NAKAMOTO PERSONAL

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明治の精神的苛烈さは廃れたか

「【正論】明治の精神的苛烈さは廃れたか 文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/column/news/180406/clm1804060004-n1.html

≪維新150年に欠落した視点≫

 今年は、明治維新150年の記念すべき年である。明治の精神についてさまざまな視点からの振り返りが必要であろう。なぜなら、今日の日本人に欠落しているものの多くがそこにあるからである。

 昭和43年の明治維新100年のときには、産経新聞に明治の青春と日露戦争を描いた司馬遼太郎の『坂の上の雲』が連載され、朝日新聞には幕末維新期を描いた大佛次郎の『天皇の世紀』が連載されていた。雑誌などでも明治維新の精神史的意義をとりあげた特集があり、明治の精神への回顧も深いものがあったように思われる。

 しかし明治150年の今年は、明治に対する振り返りがさまざまに行われているのは事実であるが、それが精神史的な深みを持ったものであるかは疑問である。今日の価値観や常識を突き破ってしまう精神の姿に震撼(しんかん)されることを避け、現在的な視点から分析したり解釈したりしているにすぎないようである。明治維新の激動期に噴出した精神的エネルギーを、今日的な通念が許容する範囲で整理しているだけのような気がする。

 明治維新の精神的苛烈さに、こちらが打ち砕かれてしまうようなとらえ方をしなければ、明治維新から何も学べないのではないか。

 そのようなことになっている原因は、根本的にいえば現代の日本人が明治維新というものをもはや理解できなくなっているのではないか、ということである。例えば、明治維新の精神の典型である吉田松陰について、今日散見される奇妙な解釈を考えるとき、そのような思いを禁じ得ない。


≪今の日本人に松陰が解るか≫

 『天皇の世紀』の中で大佛次郎吉田松陰を見事に描いているが、「大獄」の巻の中で「外国人、つまり昔の夷狄の一人のG・B・サンソム」と書き、そのサンソムの松陰観を「野火」の巻で次のように引用している。サンソムは、英国の外交官で、日本研究家としても知られ、著作に『西欧世界と日本』などがある。

 「日本歴史を書いたG・B・サンソム卿が松陰のことを叙して『吉田寅次郎、彼は当惑させられる性格の持主であった。彼の伝記を粗略に読むと、彼が愚か者で、狂信的で無能であったとの印象を受ける。彼は高邁(こうまい)な理想、雄大な構想、野心的計画で充満していたが、大小を問わず着手したすべてのことに失敗した。それは常識の欠如に基づくといえよう。外国の研究者がなぜ彼があれほどまで同時代人の心に強い影響を及ぼし、また後世の人から法外に賞讃されたかを理解するのは、この点で容易なことではない』としている」

 大佛次郎は、その前で「サンソムが、なぜ松陰が同時代人の心に強い影響力を及ぼしたのか外国の研究者にはほとんど理解しにくいと言ったのは当然なのである」とした上で、「日本人ならばこれが解(わか)るとも最早言いえないのである」と恐るべきことを指摘した。これは、昭和45年頃の執筆である。

 日本人の歴史学者そのものが「サンソム」化していきつつある現在、また「外国人」のような日本人が増えてきつつある今日、ますます松陰の精神について「これが解るとも最早言いえないのである」という事態になっているのではあるまいか。今日世上に見られる松陰についての見当外れの見方は、何か政治的な底意も感じられるが、根本的には、このような無理解が原因のように思われる。


≪歴史と思想の「坩堝」に飛び込め≫

 大佛次郎の『天皇の世紀』を高く評価した小林秀雄が、ちょうど大佛次郎上記のように書いた頃、江藤淳との対談で吉田松陰について語っていた。昭和46年に行われた対談には、昭和45年11月25日の三島由紀夫の自決をめぐって激しいやりとりがある。小林は「三島君の悲劇も日本にしかおきえないものでしょうが、外国人にはなかなかわかりにくい事件でしょう」ととらえている。そして、江藤が三島について「一種の病気でしょう」と言ったことに対し「それなら、吉田松陰は病気か」と激する。「日本的事件という意味では同じだ」と言うのである。

 大佛次郎の記述や三島由紀夫の自決から、あと2年でもう半世紀になる。ちょうど東京オリンピックの開催される年である。吉田松陰の精神史的意義について「日本人ならばこれが解るとは最早言いえないのである」という状況にますますなっていくかもしれない。しかし、吉田松陰が解るということが、日本文明を立たせる柱の一つなのである。

 まずわれわれ現在の日本人は、明治維新の「坩堝(るつぼ)」のような精神の激動を理解することができる精神の勁(つよ)さを失ってしまったのではないかという自省から出発すべきである。外側から眺めているのでは何もつかめないであろう。

 「畏(おそ)れ戦(おのの)きて」明治の精神に対すべきである。そして、その歴史と思想の「坩堝」に飛び込み、忍耐強く潜水して、その底にあるものを掴(つか)み取って浮上しなければならない。それが、日本文明を支える土台を構成するからである。

天皇の世紀〈1〉 (文春文庫)

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新装版 坂の上の雲 (1) (文春文庫)

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