生者と死霊の遭遇が意味すること
「『私は死んだのですか?』東北被災地で幽霊が出現した意味 生者と死霊の遭遇が意味すること」(現代ビジネス)
→ http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54664
私たちは数多くの“死霊”と出会ってきた
これから私は「幽霊」の話をするつもりである。震災後に出会ってきたおびただしい数の死者の霊についてだ。しかし残念ながら、「幽霊」を私がこの目で見たり、会話を交わしたという話ではない。
震災以降、被災者が亡くなった近親者や仲間の霊に出会った、あるいは被災地で見ず知らずの人の霊とコミュニケーションをとったなどという、“霊体験”を記録した出版物が何冊も刊行された。
そうした読書体験をとおして、私も数多くの霊と出会ってきたというのである。
被災地における霊体験の記録者は、宗教家、宗教学者、社会学者、ノンフィクション作家、フリージャーナリスト、新聞・通信社の記者と幅広い。しかし内容が重なるものも少ないのは、読者の需要があるからだろう。
1万5000人以上の死者を出した大震災について、だれもが事態の全容をつかみかねずにいる。そこで大震災から距離をおく人々を中心に、“残酷な事実”をイメージし、情緒的に理解することを期待して、神秘的な霊体験、霊魂譚を読もうとするのだろう。
そうした霊魂譚をいくつか紹介しながら、民俗学の視点から、生者と死霊の遭遇が意味するところを考えてみたい。
さまざまな霊魂譚
テレビのドキュメンタリー番組でも取り上げられた有名な“霊魂譚”に、津波で亡くなった子どもが生前に遊んでいたおもちゃを、親の前で動かしたという話がある。その子どもの母親が食事をするとき、祭壇に向かって「こっちで食べようね」と声をかけると、子どもが愛用していたハンドル付きのおもちゃの車がいきなり点滅し、音を立てて動き出した……。
次のような霊体験も印象的だ。
震災前に住んでいた家の前で、携帯を使って写真を撮ってみると、小学校で津波に巻き込まれ、行方不明になったままの子どもの顔が写っていた。
その出来事以来、だれかが天井を歩いたり、壁を叩いたりする音が聞こえるようになった。物音が奏でるリズムは、落ち着きのなかった子どもの生前の性格を思い起こさせる……。
宮城県石巻市で、複数のタクシードライバーが霊と遭遇したという事例は、社会学を学ぶ大学院生の調査としても話題になった。
石巻駅で乗せた30代の女性は、初夏であるにもかかわらずファーのついたコートを着ていた。目的地を聞くと、大津波で更地になった集落だった。
「コートは厚くないか?」とたずねたところ、「私は死んだのですか」と答えるのでミラーを見ると、後部座席にはだれも坐っていなかった……。
夏の深夜、小学生くらいの女の子がコート、帽子、マフラー、ブーツなどの厚着をして立っていた。「お母さんとお父さんは?」とたずねると「ひとりぼっち」と答えた。
女の子の家があるという場所の近くまで乗せていくと、感謝をあらわし降りたと思ったら、その瞬間に姿を消した……。
私自身、被災地になんども足を運んでいるが、霊体験を聞いたことはない。またなにかしらの怪異な出来事に遭遇した経験もない。
しかし被災者や、被災地にゆかりのある人々が幽霊に会ったり、怪異な体験をしたことは、疑いえない事実だろう。
なかには、被災地に訪ねてきた取材者・調査者に、“サービス”として神秘体験を語る場合もあるかもしれない。
また身近にいた人の突然の死に向き合ったとき、その人が夢枕に立ったり、現実世界に現われて、なにかしらの接触をはかることは、大災害時以外のときにも“普通”に起こっていることなのだ。
“あの世”からの伝言
民話採集者で、童話作家として『竜の子太郎』や『ふたりのイーダ』などを書いた松谷みよ子は、『あの世からのことづて――私の遠野物語』(1984年・筑摩書房/1988年・ちくま文庫)のなかに、数多くの、現代の幽霊譚や怪異譚を収録している。たとえばこんな話だ。運転手の無謀運転による交通事故で亡くなった8歳の少年が、そのショックから入院した母親に声をかけた。「コンクールに出す手作り絵本が机の中に入っているから、送ってよ」。
子どもの机の引き出しを夫に調べてもらうと、男の子が描いた絵本が出てきた。その絵本は賞に応募され、入選を果たした……。
小学校6年生の男の子が、浜へ泳ぎに行き溺れ死んだ。来年は中学にあがるはずだった子どものために、親は制服やカバンをそろえていた。担任の先生は、せめて卒業証書をあげてほしいと校長に頼んだが拒まれ、卒業式に写真が参加することだけが許された。
式の直前、友だちが遺影をもって坐っていると、講堂の腰板が外れ、すうっと風が入ってきた。式が終わり写真を返しに行くと、亡くなった男の子の母親が、ちょうど講堂に風が吹いた時間に、玄関の戸が急に開いたという。みな口々に男の子は卒業式に出かけたのだろうと言った……。
こうした霊体験は決して珍しいことではない。親しい人が、突然この世からいなくなったとき、人々は霊と再会し、死んだものもまたこの世に現れるのだ。
霊との遭遇は身近な人にだけ起こるともかぎらない。大震災の被災地を離れても、交通事故現場に立つ幽霊を見ることは不自然なことではないし、死んだはずのものがタクシーに手を上げ、ドライバーが乗せてしまうこともあるにちがいない。
“個別的”な霊体験は、この瞬間にも各地で起こっている。不謹慎に聞こえるかもしれないが東日本大震災では、その数が“圧倒的”だったという違いだけなのである。
新たな“妖怪伝承”は生まれるか
被災地における霊魂譚のなかには、個人の霊と遭遇したというのではない体験も記録されている。その男性は津波被災地の周囲に住む人で、震災から10日ほど経ってから現場を訪ね、死霊に憑かれてしまったようである。
男性は、アイスクリームを食べながら、クルマに「災害援助」という嘘の貼り紙をして被災地を歩いた。
するとその夜にうなされ、家族に向って「死ね、死ね、みんな死んで消えてしまえ」「みんな死んだんだよ。だから死ね!」と叫び、何日も暴れ回ったという。
その苦悩を聞いた宗教家は、死者に対する畏敬の念をもたず、興味本位で被災地を訪ねたためであろうと言った。
震災以降に私が、被災地から伝わる話として興味を持ち続けているのは、幽霊体験ではなく、妖怪が発生したという事例である。
『災害と妖怪』(2012年・亜紀書房)という本のなかで、私は河童や天狗、ザシワラシといった妖怪は、災害や戦争による「亡霊」とともに、生き残った人々のうしろめたさの感情、「生霊」が形をとり、伝承されてきたものではないかという仮説を立てた。
死霊に憑かられた男性の話は、ひとりひとりが分散した「個別霊」ではなく、無数の霊が結びついた「集合霊」だったといえるだろう。
しかし「妖怪」が誕生したという話はまだ聞こえてこない。社会や民俗が近代化してしまうと、妖怪は新たに生み出されてこないのだろうか。
被災地ではいまだ死者も生者も分断され、孤独にさいなまれている。
「個別霊」が集まり、「生霊」とも結びついたとき、被災地の精神的な復興が、少しでも果たされるのではないかと私は思うのだ。
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孔子さまの見解。
子のたまわく、怪、力、乱、神を語らず。
大哲学者イマヌエル・カントの見解。
ところでわたしは、霊があるかどうかを知らない。いやそればかりか、霊という言葉が何を意味するかすら、まったくわかっていない。そうはいっても、わたし自身この言葉をしばしば用いるし、あるいは他の人たちが使っているのをきいている。だから、たとえそれがいかなる幻想であろうと、あるいは何か実在するものであろうと「霊」という言葉によって何事かが理解されねばなるまい。
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