NAKAMOTO PERSONAL

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本居宣長の「保守主義」に学ぶ

「【正論】本居宣長の『保守主義』に学び、『自然のまま』『神の所為』を大事に 日本大学教授・先崎彰容」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/column/news/171206/clm1712060006-n1.html

 昨今、「保守的」であることは常識になっている。ここ数年、目につく新刊本の棚には『保守とは何か』といった類(たぐ)いの書名を複数見ることができるし、著者の多くは別段、政治的左右に色分けされる人でもない。恐らくその内容は、西洋思想史であればバークやトクヴィル、バジョットが紹介され、日本の場合は小林秀雄福田恆存江藤淳などが復習されているはずである。これまた常識の範囲内ということになるであろう。


執拗に批判した「からごころ」

 概(おおむ)ねその主張は、フランス「革命」などへの嫌悪であり、マルクス主義批判であり、過去の伝統を重視する立場だろう。革新よりも積み重ねてきた秩序を重んじ尊重する。イギリスにはイギリスの、日本には日本の歴史が存在するのであり、馴染(なじ)んだ「価値」の改良をよしとする立場が保守である。寛容さこそ保守の神髄だ、昨今はこういう意見もあるようである。

 しかし私は、これらの意見から脱落した「忘れられた思想家」がいると考えている。1990年代後半、大学入学後の読書体験で沸き起こった思いは、現在でも解消されていない。恐らくは近々、長文の評論として論じることになるこの思想家について、今回は問題の核心を端的に示しておくことにしたい。

 大学1年、成人したての頃に遡(さかのぼ)る。当時、私は本居宣長の諸作品を読むことに没頭していた。宣長の第1作『あしわけをぶね』や『石上私淑言』などの歌論、また「もののあはれ」論として著名な『紫文要領』は源氏物語論を読み、薄暗い図書館の片隅で日々、ノートを取っていた。また大学のゼミナールでは、宣長の政治論『玉くしげ』にも取り組んだ。多くの著作で宣長は、「からごころ」批判を行っている。

 「からごころ」とは、直接には儒学・仏教など大陸の哲学思想体系を指し、批判するために使った言葉である。宣長は執拗(しつよう)なまでに大陸思想と、自らが学ぶ「国学」との違いを説明しようと試みる。それは後に、日本のナショナリズムを高揚させるものとして、肯定も否定もされてきた。では実際、宣長は「もののあはれ」や「からごころ」によって、何を言いたかったのか。そしてそれは、大学生の私に何を手渡したのだろうか。


全ては「神」の所為によるものだ

 例えば、宣長は「みち」という言葉は日本では道路のことを指し、それ以外特別な意味はないと言う。儒教では「道」は道徳的倫理的に人が行うべきルール、という意味を含むからだ。

 また宣長は、老荘思想は間違っているとも言っている。人間は無為自然であるべきだという老子荘子の思想を、複雑極まる現代社会に「復古」させよ、という主張を宣長は認めない。こうした現代社会になったのも、全ては「神」の所為によるのだから、現状は現状のまま肯定せよ。これが宣長の主張なのである。

 一体、宣長は何を言おうとしているのか。儒教や仏教、老荘思想の何を否定しているのだろうか。宣長は、目の前の現実社会に対し、ああでもない、こうでもないと解釈すること、今日「理念・主義・イデオロギー」などと呼ばれる一切を否定したのだ。もっと分かりやすく言うと、宣長は、価値観や主義主張を全否定しようとしているのである。

 全ては「神」が、私たちの思惑を超えて世界を主宰している。解釈など寄せつけない何かの意志が働いている。だから宣長は、日本に独自の「価値」や伝統といった存在は指摘しても、最終的に価値の是非は論じない。宣長研究者の水野雄司氏によれば、宣長は「もののあはれ」こそ日本人らしさなのだという価値観すら、後に放棄してしまったらしい。また自身の葬式は、世間の流れに従って仏教式で行うことを求めた。なぜなら「神」がそういう社会のもとに、宣長を生んだからである。


不毛なイデオロギー論争を拒絶

 さて、以上の宣長から20歳の私がつかみだしたものとは何か。

 それは西洋思想であれ、日本の保守思想家を発掘するものであれ、昨今のあらゆる「保守的」な発言が、全てイデオロギーを求めていることへの違和感であった。歴史と伝統、もののあはれ、わび・さびから武士道に至るまで、保守は日本的な価値観を探しだそうと必死なのだ。

 しかし、ある価値観こそ正しい、日本的だと言った瞬間、それは違う、私の考える価値観は…という争いが始まってしまう。解釈を競い合うイデオロギー論争が起きる。宣長が拒絶したのは、こうした不毛な人間同士の思想劇であった。西洋文明にたいして、東洋的・日本的価値観は…これら全ては、宣長にとって「からごころ」にすぎない。いくら論争しても、相対的な価値の一つに日本が成り下がってしまうからである。

 今日、ネトウヨに代表される日本主義者?はもちろん、誠実な保守主義者も含めて、宣長の決定的な破壊力を指摘することはない。不惑の私は、今後、正面から宣長に取り組む所存だ。

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