NAKAMOTO PERSONAL

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小中学校での「教科化」が目指すべき真の目的

「道徳教育が必要なのは『ゲスの極み』な大人だ」(東洋経済オンライン)
 → https://toyokeizai.net/articles/-/230922

今年4月から、小学校の「道徳」が「特別の教科」に格上げされた(中学校は2019年4月から)。これに伴い、道徳も「評価」の対象となった。
では、そもそも私たちにとって「道徳」とは何だろうか。この問いに答えられる親や教師、「大人」はいるのか。ほんとうに「道徳教育」を必要としているのは誰なのか。新刊『大人の道徳』を上梓した気鋭の若手教育学者が、大人たちが最低限知っておくべき前提から問い直す。

「サムライ」戦士たちの「清々しさ」
 サッカーワールドカップロシア大会が7月18日閉幕しました。日本代表チーム「サムライブルー」の戦士たちの、じつに「きよきよしい」……いや、「すがすがしい」活躍は、まだ記憶に新しいところでしょう。

 たしかに、大会途中には、「サムライブルーはサムライではない」といった、厳しい批判を浴びたこともありました。言うまでもなく、あのポーランド戦終盤の「ボール回し」戦術です。

 それについては、いまでも賛否の分かれるところではあるでしょう。私自身も、全面的に肯定とも否定ともいえない、微妙な思いが残ります。

 しかし、1つ考えてみてください。

 もし、同じ状況で、同じ戦術を、フランスやベルギーといったヨーロッパのチームがとったとしたら、それでも今回と同じようなバッシングが巻き起こったでしょうか。

 たしかに、批判が出たことは出たでしょう。けれども、おそらく私たちは、「やっぱりヨーロッパは合理主義だなぁ」と、諦めて納得するしかなかったのではないでしょうか。少なくとも、日本代表が国内外から受けたような「汚い」「醜い」「それでもサムライか」などといった激しいバッシングにまでは、ならなかったのではないかと思われます。

 つまり、あの「ボール回し」が激しい批判を浴びたのは、いやしくも「サムライ」を名乗る「日本」の代表チームであるからには、正々堂々、潔く、清々しい戦いぶりをみせてほしいという、期待や願望の裏返しでもあったわけです。しかも、その期待や願望を、日本人のみならず、世界の人びともまた、共有していたのです。

 だから、その後、力の限り正々堂々と戦ったベルギー戦での戦いぶりや、何より、それに敗れた後、ロッカールームをみずから清掃し、「スパシーバ(ありがとう)」と書き残して去っていった、あの潔く美しい去り方が、やはり国内外からの激賞を受けたことは、じつは「ボール回し」が酷評を受けたことと、表裏の関係にあるわけです。「それでもサムライか」という侮蔑を受けた日本代表は、「やっぱりサムライブルーはサムライだった」という尊敬を得て、「サムライ」にとって何よりも大事な、「名誉」を回復したのです。


若き「サムライ」とゲスの極みな「大人」
 ところで、「サムライ」と聞いて、私が思い出すのは、同じスポーツ界で、少し前に起こった一大事件、すなわち日大アメフト部の悪質タックル問題です。

 ワールドカップの熱狂にかき消されて、もはや「そういえば、そんなこともあったな」という過去の出来事になろうとしていますが、これはいろいろな意味で、現代の、そして将来の日本を考えさせてくれる、たいへん示唆深い出来事であったように、私には思われます。

 この事件でも、「顔を出さずして何が謝罪か」といって、メディアの前に堂々と顔を出し、実名まで公にして、正直な言葉と誠実な態度で、心を尽して謝罪した、加害選手の潔く清々しい姿が話題になりました。

 いや、より正確にいえば、嘘とデタラメを並べ立て、本来守るべき学生にむしろ罪をなすりつけ、なんとしてでも地位を保って利権にしがみつこうとする、あのあまりにも醜く恥知らずな監督(当時)の姿と、一度はその監督の権力に屈したものの、あくまでもみずからの良心に従って行動し、潔く謝罪した加害選手の姿との、あまりのコントラストに、日本国民は、ほとんど唖然とするほかなかったのです。

 私が印象的だったのは、テレビの街頭インタビューなどで(もちろん、それは意図的に編集されたものではあるのでしょうが、そうであるとしても)、世代を問わず、多くの人が、加害選手に対して、「潔くて立派だ」「正直でいい」「誠実な態度でよかった」等々といった、圧倒的な好感のコメントを寄せていたことでした。

 それのどこが印象的なのかといえば、まさにこれらの「潔さ」「正直さ」「誠実さ」という観念こそは、いわゆる伝統的な「武士道」という思想において、最も核心的な価値とされてきたものであり、また、したがって、近代になってからは、「日本人」が最も大事にすべきとされてきた、道徳的価値にほかならないからです。

 これだけ、カネがすべて、利益がすべて、経済がすべてという世の中にあって、それとはほとんど正反対ともいえる「サムライ」の道徳が、まだ日本の庶民たちのなかに生き続けていたのだということに、私はむしろ、新鮮な驚きを感じました。

 しかも、その「サムライ」の道徳を見事に体現してみせたのは、「道徳意識が低下している」などと言われて久しい「若者」だったのです。そして、むしろ、「最近の若者には道徳教育が必要だ」などと言っている「大人」の「教育者」のほうが、カネと利益のためなら恥も名誉も知ったことかという「ゲス」さ加減を、これまた見事なまでに、体現してみせたのです。


道徳を知らない「大人」たち
 さて、かねて報道され、賛否が飛び交っているとおり、2018年4月から、小学校の「道徳」が「特別の教科」に格上げされました(中学校は2019年4月から)。子どもや若者たちの道徳意識が低下しているのは、学校がきちんと道徳教育をしていないからだ。だから、たんなる教科外活動としての「道徳の時間」ではなく、「道徳科」という「教科」として、教科書を使ってきちんと授業をして、子どもたちの道徳性を「評価」せよ、というわけです。

 しかし、いったい、ほんとうに「道徳教育」を必要としているのは、誰なのでしょうか。

 今回のワールドカップの日本代表は、ベテラン選手が中心で、一部では「おっさんジャパン」などとも揶揄されましたが、スポーツ選手としてはともかく、社会的には、30代はまだじゅうぶん「若い世代」です。ましてや、日大の加害選手にいたっては、まだ学生でした。

 10代の学生や、20代、30代の若いスポーツ選手たちが、見事に「サムライ」らしい道徳を発揮したのです。そして、それに対して、日本の圧倒的多数の庶民たちが、共感と称賛を寄せました。

 他方、何万人という前途ある若者たちを預かり、彼らを「教育」すべき立場にある「大人」のほうは、「サムライ」らしい道徳のカケラもなく、むしろその若者たちを、おのれの利益のための「手段(道具)」にさえしていたのです。

 しかも、その日大アメフト部監督の姿は、ある人物を、まざまざと連想させるものでさえありました。

 言うまでもなく、わが日本国民を「代表」する内閣総理大臣安倍晋三氏その人です。

 当時、「内田正人と安倍晋三は瓜二つじゃないか!」というコメントが、ネット上にあふれかえりました。まさにそのとおりです。

 潔さも正直さも誠実さもなく、厚顔無恥で、保身のためには、あからさまな嘘をひたすら並べ立てて、はばからないところ。本来、政治や教育の「目的」であるはずの国民や学生を、私的な利益のための「手段(道具)」に貶めて、平然としているところ。これらの点において、まさに両者はまったく瓜二つです。

 ところが、です。ほかならぬその安倍首相こそ、2006年の第一次政権以来、「最近の若者には道徳教育が必要だ!」と声高に訴え続け、教育基本法の改正や「道徳」の教科化を断行した、張本人なのです。

 こうなると、この主客転倒ぶりは、ほとんどグロテスクであるとさえ、言わなければならないでしょう。ともすれば、自身の道徳性のあまりの欠如に対する心理的な不安から、それを「国民」や「若者」に投影しようとする、病的なメカニズムがはたらいているのではないかと、疑いたくなるほどではないでしょうか。

 誤解のないように断っておきますが、私自身は、「道徳教育」は必要であると考えています。「道徳教育」は、「学校」という近代の公教育制度が担うべき、本質的な役割の1つです。だから、「道徳は個人の内面の問題だ。教育がそこに介入してはならない」などといった、戦後日本のステレオタイプな道徳教育批判に与するつもりは、まったくありません。「道徳」の教科化にも、原理的には賛成です。

 けれども、むしろそういう思想的立場からみて、安倍政権による道徳教育政策は、まったくナンセンスで、首をひねるどころか、頭を抱えざるをえないものなのです。


福沢諭吉中江兆民幸徳秋水の「武士道」と「道徳」
 では、いま本当に必要な「道徳教育」とは、どのようなものなのでしょうか。

 それは、若者や子どもに、「道徳心」を植えつけることではありません。「道徳心」が低下しているから、それを植えつけるべきだという話ではないのです。

 サッカーワールドカップや、日大タックル問題が示しているのは、「最近の若者」は、じゅうぶん道徳的だということです(ワールドカップでは、サポーターが会場のゴミ拾いをしていたというではありませんか)。そして、それを道徳的だと評価できる大多数の国民も、やはりじゅうぶん道徳的なのです。彼らはみな、「サムライ」の何たるかを、いわば肌感覚として、知っています。つまり、「サムライ」の道徳は、日本国民のなかに、暗黙の規律、いわば「心の習慣」として、いまなお、生き続けているのです。

 大事なことは、その暗黙の規律として、日本国民のなかに生きている道徳心に、言葉と論理を与えることです。そして、それによって、いわば無自覚に抱いている道徳心を意識化し、みずからのものとして、自覚的に追求することができるようになるということです。それが、ほんとうに必要な、日本人の道徳教育であると、私は考えます。

 というのは、じつはそれは、かつて明治において、「近代日本」の建設に立ち会った人びとが、理想としてめざしていたことでもあったのです。『武士道』で有名な新渡戸稲造だけでありません。福沢諭吉中江兆民など、立場は異なれど、それぞれに日本の近代化のために尽くした人びとは、みな一様に、日本が近代化をめざす真の目的は、日本人の道徳的な向上にこそあり、それはすなわち、日本人が「サムライ」になるということである、と考えていました。

 福沢諭吉は、近代の日本人が何よりも大切にしなければならないのは、「富」を失っても「名」を貶めてはならぬとする、「やせ我慢」の「士風」であると力説しました。中江兆民は、西洋近代社会でいう「市民」とは、日本でいう「士」であると言いました。つまり、民主主義とは、国民全員が「士」すなわち「サムライ」になることだと、彼は考えたのです。さらに意外に思われるかもしれませんが、兆民の弟子で社会主義者となった幸徳秋水は、国民全員が「武士道」という道徳的理想を実現することこそが、社会主義のほんとうの目的なのだと訴えました。

 これが、彼らにとっての「近代日本」だったのです。


自然な欲望の追求は「奴隷」の道徳
 そして、彼らが最も恐れたのは、カネがすべて、利益がすべて、生産性がすべてという価値観に支配され、経済成長こそが国家の至上命題となるような社会でした。それは彼らにとって、人間が「人間」としての名誉と誇りをかなぐり捨て、みずから「奴隷」となることに満足を見いだすような社会だったのです。

 なぜなら、「奴隷」とは、自分で自分を支配し、独立するのではなく、自分以外の何ものかに服従し、支配される存在であるからです。おのれの利益や快楽を求める本能的な欲望に抵抗しようとせず、その支配に、みずからを喜んで委ねる者。強力な権力者が自分(たち)を支配してくれることに、むしろ平和と安楽を見いだし、みずから望んで、その支配に服従しようとする者。それが「奴隷」にほかなりません。

 私たちが、「サムライ」という観念に、まだどこか「人間」としての理想をみているのだとすれば、それは、私たちはけっして、そのような奴隷の生き方も、奴隷の社会も、望んではいないということです。そのことを、私たちはまず、はっきりと自覚する必要があります。

 スポーツ選手だけが、スポーツの世界のなかだけで「サムライ」であっても、意味がありません。国民一人ひとりが、それぞれの現実の生において、「サムライ」の道徳を実現してこそ、はじめて日本人は、奴隷状態を脱却し、人間として、また国民としての、「名誉」を獲得(回復)することができるのです。

 「道徳教育」とは、そのためにこそ、あるものではないのでしょうか。

大人の道徳: 西洋近代思想を問い直す

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