触れもせで
もし、あなたのまわりに、長いこと親しくしているくせに、指一本触ったことがない人がいたら、その人を大切にしなさい。
昭和56年(1981)8月22日 向田邦子 没
希代の名コラムニスト、評して曰く、
向田邦子は突然あらわれてほとんど名人である
── 山本夏彦(『何用あって月世界へ』)
以下、『父の詫び状』より。
昭和の温かさを感じる文体が懐かしい。
「おとうさん。お客さまは何人ですか」
いきなり「ばか」とどなられた。
「お前は何のために靴を揃えているんだ。片足のお客さまがいると思ってるのか」
靴を数えれば客の人数は判るではないか。当たり前のことを聞くなというのである。
── 『父の詫び状』
子供にとって、夜の廊下は暗くて気味が悪い。ご不浄はもっとこわいのだが、母の鉛筆をけずる音を聞くと、なぜかほっとするような気持ちになった。安心してご不浄へゆき、また帰りにちょっと母の姿をのぞいて布団へもぐり込み夢の続きを見られたのである。
── 『子供たちの夜』
思い出というのはねずみ花火のようなもので、いったん火をつけると、不意に足許で小さく火を吹き上げ、思いもよらないところへ飛んでいって爆(は)ぜ、人をびっくりさせる。
── 『ねずみ花火』
カステラの端の少し固くなったところ、特に下の焦茶色になって紙にくっついている部分をおいしいと思う。雑なはがし方をして、この部分を残す人がいると、権利を分けて貰って、丁寧にはがして食べた。
── 『海苔巻の端っこ』
私は子供のくせに癇が強くて、飴玉をおしまいまでゆっくりなめることの出来ない性分であった。途中でガリガリ噛んでしまうのである。変わり玉などは、しゃぶりながら、どこでどう模様が変わるのかきになってたまらず、鏡を見ながらなめた覚えがある。
── 『お八つの時間』
思い出はあまりムキになって確かめないほうがいい。何十年もかかって、懐かしさと期待で大きくふくらませた風船を、自分の手でパチンと割ってしまうのは勿体ないのではないか。
── 『昔カレー』
『向田邦子』(Wikipedia) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%91%E7%94%B0%E9%82%A6%E5%AD%90
『向田邦子文庫』(実践女子大学図書館) http://www.jissen.ac.jp/library/mukoda/
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だいたい、私たちが死んだ人についていろいろに拘(こだわ)るほどに、死んだ人というものは、私たちについてたいした思いを持っていないものだ。ただ微笑(わら)っているだけなのだ。
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