NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

「擬似正義は社会の歪みもたらす」

「【正論】擬似正義は社会の歪みもたらす 現在の価値で歴史を裁断する『政治的公正』を疑う 東京大学名誉教授・平川祐弘」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/column/news/171016/clm1710160004-n1.html

 アンソニー・リーマンは1932年チェコで生まれ、ドイツ占領下と共産党支配下で育った。ソ連の侵入後、脱出し日本の大学へ留学したら教授が共産圏を天国のように話す。落胆しカナダへ亡命し、トロント大教授となり『万葉集』のチェコ語訳を完成。奈良で表彰され「生まれ変わったら日本人になりたい」と言った。

 今度出た英文の自伝 Eternal Pillow of Grass は面白い。もはや遠慮せずに語っている。題の『永遠の草枕』は、「父母も 花にもがもや草枕 旅は行くとも 捧(ささ)ごて行かむ」に由(よ)る。「父母も花であってほしい。その花を捧げて草枕の旅を続けたい」と万葉の歌に託して亡命者の心情を述べた。


≪『風と共に去りぬ』はタブーか≫

 リーマンが来日したころ、欧州留学から帰国した私も、新聞や知識人が共産圏に色目を使う日本で孤独に感じた。だが後に北米でも別種の政治的禁忌(タブー)があるのがうっとうしかった。リーマンもそんな「ポリティカル・コレクトネス」に反発する。

 例えば『風と共に去りぬ』を認めぬ米国の文学教授にリーマンは立腹する。批評家E・ウィルソンは南北戦争を扱った評論『愛国の血糊』でミッチェルの大作を無視した。黒人の女中マミーは献身的にオハラ家に仕え、戦後の奴隷解放にかえって戸惑う。それはありうる心理と思うが、ウィルソンはそれを南部の神話と一蹴した。奴隷制は悪で、その解放が善である以上「政治的公正」にそむく文学は認めない人もいる。

 『風と共に去りぬ』を私が夢中で読んだのは敗戦の年だった。東京は焼け野原、南部のアトランタも焼け野原。そんな戦後、闇商人のレット・バトラーは男前で(映画ではクラーク・ゲーブル)、バイタリティーに魅力があった。スカーレット・オハラは突然入ってきた北軍将校を銃で撃ち殺す。彼女の野性の力に圧倒された。


≪「正しさ」言い張り全てを裁断≫

 米国には「これが正しい」と言い張る勢力があり、現在の価値基準で歴史も文学も裁断する。だがそんな「政治的公正(ポリティカル・コレクトネス)」を私は疑う。米国を一日本少年に印象づけた一冊の本は『風と共に去りぬ』だと言ってきた。

 米国到着当初は英語になれようと、毎晩声に出して Gone  with the Wind を読んだ。

 バージニア州シャーロッツビルへ行った帰りに、南軍の総司令官リー将軍の広壮な館を見て、印象を深くした。小説に出てくるドッグウッドの花が夕闇に白く咲いていた。

 戦後の日本には口にしてはならぬ話題があり、例えば神道はタブーだった。だが故郷の中欧の霊的伝承を聞いて育ったリーマンは、日本の土着信仰に愛着を覚え、神道の重要性を指摘する。その辺が宣教師系統の英米学者の神道に対する無理解と違う。

 思うに英語圏で戦後、小泉八雲ことハーンが無視されたのも、ハーンが出雲の神道風俗を描き、アニミズムの霊の世界を怪談で英語に再話し、神道を日本解釈の基礎に置いたからだろう。

 「政治的公正」の禁忌を破ると反撃が怖い。だが戦死者の慰霊を考える際、無宗教の千鳥ケ淵で死者の魂が鎮まるのか。そうあやぶんで、私は神道的見地から弁明し「米国の国立墓地には奴隷制廃止のために戦った兵士も、奴隷制維持のために戦った将軍もともに埋葬されている。戦死も法務死もともに祀(まつ)る靖国神社は日本のアーリントンだ」と JAPAN Forward で発信した。

 すると一米国人が「アーリントンには戦犯や人殺しはいない」と靖国を批判した。だが勝者が敗れた死者を勝手に犯罪人や人殺し呼ばわりしてよいことか。


リー将軍も西郷さんも「悪者」≫

 1865年、南北戦争で敗れた南部の人は半世紀後、リー将軍の像をシャーロッツビルに建てた。西南戦争で敗れた西郷さんの銅像を上野に建てたと同じ和解の気持ちもあってのことだろう。近年の日本でも官軍のみか賊軍も靖国神社に祀れ、という主張がある。

 だがこの夏、米国では「政治的公正」を叫ぶ一派が、よせばいいのに、リー将軍像の撤去を決定したから、シャーロッツビルは大騒動と化した。

 1世紀半後の価値観でリー将軍は再び悪者とされた。こうなると西郷さんも、合祀(ごうし)どころか「征韓論を唱えた男の銅像を取り壊せ」と隣国が言うかもしれぬ。だが、それで騒ぎ出したら和解はないだろう。

 仁川(インチョン)には1950年9月、南下した北朝鮮軍の背後に米軍を上陸させ、韓国を救ったマッカーサー元帥の銅像がある。それを取り払え、と一部韓国人は叫ぶ。マッカーサー父親は、米国が日本の朝鮮統治を認める代わりに米国のフィリピン統治を日本に認めさせた、そんな軍人総督の息子の像は倒せ、と「正義派」は主張する。

 歪(ゆが)んだ主張を許す社会には歪んだ未来しかない。擬似(ぎじ)正義の主張をうっとうしく感じるこの頃だ。


賢人にも曰く、

 民主主義政治の原理は、自分が独裁者になりたくないという心理に基づいているのではなく、他人を独裁者にしたくないという心理に基づいているのである。一口に言えば、その根本には他人に対する軽蔑と不信と警戒心とがある。
 そうと気づいてもらえば、「正義の主張は犯罪と心得べし」という私の忠告は極く素直に受け入れられるだろう。愛の陰には色情があり、正義の陰には利己心がある。反省の篩(ふるい)にかければ、愛や正義の名に値するものはめったにないことになる。それがどういうわけか、今日の日本では、民主主義だけが篩(ふるい)の目を逃れ、ほとんど唯一の禁忌(タブー)にまで昇格してしまっている。敵も味方もそれを旗印にする。民主主義の名の下に暴力を犯し、あるいは暴力を犯してそれを肯定するために民主主義を口実にする。そうかと思うと、暴力は民主主義ではない、それに反するものだと言い、民主主義をもってそれを説伏(しゃくふく)しようとする。民主主義とはそれほど便利なものか。

── 福田恆存(『日本への遺言』)