NAKAMOTO PERSONAL

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『世界史の哲学講義 ベルリン 1822/23年』

「この復元には、従来のヘーゲル『歴史哲学』を覆すインパクトがある」(現代ビジネス)
 → https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58161

「歴史哲学」への毀誉褒貶
ヘーゲルのいわゆる「歴史哲学」は、これまで一般にどのようにイメージされてきただろうか。

ヘーゲル哲学への分かりやすい入門書とされる反面で、アジアを低く見るヨーロッパ中心主義の歴史観とか、理性法則に基づいた楽天的な進歩史観として揶揄されるというように、毀誉褒貶の相反する評価が入り乱れてきた。

『歴史哲学』の分かりやすさは、『精神現象学』や『論理学』のようなヘーゲル自身による著作ではなく、複数の聴講者による講義筆記録をもとに編集されたテキストという性格にある。

これまで一般に使用されてきた旧版テキストは、彼の死後、ヘーゲル全集の中の1巻として講義筆記録をもとに編集されたものである。

実はこの編集が曲者で、E・ガンスの責任編集による『歴史哲学』第1版(1837年)は、10年弱の間に隔年で5回講義されたうちの最終回講義(1830/31年)をベースにしながら、しかし複数の筆記録から講義年度を無視してつぎはぎしたものである。


「東洋世界」は削られていた
『歴史哲学』の分かりやすさは、史実を共有できる講義内容によるだけではなく、大衆向けに分かりやすくするという編集方針にも起因している。

ガンスは第1版の序文で、初回講義(1822/23年)では「序論」と「中国」の章が「くどくど述べられている」ので「編者が適当に手心を加えて」縮めた、と告白している。

こうした編集上の操作によって、当初は本論全体の約半分を占めていた「東洋世界」(中国、インド、ペルシア、エジプト)が3分の1に縮減されてしまった。

ヘーゲルが東洋を軽視しているというヨーロッパ中心主義の通念は、こうした操作によるものでもある。

しかし初回講義の東洋の部分を読んでみると、ヘーゲルは東洋学の最新情報に基づいて生き生きと語っていて、くどい印象などまったく感じられない。

ヘーゲルの息子カールによる第2版(1840年)──従来の邦訳に使用されたテキスト──は、大衆向けに分かりやすくという第1版の編集方針を踏まえる一方で、父親の晩年の講義が「繰り返しのためにその新鮮味を失って」しまったという率直な不満から、初回講義にあった「元の調子を再現すること」を改訂の方針にしたという。

しかしこの第2版が初回講義の肝心な内容をほとんど取り込むことができなかったことは、今回の翻訳『世界史の哲学講義 ベルリン 1822/23』(講談社学術文庫)を通して読み比べてみれば明らかになる。


中国の「最高度の文化」への評価
第2版の「序論」では、世界史を〈東洋では一人が、ギリシア・ローマ世界では何人かが、ゲルマン世界では万人が自由であることを知っている〉とする周知の自由の発展図式が繰り返され、この図式がヨーロッパ中心の進歩史観という通念を流布させてきた。

しかし人数によって単純化された図式は、初回講義の中には見られない。見られるのはむしろ中国の「最高度の文化」への評価であり、ブッダの悟りや差別を破壊するイスラームにおける「自由」の精神への眼差しである。

逆に、万人が宗教的には自由であるはずのドイツについて、自由に程遠い現実を論じざるをえなかったヘーゲルの本音が聞こえてくる。

自由の意識の発展という時間軸と地理的自然という空間軸の統合にこそ、「世界史の哲学」講義の原型があった。

しかし旧版では、初回講義の「序論」の中で論じられていた地理的自然の基本的な位置づけの部分は大幅にカットされ、地理的自然を土台とした多文化主義的な視点が希薄になってしまった。


諸個人の情熱こそが歴史を推進してきた
もう一つ、初回講義に見られないのに通念として流布してきたのは、「理性の狡知」という概念である。

確かに旧版では、理性が世界史を支配し、その手段として人間の情熱が犠牲に供されるという理性中心の図式が目立つ。

しかし初回講義では、むしろ諸個人の情熱こそが歴史を推進してきたという、諸民族や歴史的英雄に寄り添った論述が際立っている

こうした自由の意識の数的な発展図式や理性の上から目線の歴史観が、ヘーゲル自身の経年変化によるものだとしても、初回講義の原型を織り込むことができなかった旧版の編者の責任は重いことになろう。

初回講義が復元された『世界史の哲学講義』には、従来のヘーゲル「歴史哲学」の通念を覆すほどのインパクトがある

それはこれまで一般に通用してきた「歴史哲学」の通説にヘーゲル自身が修正を迫るとともに、世界史の転換期を迎えつつある現代に新たな視点を提供するものでもあると思われる。