NAKAMOTO PERSONAL

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「神秘」が再び蔓延する社会で

麻原彰晃の魂は『転生』して生き残るのか 『神秘』が再び蔓延する社会で 島田裕巳」(現代ビジネス)
 → http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55261

再び露出する「ヨガ」「瞑想」
俳優でお笑いタレントだった片岡鶴太郎氏は、現在では、画家としての方が有名になり、書家としても活動している。その片岡氏の最近の話題として、ヨガに深入りし、それが離婚の原因になったということが報道された。

ヨガには1日4時間をかけ、食事は朝食だけ。その朝食にも2時間を費やす。そんなストイックな生活によって、65キログラムあった体重は43キログラムにまで減っている。ヨガによって変容した肉体も公開しているが、あばら骨も見え、いかに節制をしているかが分かる。

この報道に接して、私が思い出したのは、1987年に、オウム真理教の教祖、麻原彰晃がはじめてテレビ出演したのが、片岡氏の番組だったことである。

オウム真理教のことが広く知られるようになるのは、89年に週刊誌が報道したことによってだから、それを2年も遡ることになる。番組で麻原はヨガの行者として紹介されていた。

その時点で、オウム真理教はまだ犯罪を犯してはいない。

教団の道場で、修行中に暴れ出した信者に水をかけるなどして死にいたらしめるのは1988年のことで、そのことを知り、教団を脱会しようとした信者を殺害したのは89年のことである。坂本堤弁護士一家の殺害も、同じ89年のことだった。

麻原との出会いが、片岡氏にヨガへの関心を生んだ、というわけではない。その頃、台詞覚えの悪かった片岡氏は、先輩の俳優である秋野太作氏にそのことを相談したところ、ヨガを勧められ、それがきっかけになっていたという。秋野氏の方は、その後、1991年に『私、瞑想者です』(太田出版)という本も出版している。


スピリチュアルに染まりやすい世
オウム真理教による地下鉄サリン事件が起こったことで、一時、宗教への反発が強まり、ヨガに対して警戒する人たちも増えた。

だが、それから23年が経ち、オウム真理教とその事件のことが忘れられるようになったなかで、宗教やヨガへの関心が復活し、それと関連するスピリチュアルな現象や運動にも注目が集まっている。

片岡氏は、2016年1月、自らのラジオ番組で、ヨガの実践者である相川圭子氏とも対談を行っている。相川氏は、密閉され、十分な空気のない地下の部屋のなかで、食物や水なしで3日間瞑想を続ける「サマディ」という修行を果たしたとされるが、現在それに成功したのは彼女を含め世界で2人だけだという。

ここで思い出されるのが、オウム真理教でも、同様の試みが行われていたことである。地下鉄サリン事件が起こった直後なら、相川氏のサマディは、オウム真理教を連想させ、警戒の目が寄せられたであろう。しかし、今やスピリチュアルなものをめぐる状勢は大きく変わった。

最近その存在が政治問題化している首相夫人、安倍昭恵氏の場合にも、スピリチュアルな事柄への関心は深い。

彼女は、怪しげな波動理論の共鳴者であるばかりか、大麻解禁を訴えてもいる。それも、スピリチュアリズムと密接に関連し、昭恵氏は、「大麻はただの植物ではなくて、たぶんすごく高いエネルギーを持っていると私は思うんです」と発言したりしている。

時代は確実に戻りつつある。地下鉄サリン事件が起こる前の段階では、インドの宗教家サイババや、個々人の未来、とくに死亡する時が記されているとされる「アガスティアの葉」なるものが、日本でもかなりのブームになった。

経済発展が行き着くところまで行ってしまった、豊かで、その一方で退屈な社会においては、違った世界を見せてくれそうなスピリチュアリズムがどうしても関心を集めてしまうのである。


目前に迫った麻原の死刑執行
スピリチュアルな方向へ日本社会が傾斜していくなかで、麻原をはじめ、数々の犯罪によって死刑判決が確定しているオウム真理教の幹部たちの死刑が執行されるのではないかと言われるようになってきた。

具体的には、3月中旬に、7名の死刑囚が東京拘置所から各地の死刑執行設備のある拘置所に移送されたことがきっかけだった。

法務省は、オウム真理教に関するすべての裁判が終了し、共犯者については分離するのが原則であり、それに従って移送を行ったと説明し、死刑執行との直接の関係は否定した。

しかし、死刑が確定している以上、どこかの時点で執行されるのは当然である。しかも、この事件では29名も死亡しており、社会の関心も強い。

一つ問題になるのが、首謀者とされた麻原の状況である。裁判においては、途中から意味不明な発言をくり返すようになり、最後はまったく沈黙するようになった。面会した家族に対しても、はっきりとした応答はしなくなっていった。

最近伝えられているところによれば、家族が面会に来ても、いっさい反応を示さず、面会は実現していないという。ただ、食事は自分でとるし、運動にも出ている。一日、部屋に坐ったままでいることが多いという。

麻原は、幼い頃から盲学校に通っており、将来において失明する恐れがあると想定されていた。実際、私が1990年暮れに初めて会ったときには、目はまったく見えていないように思えた。

そうした状態にある麻原だが、当局は、死刑執行は可能だという立場をとっているようだ。

となれば、来年には現在の天皇の退位と、新しい天皇の即位があり、再来年には東京オリンピックが控えている。その時期に死刑執行は難しいだろうから、今年の執行が現実味を帯びてくる。


教祖の死は殉教ではなく転生へ
ただ、教祖に対する死刑の執行となると、これは、今まで日本の歴史になかったことで、それがどのような影響を与えるかは未知数である。

しかも、オウム真理教は消滅したわけではなく、アレフや光の輪、さらには2014年頃には金沢にアレフからの分派も生まれている。

こうした集団の信者たちが、教祖の死に対していかなる反応を示すのか。当局が執行の判断を下す上で、この点も考慮されているようだ。

麻原や幹部の死刑が執行されたとき、残存する信者たちは国家権力をよりいっそう憎悪し、復讐するための行動に出るかもしれない。

あるいは、信者たちは麻原を殉教者としてとらえ、それによってよりいっそうの神格化が進むのではないか。そのようにも懸念されている。

しかし、これ以外にも、一つ考慮しなければならないことがある。それは、オウム真理教の宗教としての特質に関係する。

オウム真理教は、修行を重視する宗教団体であり、信者も修行が出来るということに魅力を感じてきた。その際の修行は、すでに述べたようにインドのヨガがもとになっている。

ただ、オウム真理教の場合には、ヨガの修行がチベット密教の教えと結びついているところに特徴がある。この教団は当初、ヨガの道場としてはじまったものの、チベット密教を取り入れることで宗教化していった。

チベット密教の宗教家として世界的に知られているのがダライ・ラマである。ダライ・ラマは、中国共産党によって国を追われたが、もともとはチベットにおける最高の宗教指導者であるとともに、政治的な権力者でもあった。

ダライ・ラマは、仏教の最高指導者である以上、生涯独身を守る。したがって、その地位が世襲によって受け継がれることはない。

ダライ・ラマが亡くなると、その魂は別の肉体に転生したと考えられ、転生した子どもを探すために国中に使者が送られる。使者は、それに該当すると思われる子どもに試験を行い、それによってダライ・ラマの後継者を決定する。

これに従うならば、麻原の死刑が執行された後、その魂は転生していく可能性がある。教団外部の人間には信じられないことだが、信者たちはそう考える可能性が高い。


日本社会は転生を受け入れるか
では、どこに転生するのか。

オウム真理教の信者は修行者であり、出家である。ところが、その上に立つ麻原は在家であり、結婚もし、子どももいる。そのあり方は、現在の日本仏教の僧侶一般と共通する。

これは、チベット仏教からすれば考えられないことだが、麻原の魂は、彼の子ども、とくに長男に転生していく可能性が高い。信者たちも、どうやらそれを期待しているようだ。

麻原は逮捕されて以来、東京拘置所の塀のなかに居て、信者たちは連絡をとることもできない。裁判においてさえ、最後には無言を貫くようになった。

ところが、麻原の魂が、彼の長男に転生すれば、そこに新たな教祖、新たなグルが生まれる。これは、宗教教団にとっては、その活動を活性化させる上で極めて重要である。

しかも、時代の流れは、かなり変化してきている。スピリチュアルなものに対する関心はふたたび高まり、そうした事柄を許容する空気が生まれている。つまり、転生ということを受け入れる状況が生まれているのである。

宗教の興亡は、かなり時間を要する事柄である。イエス・キリストが十字架に架けられて殺されてからキリスト教ローマ帝国の国教となるまでには300年以上の歳月が必要だった。

麻原に対する死刑執行は、オウム真理教が引き起こした事件に対する決着であるとともに、それが新たなはじまりになる可能性、あるいは危険性を秘めている。

現在の残存教団がそのまま拡大し、社会的な影響力を増していくことはないかもしれない。

だが、キリスト教におけるパウロ(生前のイエス・キリストに会ったことはなかったものの、キリスト教の宣教師となった)のような人物が教団の外側に現れたとしたら、事態は変化していくかもしれないのである。


人は永遠に真理を探すが、真理は永遠に実在しない。

 人は永遠に真理を探すが、真理は永遠に実在しない。探されることによつて実在するけれども、実在することによつて実在することのない代物です。真理が地上に実在し、真理が地上に行はれる時には、人間はすでに人間ではないですよ。人間は人間の形をした豚ですよ。真理が人間にエサをやり、人間はそれを食べる単なる豚です。

── 坂口安吾(『余はベンメイす』)


旅人にも曰く、

「だれかを崇拝しすぎると、ほんとうの自由は、得られないんだよ。」

── スナフキン『ムーミン谷の名言集』