NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

あの戦争の呼び名が、いつ「太平洋戦争」になったか...

「あの戦争の呼び名が、いつ『太平洋戦争』になったか知っていますか 実は、意図的な『転換』が行われていた」(現代ビジネス)
 → https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57034

先の戦争、どの名前で呼ぶべきか
先の戦争に関する呼称は、いつも揺らいでいる。
「先の戦争」とは昭和12年からの中華民国との戦争状態から、昭和16年アメリカ・イギリス領への奇襲攻撃と宣戦布告を経て、昭和20年にほぼ国土壊滅状態で終わった戦争のことを指している。

大きく「第二次世界大戦」と指しておけば間違いはないのだが、その場合、ヒットラーが引き起こした欧州での大戦もふくまれてしまい、示す範囲がやや広すぎる。

私たちの世代が昭和40年代に学校で習った用語では「太平洋戦争」であった。

学校でそう習った。また、新聞やらニュースでもその名前で呼ばれている。だから、そのまま何の疑問もなく使っていた。

ただ、文章を書くようになり、また、過去のいろんなものを調べるようになると、太平洋戦争という言葉には少しずれを感じるようになった。

うまくあの戦争を言い表していない。

ひとつは、その用語の示すエリアについて、であり、もうひとつはその用語が使われ始めた時期について、ずれを感じる。

エリアについていえば、かの戦争は太平洋エリアでだけ戦争を行っていたわけではない。

真珠湾と同時にマレー半島も進攻しており、東南アジアでの戦いは「太平洋での戦争」とは言えない(ビルマなどまったく太平洋に面していない)。また中国大陸での戦闘も継続しており、こちらもあまり太平洋ではない。「日本の生命線」とも呼ばれた満州は、ほぼ太平洋に面していない。

「太平洋での戦闘」はつまり「太平洋戦争の一部」でしかない。

太平洋での戦闘は、おもにアメリカとの戦闘である。

アメリカ軍から見た名称としては「太平洋戦争」が適当だったのだろう。

昭和16年の開戦当時、日本政府は「大東亜戦争」と名付けている。

東亜とは東アジアのことだから、「東アジア戦争」という意味になる。こちらの言葉のほうが、日本の戦闘エリアを正しく示している。わかりやすい。

ただ「東亜」という名称が「大東亜共栄圏」という言葉と関連づけられると、とたんにきな臭くなる。「大東亜戦争」という言葉が忌避されていくのは、その問題と関係がある。


当時は誰も「太平洋戦争」と呼んでいなかった
大東亜共栄圏」は、アジア諸国を、ヨーロッパ列強による植民地支配から解放し、アジアだけでのブロックとして自立しようという壮大な思想である。理念そのものは、そんなに悪いものではない。

ただ結果的には、提唱主体である日本だけが一方的に利益を得る展開をみせた。日本以外のアジア諸国からは、口では立派な思想を説きながら、その実態は日本自体が欧米列強になりかわって植民地化支配を目指してるよう見なされたし、そうおもわれてもしかたがない部分があった。

大東亜共栄圏」思想は、勇ましく、そして理想的である。その理想的なアジア社会を目指すというお題目を連想させる「大東亜戦争」という呼称は、欧米側からは認めがたかったようだ。それは僭称である、という指摘だろう。

占領軍がその言葉を使わないように指示して、「太平洋戦争」と言い換えられた。無条件で降伏しているのだから、日本は何も言えない。

エリア名として名付けるのなら、「東亜細亜および太平洋の戦争」というあたりが正確な戦争名称ではないか。

また、歴史的な呼称を絶やさないという意味では、「開戦時には大東亜戦争と呼ばれ、敗戦後に太平洋戦争と呼ばれた戦争」というのが正確だろう。文字数に余裕があるときは、私はなるべくそう書くようにしたい。

太平洋戦争という呼び名への違和感は、「戦争が進行中のときには誰もそう呼んでない」というところにもある。

戦場で散った「英霊」も、本土空襲で殺された一般人も、戦争で死んだ人たちは誰もあの戦争を「太平洋戦争」とは呼んでいない。戦争で死んだ人たちみんなにとって「大東亜戦争」であった。もし、お盆の季節に、彼らの御霊に直接話しかけるのだとすると「太平洋戦争」と言ったのでは通じなくなってしまう。それは何だか申し訳ない。

変な理屈だが、そういう感覚がある。

だからといって、大東亜戦争と呼ばなくてはならないともおもえない。それはそれでいろんな悪を呼び起こしそうだからだ。

まだ歴史となるには生々しいというところだろう。歴史をどの視点から見るかによって名称も変わるし、その視点がいまのところ定まっていないのだ。感情的にしか語れない人がたくさん残っている。

たとえば、関ヶ原石田三成について辛辣に批判しても、感情的に怒ってくる人は少ないとおもうが、そのあたりまで落ち着かないと、いろいろとむずかしいということである。

やはり「開戦時には大東亜、負けてからは太平洋」戦争と書いていくしかないような気がしている。

戦争を誰のために語るのか、という問題でもある。


戦後も続いた「大東亜戦争」の呼び名
では、太平洋戦争という言葉はいつから使われているのか。

少し当時の新聞を見てみる。

昭和20年の新聞は薄い。1枚きりである。裏表があるだけ。だから縮刷版を読むのも早い。

昭和20年8月15日、戦争が終わった日の紙面は「戦争終結の大詔渙発さる」との大見出しで、本文は「大東亜戦争は遂にその目的を達し得ずして終結するのやむなきにいたつた」と始まっている。終結する戦争は「大東亜戦争」である。

ふと、いまさらながら、なぜ8月15日の正午にラジオで放送された「戦争終結の大詔」が同日付の新聞に全文が載っているのが、不思議におもったが、どうやらラジオ放送のあとにこの新聞が配達されたらしい。記事そのものは放送前に書かれていたようだ。

戦争が終わると、鈴木貫太郎内閣が総辞職し、阿南陸相が自刃し、東久邇宮殿下が組閣の大命を拝している。なんというか、さほど切羽詰まった感じがない。近衛文麿が副総理格として入閣し、国民に期待されている。

いまと同じく階段に閣僚が並び、写真が撮られている。近衛文麿は、長身で容貌端正で、目立っている。何だかいろんなところに奇妙な気配が漂っている。誰もまだ状況をうまく把握できてなかったのだろう。

そのあとも、戦争名は「大東亜戦争」で記され続ける。政府が定めた正式名称なのだから、誰でもそう呼ぶ。

9月2日に降伏文書に調印し、占領軍が進駐したあとも、ずっと「大東亜戦争」と表記され、それ以外はない。

たとえば9月5日の東久邇首相の施政方針演説では「米英ソ支四国の共同宣言を受諾し、大東亜戦争は」という文言から始まった。

また「支那事変以来、大東亜戦争終結にいたる間」という言葉が再々使われている。

9月7日にはその8年間の食糧事情について報道があり、また9月22日にはその期間の戦争責任について、社説で触れている。「支那事変以来、大東亜戦争終結にいたる間」(1937年7月から1945年8月)」を特別視していた空気が強くある。

秋の彼岸には、「大東亜戦争中に散華した英霊」について何度か書かれている。
また陸軍の賜金について「支那事変関係」「大東亜戦争関係」と分けて公示され、敗戦後でも支給されると記事がある。支那事変・大東亜戦争という名称が昭和20年9月時点でも公的機関の正式名称だったことがわかる。


「太平洋戦争」が生まれた瞬間
その後、アメリカ人記者たちが、日本の要人へのインタビュー記事をいくつか書き、それが新聞に載る。そこでは「大東亜戦争」ではない表記が出てくる。 

まず10月24日付け紙面、宇垣一成大将のインタビューをAP記者が行っている。宇垣一成は「支那事変および大東亜戦争を通じて終始『反戦の態度を崩さなかった要人』」と紹介されている。

質疑と応答が分けられた記事である。記者は「では日米戦争は何が不可避の要素となったのですか」と聞いている。たしかにアメリカ人記者は「大東亜戦争」とは言わないだろう。宇垣大将の言葉ではないが「日米戦争」の文字が記事に出ている。

その3日後、27日紙面に、これもAP通信の記者が永野修身元帥に真珠湾攻撃についてインタビューしている。

そこには、永野元帥の「太平洋戦の根本原因は支那の事態に存した」とのコメントがある。

「太平洋戦」という言葉は、管見の限り(字が細かくてまさに管見なのだが)、これが初出である(朝日新聞にかぎる)。ただ、この記事は質問と回答という形式ではないため、おそらく記者が「太平洋戦の根本原因は何だとお考えですか」と聞き、永野元帥が答えたものを、記者が勝手にくっつけた可能性が高い。

永野元帥が、この時点で「太平洋戦」と言ったというのはにわかには信じがたい。大東亜戦争開戦時の責任者の一人が、敗戦2ヶ月で太平洋戦とは言い換えないだろう、という推察である。

10月31日には、平沼騏一郎元首相へのAP記者(ラツセル・ブラウン氏)のインタビュー記事がある。平沼男爵のコメントは「しかし当時三国同盟が太平洋戦争にまで発展するとは思はなかつた」で締めくくられている。

これまた、すでに八十近かった平沼氏が太平洋戦争という言葉を使ったというのは、やはり考えにくい。インタビュー記事は、発言者の言葉を正確には反映しないものだから、これは記者の言葉だと私は推察する。

実際にこの時期はまだ「大東亜戦争」の言葉がよく出ている。

たとえば10月26日の近衛文麿の栄誉拝辞の記事には「大東亜戦争勃発に至るまでの政治的責任」とあるし、11月7日は、朝日新聞が雄々しく「宣言」を出して、我が社も戦争責任を取るという内容が勇ましく書いてあるが(この勇ましさがすでに胡散臭くて申し訳ないが笑えてくる)、それは「支那事変勃発以来、大東亜戦争終結にいたるまで」と雄々しく始められている。

11月25日の日本教員組合の記事や、11月28日の斎藤隆夫議員の発言でも「支那事変、大東亜戦争」と表記されている。


日本人の意識を作り上げた呼び名
明確な言い換えが始まるのは、昭和20年12月に入ってからである。

12月7日紙面には、近衛文麿公爵、木戸幸一侯爵ら、戦争犯罪容疑で逮捕命令が下るとの記事が衝撃をもって報じられている。そこで近衛文麿について「所謂「日支事変」当時の首相であり、太平洋戦争直前において第三次近衛内閣の陸相たりし東条英機大将に道を譲った」と紹介されている。

支那事変ではなく日支事変、大東亜戦争ではなく太平洋戦争へと言い換えられている。

きわめて意図的である。

そして、ここが明確な転換点だとおもう。

昭和20年12月から、天皇周辺の要人も戦犯として逮捕されるようになり、支那事変・大東亜戦争という用語が使われなくなったのだ。

12月8日の紙面は3面と4面をぶち抜き(このために増ページされたものだとおもわれる)、2面全面を使っての「太平洋戦争史」記事が載る。これは連載記事となり、12月17日まで続いている。

「太平洋戦争」という文字が大きく出るのはこの12月8日紙面からである。

「米国司令部当局」が日本国民に戦争の真実を知らせると意図のもとに書いたと最初にそう明記されている。つまり「太平洋戦争」という呼称は占領軍が指定したものだということがわかる。

昭和6年奉天事件から記事は始まり、戦争へ突入した背景を説く。それまで報道規制によって戦争の全体像を把握しにくかった日本国民に向けて、この戦争がなぜいけなかったのかについて説明している。

まだまだ戦争推進した勢力が強い国内において、この戦争は明確に間違っていた、ということを示した記事である。これから軍事裁判が始まるため、戦争指導者の罪をあきらかにしておこう、という意図もあるのだろう。

だから日本の戦争指導者が使っていた「大東亜戦争」という言葉を廃し、「太平洋戦争」という耳慣れない言葉に換えた。

これによって日本人にとっての「自分たちが経験した大東亜戦争」と「敗戦してから反省する太平洋戦争」は分離されることになった。「大東亜戦争」は、戦争指導者とともにあちら側に送られ、ふつうの日本人にとっては「自分たちの意図したものではなかった太平洋戦争」があらたに示され、その理念を自分たちのものとして共有することになった。

大東亜戦争」は、最初は雄々しく勝ち続け、日本の占領地も広まり、威勢のいい始まりだったが、途中からよくわからない展開となり、最後は惨憺たる状況で負けた戦争であり、「太平洋戦争」というのは、アメリカから見えていた「負けるとわかってるのにつっかけてきた愚かな戦争」という全体像として提供されたのだ。

このふたつの意識は、みごとに分断された。日本人としては助かった気分だったはずだ。

戦時中の日本人の戦争観と、敗戦のあとの日本人の戦争観をよりきちんと分断するためにアメリカ軍占領司令部は、言い換えを強要したのだとおもう。

それは戦争が終わって、4ヶ月め、4年前の「開戦記念日12月8日」から始まった。それはその後、長く続くことになる。

これはいいとか悪いとか、判断できることではない。こちらは戦争を仕掛けて、負けたのだ。どうしようもない。是非に及ばず、としか言いようがない。

やはり、もう少し時間がたってきちんと冷静に歴史的に見直されるまでは、「開戦時には大東亜戦争、敗戦して太平洋戦争と呼ばれた戦争」と呼ぶしかないようにおもわれる。また、そう呼ばない場合も、そういう変化を意識はしておいたほうがいいと私はおもう。とても面倒な作業である。でも七十年を越えてそういう面倒を抱えさせるような戦争だったということなのだ。