NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

「西部邁さんの柔らかく温かい手のひら」

「【日曜に書く】『出ていけ!』『連載中止だ!』怒鳴り合った夜…西部邁さんの柔らかく温かい手のひら 論説委員・河村直哉」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/column/news/180204/clm1802040006-n1.html

 断片的なものだが、その夜の記憶は鮮明である。

 12年前、東京。その人と飲んでいた。3軒目、歌の歌える店に行ったときには、かなりアルコールが入っていた。

 何曲か歌っていると、「出ていけ!」と、その人の怒声が店中に響いた。

 何のことかわからない。理由を聞いたはずだが、はっきりした答えはなかったと思う。次に覚えているのは、「連載中止だ」と怒鳴り返して店を出たことである。


国内の保守分断

 その人とは、1月21日に亡くなった評論家の西部邁さんであり、連載とは産経新聞紙上で平成18年春から始まった西部さんの「保守再考」である。始まってまだ数回目のころのできごとだったと記憶する。

 2003(平成15)年のイラク戦争開戦前後から、国内では米国との関係を重視するいわゆる親米保守と、米国に同調する日本に批判的ないわゆる反米保守が、分断した状況ができてしまっていた。

 西部さんは親米とされる人と激しく論争し、反米の代表格とみなされていた。メディアについても批判の対象にし、本紙との距離もあいてしまった。

 筆者には、西部さんは反米というより、日本の伝統に根ざした論を展開しようとしているように思えた。米国に対する立ち位置が違ってはいても、親米も反米も日本を思う気持ちに変わりはない。分断は残念なことに思われた。本紙に書いてくれるだろうかと心配しつつお願いした「保守再考」だった。

 本格的かつ刺激的な原稿が送られてきていた。


日本のための連載

 その夜に戻る。

 夜道にタクシーを走らせながら、まだ憤然としていた。数回で連載中止とは読者に申し訳ないことになると思いつつ、腹立ちが治まらない。

 深夜、当時の上司に電話をした。冷静になってもう一度話し合ってみよ、と言ってくれたのは、あたりまえかもしれないが幸いだった。

 確かに、酒が入ったうえでのやりとりだった。翌朝すぐ電話した。意外なことに、西部さんは怒るでも責めるでもなく、穏やかな口調だった。

 恥をしのんで書くが、酒が入った筆者は、少々下品な歌を歌ってしまったらしいのである。記憶は定かではない。席には女性もいたから、歌ったとしたら失礼に当たる。

 非礼は素直におわびし、日本のために必要な連載です、と言った。「うむ」と、力を込めた西部さんの声が耳に残る。連載は続くことになった。

 それからどういうわけか、西部さんは筆者に気安く接してくれるようになった。食事も酒も何度かご一緒した。筆者が大阪本社に戻ってからは足が遠のいてしまったが、ときおり、著書をいただくなどした。


厳しく優しい人

 ここでは西部さんの思想について書くつもりはない。亡くなった夜、評伝を書き、大阪本社発行の一部地域の朝刊に入れた。西部さんは保守思想に学問としての骨格と精密さを与えた、と書いた。日本の至宝というべき存在、とも。今もそう思っている。

 その舌鋒(ぜっぽう)の鋭さから、西部さんは敬遠されもした。けれども筆者には、その思想への敬意と人柄への愛着しかない。厳しいけれど、どこまでも優しい方だった。いつだったか、酒席で何かの粉末を見せ、これを飲むと酔っ払わない、と言った。酒は飲んでも酔っ払ってはいけないよ、と、ちゃめっ気たっぷりの表情で言うのである。思わず、それ私にもください、と言った記憶がある。

 他者に迷惑をかけるなら自裁するという考えはかねて公言していたし、最近の著作を読んでいて西部さんが死に近づいているように感じていた。

 もっと接しておけばよかったという悔いもあれば、西部さんらしいとの思いもある。自死を推奨するわけではない。西部さんはおのれを貫かれたということである。

 最後に親しくお話をしたのは、「正論」懇話会の講師として奈良にお迎えしたときである。もう8年近くも前になってしまった。

 講演が終わり翌朝、見送りのためホテルに行った。

 タクシーに乗る間際、何を思われたか、西部さんは筆者に右手を差し出した。

 握り返した。柔らかく温かい手のひらだった。