NAKAMOTO PERSONAL

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欺瞞と偽善に挑み続けた生涯

「【追悼】西部邁さん 欺瞞と偽善に挑み続けた生涯」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/life/news/180201/lif1802010011-n1.html

 アメリカ従属という現状に安住し、屹立(きつりつ)しようとしない戦後の日本と日本人の在りよう、そして近代と近代人に、誰よりも深い懐疑と悲しみを抱き、根源的な批判を続けてきた真の知識人だった。

 戦後まもなく、アメリカに押しつけられた甘い理想をたっぷりと含む民主主義の言葉に、欺瞞(ぎまん)と偽善を感じ取った鋭敏な少年は、東京大学に入学すると教養学部自治会委員長、全学連中央執行委員となって60年安保闘争を指導した。それは欺瞞と偽善を撃つための闘いであった。しかし後年、革命は伝統との相対によって、自由は秩序との相対によって初めてその意味が明らかになるはずなのに、自分たち過激派は、伝統と秩序の何たるかを知ることなく、革命と自由を求めていたことに気付く。

 横浜国大助教授を経て東大助教授になった西部さんは、30代後半にアメリカとイギリスに留学する。イギリスでは、フォックストンという小村に居を定める。ここで、18世紀のエドマンド・バークから20世紀のマイケル・オークショットに至る保守思想家たちに触れ、政治も個人も綱渡りのように緊張感をもち「平衡感覚」を頼りに歩む以外になく、「平衡感覚」は歴史と伝統に学ぶ以外にないことを学んだ。

 《一個の保守主義者として、それまでの乱脈に流れてきた自分の人生と学問における経験を、その一片も無駄にすることなく、互いに関連づける境地を得たように思った》と回想している。かくして保守主義者となった西部さんは、少年時代に感じ、なおも日本を覆う欺瞞と偽善に敢然と闘いを挑んでゆく。今度はゲバ棒ではなく、伝統に学びながら構築された深く鋭い言論によって。

 西部さんに「保身」という言葉はなかった。どんな状況であろうと、自身が信ずる「義」のために逃げることなく闘いを挑んだ。60年安保闘争しかり、助教授人事をめぐって東大教養学部にけんかを売り、東大教授を辞職することとなった駒場騒動しかり。こう記している。《そんなことをやって自分が傷つかぬはずはないとわかっていたが、関係者が傷つけられているのを見過ごしにするほうの傷がもっと大きいと私は判断した》。2003年にアメリカがイラクを攻撃したときには、保守系知識人の多くが賛成・黙認するなかで、「こういう侵略を許すわけにはいかない」と声を上げた。

 理と義と侠(きょう)を兼ね備えた西部さんは、相当なロマンチストでもあった。西部さんは長らく多摩湖に近い東京都東大和市に暮らしていた。その理由は「湖の見える場所で暮らしたい」という奥様の願いをかなえるためだったという。数年前に奥様を亡くした西部さんはまもなく世田谷区へ移った。

 西部さんが自殺したという一報を後輩記者から知らされた私は、思わず「拳銃か?」と尋ねてしまった。というのも、58歳の時に「自死が必要になったとき」に備えて、友人から拳銃を入手しようと考えていた、と13年前に刊行した自伝的長編評論「友情」に書いていたからだ。では“その時”とはいつのことなのか。

 《自分という存在は、言語のあまたある可能性のうちのほんの一つを、わずか八十年ほど過去から未来へと運ぶ単なるヴィークルつまり運搬具にすぎないと思ったとき、死は私にとって大きな問題ではなくなった》と悟った西部さんにとって、言葉の能力が衰えたと感じられたときが、“その時”なのだ。そしてこう記す。

 《安楽死とか尊厳死とかいったような形容は私の最も嫌うところだ。それらは人間礼賛の成れの果ての表現にすぎない。あえていえば、単純死としての自殺、それが理想の死に方だとすべきではないのか》

 近代を懐疑し、知行合一を生きた西部さんは、理想の死を死んだのだ。(桑原聡)

     

 評論家の西部邁さんは1月21日、入水し死去。78歳だった。

国民の道徳

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