NAKAMOTO PERSONAL

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「現代こそ死者との絆は強い」

「『現代こそ死者との絆は強い』宗教学者が語る日本人の死生観」(AERA dot.)
 → https://dot.asahi.com/aera/2018081600015.html

 日本人の「墓離れ」の背景には、江戸時代にできた檀家(だんか)制度の弱体化があると言われる。時代と共に変わってきた私たちの宗教観や死生観は、お墓のあり方と無関係ではない。庶民とお寺との関係、「死」に対する意識はどのように変わってきたのか。『日本人の死生観を読む』(朝日新聞出版)の著書もある宗教学者島薗進さんに聞いた。

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 民衆の祖先崇拝文化を仏教が取り込んで、今のような葬祭仏教を形成してきた日本の歴史は、世界でも特殊なケースです。

 今のような檀家制度の基盤は、15世紀から17世紀に生まれたと言われます。国土の津々浦々に仏教寺院が点在するという形態は世界的にも珍しく、一族、地域と結びつく形で、檀信徒関係が形成されてきた。それが江戸時代にキリシタン弾圧と結びつけられる形で、幕府によって檀家制度が作られ、お寺と檀家の関係が非常に強化されました。お寺が宗旨人別帳など戸籍台帳のようなものを管理するようになり、市民がお寺で葬式をすることが標準化しました。

 ただ、檀信徒関係が成立した後も、しばらくは葬式や墓の単位は「村」や「同族」であり、地域の家々が集まってお墓を作っていた。それが檀家制度が浸透していくなかで、お寺の中にお墓が作られるようになり、次第に「家単位」のお墓となります。それが標準化するのはもっと新しく、広まったのは明治時代になってからです。

 檀信徒関係の成立が17世紀だとして、葬祭仏教の歴史は300年近く続いてきました。遺骨、位牌(いはい)、仏壇など「モノ」を通して死者とつながるという文化は日本人の心に深く根を張り、だからこそ、お墓も世代を超えて死者を祭る重要なアイテムとして機能してきたのです。それが、1980年代後半から90年代に入ると揺らいできます。自然葬という新しい葬法が提案されたり、戒名にお金を払うことへの疑問が出てきたりと、葬祭仏教への問題意識が表出し始めます。

 この時期は、いかに死ぬかというテーマを扱った「死」に関する書籍も多く出版されました。ベストセラーとなった永六輔さんの『大往生』が発売されたのも、94年です。人それぞれが死について考え、自分なりの「死に方」を作っていくという方向へ社会が変化していった。民俗学者柳田国男が日本人共通のものと見ていた死生観が過去のものとなり、作家の柳田邦男さんのいう「手作りの死生観」が求められます。

 長寿社会となり、時間とお金、知識がある高齢者は「死」について自分なりの考えを持つようになる。その一方で、地方では寺院の維持が困難になり、葬祭仏教の基盤が弱体化してくる。自分の死に方にさまざまな選択肢を持とうとする市民と、危機感を強くする仏教界により、葬送の形式が多様化していくことは間違いないでしょう。しかし、300年以上かけて形成された檀信徒関係や「家」を中心とした墓の所有意識は、今後も主流派であり続けると思います。さらに言えば、「死者との絆」という点においては、地域社会が弱くなった現代こそ、逆に強くなってきている側面もあります。

 2006年、秋川雅史さんの「千の風になって」という曲が大ヒットしました。歌詞には「私のお墓の前で泣かないでください そこに私はいません」というフレーズもあり、日本人の死生観の変化も指摘されました。この歌詞が共感を呼んだとすれば、特定の場所に行って弔うという風習は弱まったけれど、いつでも、どこにいても故人を思い続けるという意識への変化が背景にある。お彼岸の時期にお墓にお参りをして済ますのではなく、時と場所を選ばずに故人を弔う気持ちを持ち続けるというのは、死者との絆を強く意識し続けることになります。

 地域の共同体が弱体化した今、自分にとって「大事な人」は親と子と配偶者だけと、とても少数になっています。少数ゆえに、一つ一つの「死」は重くなり、死者との絆も強いものになっていきます。私たちは、その少数の、重いつながりをどうやって維持して、慰めを生み出していくのか。それが問われる時代になっています。過去の日本人がどのような死生観を持ち、今の時代へとつながっているかを知ることは、その第一歩になるはずです。

日本人の死生観を読む 明治武士道から「おくりびと」へ (朝日選書)

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