NAKAMOTO PERSONAL

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カトリーヌ・ドヌーヴは何に怒ったのか?

「#MeTooを逆告発したカトリーヌ・ドヌーヴは何に怒ったのか?」(文春オンライン)
 → http://bunshun.jp/articles/-/5929

 アメリカで起こった#MeTooに続いて、フランスでも#BalanceTonPorc(お前の豚を告発しろ)というセクハラ告発キャンペーンが広がった。大臣を歴任した社会党の大物政治家や、極右政党FNの党首側近(同性愛者で男性からの告発)など有名人の名前も挙がっている。

 そんな中、1月10日付の「ル・モンド」紙にこの運動を「逆告発」する意見書が掲載された。5名の女流作家・文化人が起草したものに約100名が賛同署名する形で出されたもので、カトリーヌ・ドヌーヴが名を連ねたことにより一躍国際的大ニュースになった。

 ところが、それから1週間もたたないうちに、ドヌーヴは「謝罪文」を出した。正確には相次ぐ批判に対して自分の立場を明確にしたもので、その最後に、「私は、この『ル・モンド』の意見書で攻撃されたと感じたすべてのおぞましい行為の犠牲者に友愛をもって敬意を表し、彼女たちに、そして彼女たちだけに謝罪する」と記したのだ。

 この「謝罪文」を含む記事が書かれた経緯について、掲載した「リベラシオン」紙は、記者が電話でインタビューしたところ、書簡を送ってきた、と説明している。まさにドヌーヴは、記者に委ねるのではなく、自分の言葉で語ろうとしたのである。


「このハッシュタグは、密告への招待ではないのか?」
 いったい、ドヌーヴはセクハラ告発キャンペーンの何に怒ったのだろうか?

「謝罪文」を読むと2つのテーマが浮かび上がる。

 まず、「密告」と「私刑(リンチ)」である。

「私は誰もが裁き断罪する権利があると思っている現代の風潮が嫌なのだ。ソーシャルメディアでの単純な告げ口が懲罰、免職、そしてメディアのリンチを生むこの時代。(中略)猟犬の群れが追い回すようなことが横行するのが嫌だ。(中略)このハッシュタグは、密告への招待ではないのか? 情報操作や汚い手がないと誰が言えるのか? 無実の者の自殺は起きないのか?」

 ドヌーヴは、今になって突然発言し始めたわけではなく、アメリカで#MeTooキャンペーンが起こった昨年10月末のラジオ番組で「確認できないままに名前を告げ口し、しかも反論できない」とソーシャルメディアの行き過ぎを憂いている。


カトリーヌ・ドヌーヴが意見書に署名した本質的な理由
 もう一つのポイントは、「検閲」と「粛清」だ。

「私は、本質的だと思う理由があったから意見書に署名した。芸術における粛清の危険だ。サドを焚書にする? ダ・ヴィンチをペドフィルだとして絵を抹消する? ゴーギャンを美術館から外す? エゴン・シーレのデッサンを破壊する? フィル・スペクターのレコードを禁止する? この検閲の風潮に私は唖然とするばかりだ。そして私たちの社会の将来を憂えている」

 一方、ドヌーヴは「謝罪文」で、署名者の一人が「強姦されても快楽は得られる」などと発言をしていることには全面的に反対だと書いている。そして「(意見書は)ハラスメントが良いことだとは主張していない。そうでなければ私は署名しなかった」という。だが、彼女は見落としている。意見書には、地下鉄で痴漢にあっても「永遠にトラウマを持たないことだってできる。(痴漢を)特別な『事件』ではないと考えることもできる」とも書かれているのだ。ちなみに、これと同じことをマスメディアで発言した起草者の一人は、「強姦されなかったことが残念。そうすれば強姦されても立ち直れるということを証明できたのに」とも語っている。

 裕福で地下鉄などには乗らない、いかにもインテリ・文化人らしい現実から乖離した言説である。だからこそ、意見書には大きな批判が沸き起こった。


起草者の5人は「性の解放主義者」として知られる
 批判ももっともなのだが、実のところ起草者たちは、むしろ性の解放主義者として知られた面々である。

 セクハラ告発キャンペーンは、起草者たちの目に「女性=永遠の犠牲者、男尊女卑に支配される可哀そうな存在」というステレオタイプでかんじがらめにするムーブメントとして映ったのだろう。起草者たちは極端な女性解放運動家ともいえ、「女性には不器用な口説きと性的攻撃を混同しない十分な洞察力がある」、「ハラスメントを受けても克服できる強い存在なのだ」と声高に叫び続けなければならない。たとえその言説が、非現実的なものであったとしても。

 そして、「ル・モンド」に掲載された「逆告発」の意見書でも力点が置かれていたのは、まさに「密告」「私刑(リンチ)」と「検閲」「粛清」への危惧だった。

 だからこそドヌーヴも賛同したのだろう。

 日本でも人気を二分していたブリジット・バルドーが、動物愛護運動から極右になってしまったのと対照的に、ドヌーヴはずっと女性解放運動家、左翼的人間だと思われていた。「謝罪文」にも書かれているが、かつて犯罪とされていた妊娠中絶をしたことを認めつつ、合法化を求めたこともある。最近では、同性婚について賛成派よりもラジカルに、結婚制度そのものが時代遅れだとして、同性カップルの養子にも賛成していた。

 ドヌーヴは、健在である。セクハラ告発キャンペーンを認めたわけではない。これは、「謝罪文」の最後に「彼女たちだけに謝罪する」と強調したところによく表れている。反対に、けっして反女性解放運動に鞍替えしたわけでもない。「私を支持するという策略を見つけたあらゆる類の保守派、人種差別主義者、伝統主義者に対して、私は騙されるようなバカではないと言いたい。彼らは私の感謝も友情も得られない、むしろ反対だ」ときっちりクギを刺している。