NAKAMOTO PERSONAL

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「歴史の中の未来」を考える意義とは

「日本人はもっと「歴史のif」を考えるべきだ」(東洋経済オンライン)
 → https://toyokeizai.net/articles/-/259634

あのときああしていればどうなったろう、と考えたことがない人はいまい。通常、今よりもましだったのでは、という感慨を伴うこの問い(反実仮想)を、社会、国家のレベルでなすことの意味はどこにあるのだろうか。『「もしもあの時」の社会学』を書いた防衛大学校の赤上裕幸准教授に聞いた。

「歴史の中の未来」は物の見方を豊かにする
──そもそも、歴史にifは禁物と聞かされてきました。

英国の有名な歴史家、E・H・カーが名著とされる『歴史とは何か』で「歴史のif」の発想を「サロンの余興」と批判するなど、物事の原因を説明するのが役目と考える歴史家たちは否定的です。が、すべての歴史家がそうではなく、海外では「歴史のif」に関する論文はもちろん書籍が多数あり、「ユークロニア(どこにも存在しない時間)」というデータベースもあります。また、政治学者や心理学者も「歴史のif」の学術的な研究に参加しています。

──日本ではあまり聞きません。

日本での「歴史のif」の大きな特徴は1990年代に大ブームとなった架空戦記です。太平洋戦争において、もし日本が勝ったら、8月15日以降も戦い続けたらといった小説がよく売れました。一方で、学術的な研究はあまりなく、その意味ではガラパゴス的。ただ、最近は加藤陽子東京大学教授による、玉音放送がなく阿南惟幾(あなみこれちか)新首相が戦争を継続するという小松左京『地には平和を』の再評価など、変化は出てきています。

──Aが起きれば必ずBになる、という歴史必然論、決定論へのアンチテーゼだと思いますが、すべてのifが対象ではない?

例えば歴史改変小説。ナチスが米国に勝利していたらどうなっていたかを描いたフィリップ・K・ディックの『高い城の男』をはじめとして面白いものが多く、日本の架空戦記も含まれます。これらは「もしもあのときこうだったら」から風が吹けば桶屋が儲かる的に話が膨らんでいって面白いけれど、あくまで物語。丸々学術的な研究対象にはなりにくい。

ただ、歴史におけるターニングポイントはどこかということを示し、着想を与えてくれる点では重要だと思います。また、ターニングポイントから短期間の話であれば参考になる。

一般的に、ターニングポイントでのifを問うことで、そうならなかったけれど起こりえたこと=ありえたかもしれない過去、を分析することに学術的な研究の可能性があると思っています。

──短期的とはいえ、歴史にifを取り入れる意味は何でしょう。

歴史の当事者たちがターニングポイントから見た未来像、いわば「歴史の中の未来」に私たちが関心を寄せるよすがになります。第1次大戦が起こった必然性のなさに着目したクリストファー・クラークは『夢遊病者たち』で、「なぜ」ではなく「いかにして」を問うことで第1次大戦よりもましな「未来の種」が潰された理由を分析しています。


ifを考えると、現在のとらえ方も変わる
──いろんな選択肢があったのにこれですか、という視点ですね。

歴史のifを取り入れるよさは、厳密性ではなく創造性、必然性ではなく偶然性、変わりえた可能性を提示することで、現在のとらえ方も変わるということです。

ビジネスの観点でいえば、企業が経営計画を策定するとき、過去の失敗例に関して「あのとき、こうしていたら状況は改善したのではないか」「想定外の要因は何だったのか」「社内で別の考えを持った人がいて、その線で行けば成功していたのではないか」と再検討することはよくあると思います。これは「歴史の中の未来」とつながります。こうした発想によって、物の見方がより多角的に、豊かになります。

また、先に挙げた架空戦記については、石田あゆう・桃山学院大学准教授が、当時の読者はビジネス書として読んでいたと指摘しています。架空戦記の軍事的戦略はビジネスと相性がいいですし、「24時間戦えますか」と今以上に総力戦を強いられていた人々が、処世術を学ぶ書としても読んでいたというわけです。

「歴史のif」はどんな人が用いても得られるものがある。応用可能性は大きいと思います。

──対象となるifが適切かどうかはどう判断するのでしょう。

このテーマでは、歴史学者ニーアル・ファーガソンが1997年に編んだ『Virtual History』(邦訳なし:編集部注)を参考にしていて、ファーガソンは、当時の人々が真剣に考えた選択肢だという証拠が必要だと考え、紙などの媒体に残された記録に依拠したifに限定すべきだとしています。

──イマジネーションの働く範囲が狭まりそうですね。

政治学者、リチャード・ルボウは赤ん坊のときに、家族ともどもナチスに捕まり、たまたま彼だけが生き延びたという経験からか、歴史における偶然性を重視すべきだと考えています。ファーガソンの基準は厳格すぎて、何が起きるかわからない現代社会では思考実験の意味を成さないというわけです。くだけた言い方をすれば、それじゃifのよさがなくなっちゃうじゃん(笑)。

一方で歴史学者、リチャード・エヴァンズは、歴史学の応用で十分で、あえて反実仮想を用いる必要はないという立場です。


文・理系の知見を総動員して歴史のif探りたい
──エヴァンズは、決定論批判で出発したのに、ある選択肢を選べば、それ以外は消えてしまい、決定論と同じだとも言っています。

それはそのとおり。ただ、それを言ってしまうと、これまた従来の歴史学と同じものになってしまう。

──そこで「社会学」の出番。

エヴァンズの指摘を取り入れながらファーガソンのやりたいことを拡大していきたいと考えていて、その際にマックス・ウェーバーが参考になりました。

ウェーバーは、歴史のifを歴史学的な100%の厳密性で捉えることは不可能なので、ある程度の「客観的な可能性」、言い換えれば「高確率な可能性」があるといえればいい、としています。その可能性を分析する際には、文系的な知見はもちろん、理系的なデータ分析、シミュレーションなどを総動員する必要がある。

大目標である歴史のifとしての「客観的な可能性」探求は歴史学者とも共有できると思う。私一人では手に余るので、本書を契機にそういった機運が高まるとうれしいです。個人的には、ここに示した方法論から、未来小説が社会に与えた影響などを研究していきたいと考えています。

「もしもあの時」の社会学 (筑摩選書)

「もしもあの時」の社会学 (筑摩選書)