NAKAMOTO PERSONAL

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1400年にわたる歴史の大本にあるもの

「『天皇』の呼び名は日本人の気概を表している」(東洋経済オンライン)
 → https://toyokeizai.net/articles/-/259116

 1948年以降、新年と天皇誕生日の年2回行われている、一般参賀。1月2日、皇居では天皇陛下の在位中、最後となる一般参賀が行われ、参賀者数は平成最多の約15万5000人となりました。参賀は5回の予定でしたが、皇居に入り切れない人のため、両陛下の御意向で、2回追加されるほどのにぎわいでした。

 多くの日本人が愛してやまない天皇ですが、そもそもなぜ「天皇」という呼称なのでしょうか。考えてみたことはあるでしょうか。


天皇」の称号が使われる以前
 「天皇」という称号は7世紀ごろに使われ始めたとされます。この称号について考えるとき、われわれは当時の日本の巧みな国際戦略と、当時の日本人の気概について、うかがい知ることができます。

 「天皇」の称号が使われる以前、日本の君主は「オオキミ(またはオホキミ)」や「スメラミコト(またはスベラギ、スベロギ)」と呼ばれていました。「オオキミ」は漢字で「大王」と書き、史書にも記され、一般的に普及していた呼び方でした。

 一方、「スメラミコト」は格式ばった言い方で、「オオキミ」の神性を特別に表す呼び方でした。謎めいて儀式的な響きのする「スメラミコト」が何を意味するのか、はっきりとしたことはわかっていませんが、いくつかの解釈があります。その代表的なものが、「スメラ」は「統(す)べる」、つまり統治者を意味するという説です。このほかに、神聖さを表す「澄める」が転訛(てんか)したとする説もあります。

 「ミコト」の意味ははっきりしており、神聖な貴人を表します。「スベラギ」や「スベロギ」は、「スメラ」と「キミ」の合成語ではないかと見る説があります。

 では、「オオキミ(大王)」や「スメラミコト」が「天皇」となったのはなぜでしょうか。608年、聖徳太子が中国の隋の皇帝・煬帝に送った国書で「東天皇敬白西皇帝(東の天皇が敬いて西の皇帝に白す)」と記されていました。『日本書紀』に、この国書についての記述があり、これが主要な史書の中で、「天皇」の称号使用が確認される最初の例とされます。

 遣隋使の小野妹子ははるばる海を渡り、隋の都・大興城(現在の西安)へ赴きました。その時、携えていた有名な国書に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云(日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す、恙無しや、云々)」と書かれていました。この国書に対し、煬帝から返書があり、さらに、その煬帝の返書に対する返書として、日本から送られたのが、上記の「東天皇敬白西皇帝」の国書です。

 日本が自らの君主を「天子」や「天皇」と明記して、国書を差し出したことには大きな意味があります。

 当時、日本は中国から「倭」と呼ばれ、その君主の称号として「倭王」を授けられていました。中国では、皇帝が最高の君臨者で、その下に複数の王たちがいました。中国の王は皇帝によって、領土を与えられた地方の諸侯にすぎません。つまり、「倭王」は中国皇帝に臣従する諸侯の一人という位置づけだったのです。朝鮮半島諸国の王なども同様の扱いでした。

 7世紀、日本は中央集権体制を整備し、国力を急速に増大させていく状況で、中国に対する臣従を意味する「王」の称号を避け、「天皇」という新しい君主号をつくり出しました。皇国として、当時の中国に互角に対抗しようという大いなる気概が日本にはあったのです。


国際情勢を的確に把握していた首脳部
 日本が中国と対等であることを国際的に宣布することは戦略的にも重要でした。当時、日本は朝鮮半島南部を服属させていました。現在の韓国の大半部は日本の一部だったのです。「広開土王碑」によると、日本は391年、百済を服属させ、新羅百済は王子を日本に人質に差し出していました。

 『日本書紀』の雄略紀や欽明紀では、日本が任那をはじめ伽耶(かや)を統治していたことが記されています。ここで言う伽耶は朝鮮南部の広域地域を指す呼び名です。『日本書紀』は、日本が朝鮮半島を支配した証拠や根拠となる史実を論証することを編纂の目的の1つとしていました。

 中国の史書宋書』の中の「夷蛮伝」では、倭の五王朝鮮半島への進出について、記述されています。

 このように、領土拡張を続けていた日本は中国に対し、へり下る必要はなく、朝鮮半島をはじめとする東アジア諸地域に対し、日本の優位性を示すためにも、日本の君主は中国への臣従を意味する「王」の称号を捨て、自ら「天皇」を名乗ったのです。中国皇帝も日本の国力を考えれば、日本の意向を無視できないはずだと、聖徳太子をはじめとする日本の首脳部は見抜いていました。

 当時の日本が国際情勢を見据えた戦略の中で、「天皇」の称号を打ち出したことは時宜に応じたものであり、優れた大局観であったと言えます。今日まで続く「天皇」の称号には、古代日本人のあふれる気概が息づいています。

 7世紀後半の第40代天武天皇の時代には、「天皇」の称号が一般的に使われようになり、孫の文武天皇の時代の702年に公布された大宝律令で、「天皇」の称号の使用が法的に定められます。


「スメラミコト」に匹敵する漢語表現
 では、「天皇」という言葉そのものはどのようなことに由来するのでしょうか。中国の神話では、「天皇(てんこう)」・「地皇(ちこう)」・「人皇(じんこう)」の3人の伝説の皇が世界を創造したとされます。その中でも「天皇(てんこう)」は最高神です。道教でも、「天皇(てんこう)」が崇められています。

 先述のとおり、日本には「オオキミ(大王)」という俗権的称号のほかに、「スメラミコト」という聖権的称号がありました。最高祭司としての「スメラミコト」に匹敵する漢語表現(つまり当時の国際言語)を探し求め、宗教的かつ神話的な意味を持つ「天皇」がふさわしいと選定され、この称号によって、「オオキミ」が天の神の子孫であることを知らしめようとしたと考えられます。

 そして、同時に、その子孫の血統を守ることも強く意識されて、天皇の地位は天皇家の家系にのみ、独占的に世襲されることの正統性も導き出しました。

 「天皇」は中国皇帝に唯一、対抗できる称号だったわけですが、では「皇帝」の称号のほうは、どのような由来を持っているのでしょうか。秦王の政は紀元前221年、中国を初めて統一し、始皇帝を名乗ります。この時、「皇帝」の称号が誕生しました。

 前述の世界創造神の三皇に加え、その世界を受け継いだ帝王である伝説の五帝がいます。この五帝の中に夏王朝の尭(ぎょう)・舜(しゅん)などの帝王も含まれます。三皇と五帝を合わせて、「三皇五帝」と言い、秦の始皇帝は、これら「三皇五帝」をすべて統合するという意味で「皇帝」の称号をつくりました。

 「皇」は王と同じ意味ですが、王の上に、光輝くという意味の「白」が付いています。つまり、「皇」は「王」よりも格上の称号です。

 「帝」は束ねるという意味があり、統治者を指す言葉です。糸偏をつけた「締」は文字どおり、糸を束ねるという意味です。したがって「皇帝」とは「世界を束ねる光輝く王」という意味になります。始皇帝は、自らが伝説の聖人をしのぐ最高存在であることを示そうとしました。


煬帝の「2つの返書」の真偽
 このように最高の存在とされた皇帝ですから、隋の皇帝・煬帝は日本の国書「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」で、日本の君主が「天子」と名乗ったことに、立腹したとされるのもうなずけます。興味深いのは、その手紙への返書です。『日本書紀』によると、その返書には、日本の君主を「倭皇」とすることが記されていたとされます。「倭王」という臣下扱いではなく、対等の「倭皇」と表記されていたというのです。

 しかし、不自然な点もあります。煬帝の返書を受け取った小野妹子は、それを朝鮮の百済で盗まれて紛失してしまったと言っています。ところが小野妹子に同行して日本に来訪した中国側の使節・裴世清(はいせいせい)も、煬帝の返書を携えていました。裴世清の持っていた返書は盗まれることはなく、無事に日本に差し出されました。その差し出された返書に「倭皇」と記されていた、と『日本書紀』は伝えています。つまり、煬帝小野妹子と裴世清の2人に、2つの返書を持たせていたことになります。

 この不可解な話について、さまざまな解釈があります。煬帝の返書は実際には、日本を臣下扱いするものであったため、小野妹子が返書を破棄したという説などです。中国皇帝が当時の日本君主を「王」ではなく、「皇」としてすんなりと認めたと考えるのには無理があるだろうとする諸説が根強くあります。

 いずれにしても、君主の称号は日本の国際的な立ち位置を決定するうえで極めて重要なものであり、『日本書紀』などの史書も、そのことを強く意識し、「天皇」の称号について記録しています。

 「天皇」は英語で「エンペラー(emperor)」、つまり「皇帝」ですが、その称号の誕生の歴史的背景を鑑みれば、本来、「エンペラー」とは異なるものであり、やはり天皇は「天皇」としか言い表せない存在なのです。

天皇畏るべし 日本の夜明け、天皇は神であった

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