NAKAMOTO PERSONAL

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「人生を決定した小室直樹先生との出会い」

「中高年は『肩書のない余生』に備えよ」(日経ビジネスオンライン
 → https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/122600095/100300038/

 たまたま、とある医学の世界の重鎮に招かれて、パーティのようなものに行ったのだが、驚くべき光景を目にした。今年58歳になった私と同年代か、それより少し上の東大医学部教授たちが、その重鎮に媚びを売って、猟官運動をしているのである。

 東大の医学部の教授というと、受験の世界では最難関とされる東大医学部の卒業生の中の、勝ち組の中の勝ち組と言える存在である。

 その彼らが、定年を数年後に控えて、次のポストのために実力者にペコペコしていた(これは私の主観かもしれないが、そうとしか見えなかったのである)。

 私は、30代の後半から常勤の医師をやめ、フリーターのようなことを続けてきたので、定年なるものを意識したことはないが、「人生100年時代」には、定年後の余生があまりに長いので、現役のころの肩書がいくら立派でも、その後の人生のことを考えておかないとサバイバルできないと痛感した。

 今回は、肩書が通用しなくなってからの生き方とその準備について論じてみたい。


週刊誌でのバイト時代に開眼した
 実は、私が肩書に頼らない生き方、つまり、東大の医学部を出ている以上、東大は無理でもどこかの教授を目指すとか、大病院の院長を目指すというありきたりの人生でない生き方、を志したのは、大学5年生の夏のことである。

 その頃、学校の成績が悪かったこともあるが、小室直樹という不思議な学者と出会ったことが、その後の人生を決定づけた。

 当時、私は週刊プレイボーイという雑誌で、フリーの記者のアルバイトをしていた。キャンパス情報や医学ネタの取材記者を主にやっていた。

 大学5年生の7月に、ある編集者から、今度、「小室直樹博士のヤング大学」という連載企画をやるから、東大生なり、議論のできるような学生を集めてくれと言われた。学生を集めるだけで、それなりの原稿料がもらえるので一も二もなく引き受けた。

 当時、小室直樹氏の名前くらいは知っていた。世間で悪者にされていた田中角栄氏や戸塚ヨットスクール戸塚宏氏を擁護していた変わった学者という認識だった。

 しかし、雑誌の収録用に講義が始まると、発想の斬新さに驚かされることの連続だった。私もそれほど教養がある方ではないが、恐らくは、世の中の定説とは違うものだろうというくらいのことはわかった。

 それ以上に驚かされたのは、その生き方である。

 京都大学を出て、当時、日本のトップレベルの経済学者を集めていた大阪大学の経済学研究科の博士課程を経て、米マサチューセッツ工科大学の大学院や米ハーバード大学の大学院で経済学を学びながら、社会学に転向して、日本の師に破門され、今度は東大法学部の政治学の大学院に入り、最終的に法学博士の学位を東大から受けるというのに、常勤の大学教員の地位を得ることはなかった。


深酒し路上で寝る破天荒な先生
 そこで自主ゼミを開いたが、そこからそうそうたる面々を輩出している。最近、その評伝がでたのだが、そのゼミ出身者で彼を師と仰ぐ面々が推薦の言葉を寄せている。橋爪大三郎氏、宮台真司氏、大澤真幸氏、そして副島隆彦氏である。

 東大非常勤講師以外に肩書のないこの学者は、家に電話も引いておらず、ときにお酒を飲み過ぎて、道端に倒れているという暮らしを営んでいた。私の上司の編集者が彼の話を聞いたり、原稿を書いてもらうために、電報を打ったり、道に倒れていないかを見に行ったりしているのを知り、肩書に頼らない生き方に憧れを抱くようになっていった。

 妻をもらい、後に生活はかなり改まったようだが、執筆と講演は77歳で亡くなる直前まで精力的に続けられた。

 のちのソ連の崩壊を日本で初めて(下手をすると世界で初めて)予言する本を、私が出会ったころすでに書いていた(誰も信じなかったようだが、この本は売れた)のだが、肩書より言っていることの面白さで生きる方がずっとすごいと憧れることになったのだ。


肩書欲しさに重鎮にペコペコ
 僭越なようだが、このときの決意が今の自分(小室先生ほど世間の評価は高くないだろうが、肩書に頼らず、700冊以上の著書を出し、映画監督など好きなことができているのは確かだ)のベースとなっている。引退のない仕事なので、定年の心配もしていない。

 一方で、私が医学界の重鎮のパーティで見たのは、60歳近くなって、肩書の呪縛から逃れられない人たちである。

 東大教授を退官した後、医者の免状があるのだから、開業もできるだろうし、週の半分も医者のバイトをすれば、子どもが独り立ちしていれば十分生活でき、趣味の世界に生きることもできるはずだ。それでも東大を退官後も立派な肩書が欲しいから、くれそうな人にペコペコしているように見えた。

 ただ、一つ言えることは、仮に別の大学の医学部で教授のポストを得たり、大きな病院の院長職を得られたとしても、70歳前後で、それも引退しないといけなくなる。

 60歳前後で開業するなら、そこから流行るクリニックも目指せるが、70歳過ぎだと、いくら元東大教授でも難しいだろう。文筆であれ、新たな医学ビジネスであれ、別の世界でデビューするならなおのこと難しくなるだろう。

 私も長年、老年精神医学に取り組んできているが、定年前の社会的地位の高い人に限って、定年後、引退後の適応が悪く、それ以降の第二の人生を見出すのが困難な人が多いし、うつのようになる人も多い。

https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/122600095/100300038/?P=2&mds