり、ニーチェサルトルと並ぶ実存主義哲学」の先駆者でもあります。実存主義哲学というのはざっくり説明すると「いかにして生きるべきか」といった、人間の存在理由を問う哲学の中のジャンルです。

哲学というと名言があって自己啓発的な側面があるというイメージを持たれがちですが、実は「哲学史」の中で「人間の存在理由」を突き詰めているのは実存主義くらいで、決して哲学の主流というわけではありません。

キルケゴールが唱えた主観的な人生に対する熱意は「情熱を持って生きないと、自分の世界は妬みに支配されてしまう」といったキルケゴールの言葉に集約されていると思います。美意識の人、と呼ぶのがふさわしい哲学者です。自分の生き方を過剰なまでに真摯に問い続けたキルケゴールの言葉は、悩める現代人の心に突き刺さります。

そしてキルケゴールが現代人の心に響くであろう理由はこれだけではありません。彼は机上の空論的な理想論として人生を説いたのではなく、ある程度の放蕩を楽しんだ上で「けど贅沢では人の気持ちって満たされないんだよな」という自分の真理にたどり着いたことを書き綴っている「実践者」でもあるのです。

最近ではZOZOTOWNの前澤社長がTwitter上で行なったお年玉企画が、「当選者見てたら志高い人ばっかりじゃん!抽選じゃなくてクラウドファンディングじゃん!」と賛否両論を呼んでいましたが、ただお金が欲しい、贅沢で自分を満たして幸福感を得たいという欲望を追い求めても結局は絶望するだけ、とキルケゴールは説いています。

これは「実存の三段階」と呼ばれるもので、まず初めに人は物質的に豊かな生活を求め欲望を満たそうとします。これが「美的実存」の段階です。

しかし、途中で「うーん、これだけでは満たされない、虚しい」と絶望に襲われます。そして次に役割を持って社会のために生きようとする「倫理的実存」の段階にステップアップします。欲望を抑え、清い心で生きようと「良き人」になろうとする段階ですね。

しかし、結局ここでも絶望を味わうことになります。キルケゴールによると良心を磨けば磨くほど、自分の過去の悪行や人間としての不完全さに嫌気が差したり、罪悪感に耐えられなくなってしまう、とのことです。そして最終段階は「宗教的実存」人間のちっぽけさを受け入れ、神を信仰することにより救いを求める、という段階ですね。


「自分が信じる真理を、自分の人生で証明する」
キルケゴールキリスト教徒だったので「宗教的実存」を最終段階に置いていますが、特別な信仰がない、無宗教の人からすると「美的実存と倫理的実存はわかるけど、宗教的実存はちょっとよくわからない……」と思ってしまうでしょう。

しかし、ここでキルケゴールが大切にしていた「自分にとっての真理」という言葉を思い出してみてください。キルケゴールは、「神は絶対に存在しているから最後は宗教的実存だ!」と盲信的に宗教的実存を掲げたのではありません。

「神がいようがいなかろうが、自分はいるものと信じて、それを真理に掲げ人生を全うしていく」というのが彼にとっての真理であり、キルケゴール自身がたどり着いた真理であるキルケゴール哲学なのです。

つまり彼は「自分が信じる真理を、盲信的に信仰するのではなく、自分の人生を持って証明していく」という立場をとった、ということです。すがるように信じるのではなく、信じることで自身の人生をパワーチャージした、という表現が近いかもしれませんね。

そういった思いを集約した「たとえ世界を征服したとしても、自分自身を見失ってしまったとしたら何の意味があるというのか」という言葉を残したキルケゴールは、社会的な影響力を得るよりも、自分自身にとっての幸福や真理を見失わない方が重要である、という一つの「真理」を後世にもなお提示してくれています。

SNSの「美的実存の氾濫」に耐えられない方は、キルケゴールを読んで自分自身を見つめなおしてみることをお勧めします。

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