NAKAMOTO PERSONAL

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石田三成はなぜ「忖度」できなかったか

「【本郷和人の日本史ナナメ読み】歴史的人物と性格(上)石田三成はなぜ『忖度』できなかったか」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/life/news/180405/lif1804050012-n1.html

 ぼくは「疑問をもつ」ことを大事にしています。それも、取って付けたような難解な疑問ではありません。みなさんが「言われてみれば、たしかにそれは問題だ。なんでだろう?」と思ってくださるような、ごく自然な疑問です。

 たとえば、「権威と権力」。権威と権力は別物で、日本史の場合は将軍が権力を握っていた。けれども世俗的な力こそ失ったものの、天皇は最高の権威として君臨し続けていた。そんなことを結構多くの研究者がさらっと言う。格別、疑問に思っているふうはない。だけど、とぼくはそこでツッコミたい。それは「言葉の遊び」にすぎないのではないか。力のない権威なんてものが果たしてあり得るのか、と。権威を保持していたのなら、たとえ戦国時代といえど、やはり天皇は何らかの「力」を有していたのではないか。だったらそれは何なのだろう…、というふうにぼくの天皇理解は展開されるわけです。

 さて、そこで本日のテーマ。ぼくがずっと疑問に思っていたこと。それは「なぜ石田三成は忖度(そんたく)をしなかったのか」です。三成は優秀な知能をもっていた人物だった。これはたいていの人が賛同する認識でしょう。だからこそ、豊臣秀吉は、彼を政権の中枢に据えた。その三成が、いわゆる「武断派」の武将、加藤清正福島正則らにものすごく憎まれた。慶長4(1599)年閏(うるう)3月3日、諸将の融和を図っていた前田利家が没すると、武断派は直ちに三成襲撃の挙に出るのです。

 ご存じのように徳川家康が間に入ったので、三成は危機を脱したのですが、五奉行を罷免され、近江・佐和山に隠居することになりました。この事件、普通は朝鮮出兵で辛酸をなめた武断派と、豊臣政権の担い手であった文治派の対立、という図式で説明されます。でも、加藤や福島が狙ったのはあくまでも三成一人。他の五奉行メンバーは関係なし。どう見ても、「三成憎し」が昂(こう)じた激発です。武断派諸将にお咎(とが)めがなかった(「喧嘩(けんか)両成敗」の適用すらない)ことからも、家康は構造的な対立を内包する重大事件にしたくなかったし、周囲もそれで納得した。まあ、三成の失脚劇だ、というわけです。

 それでぼくは不思議に思ったのです。三成ほど頭のいい人が、なぜ加藤や福島に「お疲れさん」と言えなかったのか、と。お前たちの苦労はよく分かるぞ。オレは補給でがんばってるけど、しょせんは矢弾が飛んでこない気楽な仕事だからな。まあ、これはほんの気持ちだけど、酒宴でも張って英気を養ってくれ…。そんな感じでこまめに声をかけたり差し入れをしたりすれば、加藤や福島だってあそこまで怒らないでしょう。

 これは何も、わが身かわいさを目的としての行動じゃない。秀吉が衰弱しているさまを見れば、この専制君主が長くはもたないのは、当然分かるはず。秀吉が亡くなれば、後継者は幼い秀頼です。豊臣政権を引き続き運営していくのに、武断派諸将、とくに秀吉子飼いである加藤や福島の協力はますます必要になる。だったら、彼らの忠誠心をがっちりとつなぎ留めるためにも、彼らへのサービスは当然必要だった。それは三成は十分に分かっているはずなのに、なぜ実行に移さなかったのか。

 うん、そうかもしれないな、という仮説を教えてくださったのは、脳科学者の中野信子先生でした。中野先生は「三成はもしかしたら、アスペルガーだったかもしれない」と診断するのです。アスペルガーの人はゲシュタルト知覚(ものごとを全体の枠組みで理解する知覚)に乏しい。文脈を理解できない。空気を読まない。こういう場面ではこういうことを言ってはいけない、が分からない。それは頭の良さとは無関係。だから、秀吉の命令には忠実なのに、加藤や福島に「そちらはバカだなあ」と平気で言いそうな彼がアスペルガーだったとしたら、全てがよく説明できる。

 なるほど。ぼくが子供の頃は、小学校では全体行動が重んじられていました。当然、給食は「残さず食べる」。でも今は、給食は「嫌いなら残してOK」。子供一人一人の個性が大事にされる。「みんな違って、みんな良い」が共通認識になったのです。

 戦国武将も同じことです。彼らはいろいろな精神をもっている。それが彼らの行動を決定していく。この科学的な考察は実に重要です。というわけで、中野信子先生と本郷和人の『戦国武将の精神分析』(宝島社新書)、9日発売です。乞うご期待! (次週に続く)

 ≪三成と京都・三玄院≫ 石田三成大徳寺内に三玄院を創建。彼の墓はここにあります。開祖は春屋(しゅんおく)宗園(そうえん)で、千利休と親交のあった当時を代表する禅僧です。この絵はその春屋が賛を記したもので、像主は尼僧の久山(きゅうざん)昌隆(しょうりゅう)という人。近衛家のいわばお姫様で、「尼門跡(あまもんぜき)」と呼ばれた三時知恩寺(浄土宗)を再興しました。

戦国武将の精神分析 (宝島社新書)

戦国武将の精神分析 (宝島社新書)