NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

「いじめを論じて国の不毛を憂う」

「いじめを論じて国の不毛を憂う 日本大学教授・先崎彰容」(産経新聞
 → https://special.sankei.com/f/seiron/article/20181217/0001.html

 ≪「否定」の病に取り憑かれた≫

 忘れた頃に恐縮だが、今年10月に発足した第4次安倍改造内閣で、五輪相に就任した桜田義孝氏(サイバーセキュリティ担当)について、マスコミが揶揄(やゆ)的な報道をくり返した。2020年東京五輪の基本方針を、立憲民主党蓮舫議員から質問された際、適切な答弁ができず非難されたことは、まだ納得できる。

 しかし大会予算の言い間違いに始まり、サイバー関係に精通しているとは思えない発言が続発すると、マスコミは彼の言動に注目し始めた。野党が大臣としての資質を追及したのは言うまでもない。

 しかし連日の桜田バッシングを見ながら、筆者の心を占めたのは、逆にマスコミに対する大きな怒りと、野党への多少の侮蔑であった。なぜなら第1に、訥弁(とつべん)で語る大臣の一挙手一投足を笑いものにするのは、まさしく「大人のいじめ」に他ならず、第2に、揚げ足取りしかやることのない野党には、既視感しか覚えなかったからだ。たどたどしい言葉遣いをモノ笑いの種にするのは、小学校時代によくあるいじめのやり口ではないか。前者にはいじめであるがゆえに大きな怒りを、後者には「またやってらあ…」程度の印象しか提供できない野党への侮りを、筆者は覚えていたわけである。

 だが大事なことは、一大臣の言葉をめぐり炙(あぶ)りだされる、現代日本社会の方にある。昨今のわが国は、どう見ても「否定」の病に取り憑(つ)かれている。何かを否定したい、引きずり降ろしたいという欲求に駆られているとしか思えない。何が私たちの心情をここまで荒(すさ)んだものにし、政治の世界を不毛にしているのか。


 ≪事実よりも気分の高揚が大事≫

 ここで参考になるのが、ジョージ・オーウェルの著作である。オーウェルは、短編評論「ナショナリズム覚書」の中で、次のようなことをいっている。

 自分は、ナショナリズム愛国心をはっきりと区別すべきだと考えている。愛国心とは、自分を世界で一番よいものだと思いつつ、他人へ強制はせず、自分の生活様式に献身しようとする心情のことである。だから本来、愛国心は防衛的で慎(つつ)ましいものである。

 ところが一方のナショナリズムは、正反対の心情である。ナショナリズムの特徴は、何よりも「ただ何かに反対する」という心情であり、相手を否定することだけに関心をもつ。自分が今までよりもより大きな勢力、より大きな威信を獲得することだけに心血を注ぐ。そして競争相手が少しでも褒められると語気を強めて反論し、自分を批判されると感情的なまでに心をかき乱される。これがナショナリズムの特徴なのである。

 興味深いのは、オーウェルが、自己肯定と他者否定に駆られるナショナリストが、知識人に多いと指摘していることである。その彼らはきわめて簡単に、自己を集団に埋没させてしまうともオーウェルはいう。知識人はそれぞれが正しいと思う集団に自己を全面的に感情移入してしまう。共産主義反ユダヤ主義トロツキストから平和主義まで、集団・共同体であれば何でもよい。

 自分が理想視した集団に自己を埋没させ、それを絶対善だと思いこんでしまう。相手陣営を打ち負かすこと、「否定」するエネルギーに全力を注入する。こうした行為によって、自分たちが勝っていると「感じる」ことができれば満足なのである。事実はどうでもよい。気分が高揚していることが大事なのだ-。


 ≪野党の政府攻撃が典型的だ≫

 オーウェル自身が断っているように、このナショナリズムの定義は、彼独自のものである。しかしこの精神構造は驚くほど、現在の日本のマスコミと野党にも当てはまる。第1に、彼らの目標は他者を「否定」すること自体に堕している。国家の繁栄のための建設的な議論の応酬ではなく、ただ相手を批判し、反対することで、自分が優位に立つことだけが目的になっている。手段であるはずの他者対決が、目的化しているのだ。いじめの最大の特徴は、何かを生み出すためではなく、相手をただただ否定する無意味さにある。

 そして第2に、彼らが自らの正義感を全く疑っていない点である。一個人をここまで揶揄し、批判できるのは、自らが「正義」の立場にあると思っているからに他ならない。野党の政府攻撃が典型的なのだが、彼らは実際にこの攻撃によって勝利する、つまり政権が奪取できると思っていない。また実際に、絶対に政府を下野させることもできないであろう。

 だとすればまさしくオーウェルがいうところの「自分が勝っていると『感じる』ことができれば満足」しているだけではないか。野党だけではない。国民の視線という密林の奥深くからマスコミは一個人を狙い撃ちしているのだ。

 こうした無意味な他者否定と、集団による一個人の攻撃、これこそいじめの本質でなくてなんであろう。国を司(つかさど)る大人たちよ。もう少し背筋を伸ばして、自説を堂々、展開すべきではないのか。


翁に曰く、

 テレビは巨大なジャーナリズムで、それには当然モラルがある。私はそれを「茶の間の正義」と呼んでいる。眉ツバものの、うさん臭い正義のことである。

── 山本夏彦『何用あって月世界へ』

戦前まっ暗のうそ 山本夏彦とその時代4 (山本夏彦とその時代 4)

戦前まっ暗のうそ 山本夏彦とその時代4 (山本夏彦とその時代 4)