NAKAMOTO PERSONAL

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自分を「超える」思考術

「『なぜ哲学が必要か』という問いに、哲学者はこう答える 自分を『超える』思考術」(現代ビジネス)
 → http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55470

忘れるために学ぶ
哲学は、経験の弾力を拡張し、ときによっては経験の弾力を組み換えてしまうほどの踏み込みを行う試みである。

経験にとってのエクササイズが哲学の課題であり、それによって哲学の知識は内面化され解消される。このとき最も重要な経験の仕方は、哲学の知識を捨てて、忘れることである。

ある意味で、哲学は「忘れるために」学ぶのである。

忘れるときにもっとも多くのことを学ぶことができるのが、哲学である。

知識を獲得することによって経験を蓄積するのではなく、それを捨てることをつうじて多くを学び、経験を陶冶することができる。

哲学の立場や観点を身につけたものは、まさに経験の自在さを失う。

立場や観点やもろもろの知識には、実はこっそりと「自己正当化」が含まれている。多くの人にわずらわしさを感じさせてしまうのは、哲学的な用語や思考回路の晦渋さであるより、そこにこっそりと含まれた自己陶酔と自己正当化であることが多い。

哲学を捨てるというのは、実際に多くの人たちの課題にもなってきた。ヘーゲルの『論理学』(通称『大論理学』)は、存在、無、生成、定在……と概念そのものが生成し、世界の基本的な事柄を網羅できるように描かれている。

先行する概念が否定され、次の概念に内的に組み込まれて、概念は次々と内容を組み込むことで高次のものになっていく。

そして最後の段階に至って、この概念の生成史は出発点に戻ることになる。このときそれ以前の生成史とは、まったく別のことが起きてしまう。

個々の内容の区別が解消し、反省そのものも消滅して、経験は透明で、みずからそれとしてあることに戻っていく。

いくつかの理由からこの奇妙な生成は起きるのだが、ここにも忘れることが経験の内面化につながるような、ある種の経験の進行がある。

こうしたことが生成史の最後の段階だけで起きるのではなく、個々の概念の出現の場面でも起きているのだとしたら、知はひとつながりの緊密な体系(システム)とは別の姿になるように思える。


カメは何に勝ったのか
科学哲学者のカール・ポパーは初期の反証主義の段階では、新たで斬新な仮説を創造的に提起するためには、既存の理論仮説を捨てなければならないと考えていた。まさにみずからが作り出した愛すべき仮説であるがゆえに、捨てていくのである。

だが、ここにもどこか作為的な無理がある。

一般的には何か次の着想を得て、はじめて既存のものを捨てることができる。この捨てるさいに、実は多くのことを学んでいるはずである。

すると捨てることが、さらに豊かな経験の前進であるような仕組みがあるに違いない。おのずと捨てるという局面を通過しながら、一歩踏み出し、何か別の場面へと経験が進んでいくことができるような仕組みはありそうである。

哲学は、問いから開始される。

競走の途中で、草むらで眠るウサギの傍らをカメは通り過ぎる。カメはウサギを起こさないで、そのままゴールまで行ってしまう。

走力から見て、このレースでカメの勝ち目は九十九パーセントない。勝ち目のない戦いに颯爽と登場したのがカメである。「何が何でも勝ちたかった」というのは、カメに失礼なほど狭隘な理解である。

勝ち負けとは異なることをカメは実行していたのだろう。だが、結果はカメの勝ちであり、当惑するような勝利である。

こんなふうに経験を動かしていけば、何か別様な経験の場面に進むことができ、そこでは考え方や視野の拡大とは別の形で、経験は弾力を獲得していくことができる。

忘れることは、つらくて嫌な経験を無視することではない。見ないように、考えないようにすることではない。

ひとたび忘れ、想起をつうじて思い起こすことのなかで、同時に実行される経験の内面化には、獲得した知識の忘却が含まれている。

この経験は、たとえば自転車の乗り方のように、当初はさんざん苦労させられるが、ひとたび実行されれば自明化してしまう「手続き的経験」に近い。

こうしたあり方を「先験的忘却」と呼んでおきたい。

これが経験の自在さの場所を作り出す。そうした場所を、一揃い取り揃えようと試みることは、哲学の重要な課題の一つだと考えている。

本書『哲学の練習問題』(講談社学術文庫)は、その実践にほかならない。