NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

中也忌

思へば遠く来たもんだ

十二の冬のあの夕べ

港の空に鳴り響いた

汽笛の湯気(ゆげ)は今いづこ


雲の間に月はゐて

それな汽笛を耳にすると

竦然(しようぜん)として身をすくめ

月はその時空にゐた


それから何年経つたことか

汽笛の湯気を茫然と

眼で追ひかなしくなつてゐた

あの頃の俺はいまいづこ


今では女房子供持ち

思へば遠く来たもんだ

此の先まだまだ何時までか

生きてゆくのであらうけど


生きてゆくのであらうけど

遠く経て来た日や夜よるの

あんまりこんなにこひしゆては

なんだか自信が持てないよ


さりとて生きてゆく限り

結局我がン張る僕の性質さが

と思へばなんだか我ながら

いたはしいよなものですよ


考へてみればそれはまあ

結局我ン張るのだとして

昔恋しい時もあり そして

どうにかやつてはゆくのでせう


考へてみれば簡単だ

畢竟ひつきやう意志の問題だ

なんとかやるより仕方もない

やりさへすればよいのだと


思ふけれどもそれもそれ

十二の冬のあの夕べ

港の空に鳴り響いた

汽笛の湯気や今いづこ

── 中原中也(『在りし日の歌』)

昭和12年(1937年)10月22日 中原中也 没


中原中也記念館』 http://www.chuyakan.jp/


中原中也詩集 (新潮文庫)

中原中也詩集 (新潮文庫)

 中原中也は、十七の娘が好きであつたが、娘の方は私が好きであつたから中也はかねて恨みを結んでゐて、ある晩のこと、彼は隣席の私に向つて、やいヘゲモニー、と叫んで立上つて、突然殴りかゝつたけれども、四尺七寸ぐらゐの小男で私が大男だから怖れて近づかず、一米(メートル)ぐらゐ離れたところで盛にフットワークよろしく左右のストレートをくりだし、時にスウヰングやアッパーカットを閃かしてゐる。私が大笑ひしたのは申すまでもない。五分ぐらゐ一人で格闘して中也は狐につまゝれたやうに椅子に腰かける。どうだ、一緒に飲まないか、こつちへ来ないか、私が誘ふと、貴様はドイツのヘゲモニーだ、貴様は偉え、と言ひながら割りこんできて、それから繁々往来する親友になつたが、その後は十七の娘については彼はもう一切われ関せずといふ顔をした。それほど惚れてはゐなかつたので、ほんとは私と友達になりたがつてゐたのだ。

── 坂口安吾(『酒のあとさき』)