知の巨人
この人は本当に才能がある人だと思わせる人はきわめて少ない。時々、ハッとさせるような才能のひらめきを見せる人はいるが、その前後に書かれたものなどを見てみると失望させられることが多い。一時の思いつきなのか、本当の才能なのか、一見して区別することがむずかしい。
しかし、渡部昇一氏の書かれたものを読んでいると、どのページを開いても、才能の水気(すいき)にあてられる感がある。
どこがそうなのか、才能のなのか、いろいろ定義の仕方はあると思うが、私の感じるところを一言で言えば、自由さがあるのである。
自由ということは、先入観のない自分のいちばん正直な感性を出発点にできるということである。それは、自分の感じる所に少しでも違和感がある場合は、他人が何と言おうと、それが戦後社会の掟(おきて)であろうと、けっして妥協しない知的正直さにも通じる。
また、それは「すべて真実に近いものほど独創的である」という意味で、真の才能につながるものである。大宇宙の中に孑然(けつぜん)として独り立てば、頼るものは自分以外にないという禅の境地にも通じるものである。むずかしいことを言ってしまったが、畢竟(ひっきょう)は、他人の口真似でなく自分の頭で考えるということである。
── 岡崎久彦(『賢者は歴史に学ぶ』)
平成29年(2017年)4月17日 渡部昇一 没
我が人生の師。
渡部語録(谷沢永一選)
- 視点を時間と空間のどこにでも据えて、じゅうぶんなる共感をもって見ようとする努力が、文学を学問として行うものの目標であり、また、ある程度までそれができるようになることが、その功徳というべきものであろう。(『教養の伝統について』)
- 非常にわかり易い言い方をすれば、「人間らしい」ということは、本人が望むなら乞食になれるということなのだ。大切にされたり生活を保証されたりすることは、「人間らしい」ことの条件でも何でもなく、それは「家畜らしい」ことの条件であるにすぎない。あるいは「動物園の動物らしい」ことの条件にすぎない。(『文科の時代』)
- 老子の説に深い哲理を見るけれども、もう一つ老子の説で見落としえないのは、それが無責任者の言であるということである。それは政治の要路に立つ人間の生き方ではない。問題をその手で解決しなければならない人は、「柔」だけでやって行くわけにはいかない。剛も武も必要であろう。問題は回避すればよいというわけのものではないからである。それが孔子と老子の差でもある。(『文科の時代』)
- 贅沢品を攻撃したり、政治の腐敗を叫ぶ勢力には気をつけろ、と私の個人的体験と、ささやかな歴史的知識はいつも耳元でささやく。(『腐敗の時代』)
- その本を買うために金が足りなかったら、アルバイトをして金を得て買った方が、図書館から借りるよりは、結局、時間の節約になると思う。(『知的生活の方法』)
- 「正義」という錦の御旗のもとに、どれだけ多くの人が殺され、どれだけ多くのすばらしい文化が破壊されてきたか。一方、「腐敗」とののしられた世にあっては、どれだけ多くの人が平和で愉快な人生を送ったことか。「正義」こそ破壊的暴力思想であり、「腐敗」こそ民主政治が行われている証であるという歴史のパラドクスを、今こそ深く噛みしめたいものである。(『歴史の読み方』)
- 私は、まず自分の祖先を愛する立場、祖先に誇りを持つ立場から日本史を見てみたい。愛と誇りのないところに、どうして自分の主体性を洞察できるだろうか。(『歴史の読み方』)
渡部先生は、その時代を覆っている空気、体制に常に異議を唱え、果敢に挑戦し続けてこられたサムライでした。その時代を覆っている「空気」「体制」と申し上げたのは、人々の反論を許さない不条理な空気であり、それによって支えられている既存の体制ということです。
── 安倍晋三(『保守の神髄として』)