寅彦先生
今日は歯医者さんの日。
「歯」
話は変わるが、歯は「よわい」と読んで年齢を意味する。アラビア語でも sinn というのは歯を意味しまた年齢をも意味する。「シ」と「シン」と音の似ているのも妙である。とにかく歯は各個人にとってはそれぞれ年齢をはかる一つの尺度にはなるが、この尺度は同じく年を計る他の尺度と恐ろしくちぐはぐである。自分の知っている老人で七十余歳になってもほとんど完全に自分の歯を保有している人があるかと思うと四十歳で思い切りよく口腔の中を丸裸にしている人もある。頭を使う人は歯が悪くなると言って弁解するのは後者であり、意志の強さが歯に現われるというのは前者である。
同じ歯の字が動詞になると「天下恥与之歯(てんかこれとともによわいするをはず)」におけるがごとく「肩をならべて仲間になる」という意味になる。歯がずらりと並んでいるようにならぶという譬喩(ひゆ)かと思われる。並んだ歯の一本がむしばみ腐蝕しはじめるとだんだんに隣の歯へ腐蝕が伝播して行くのを恐れるのであろう。しかし天下の歯がみんなむし歯になったらこんな言葉はもういらなくなる勘定であろう。
歯の役目は食物を咀嚼し、敵にかみつき、パイプをくわえ、ラッパの口金をくちびるに押しつけるときの下敷きになる等のほかにもっともっと重大な仕事に関係している。それはわれわれの言語を組み立てている因子の中でも最も重要な子音のあるものの発音に必須な器械の一つとして役立つからである。これがないとあらゆる歯音(デンタル)が消滅して言語の成分はそれだけ貧弱になってしまうであろう。このように物を食うための器械としての歯や舌が同時に言語の器械として二重の役目をつとめているのは造化の妙用と言うか天然の経済というか考えてみると不思議なことである。動物の中でもたとえばこおろぎや蝉などでは発声器は栄養器官の入り口とは全然独立して別の体部に取り付けられてあるのである。だから人間でも脇腹か臍のへんに特別な発声器があってもいけない理由はないのであるが、実際はそんなむだをしないで酸素の取り入れ口、炭酸の吐き出し口としての気管の戸口へ簧(した)を取り付け、それを食道と並べて口腔に導き、そうして舌や歯に二役(ふたやく)掛け持ちをさせているのである。そうして口の上に陣取って食物の検査役をつとめる鼻までも徴発して言語係を兼務させいわゆる鼻音(ネーザル)の役を受け持たせているのである。造化の設計の巧妙さはこんなところにも歴然とうかがわれておもしろい。
こおろぎやおけらのような虫の食道には横道に嗉嚢(そのう)のようなものが付属しているが、食道直下には「咀嚼胃(カウマーゲン)」と名づける袋があってその内側にキチン質でできた歯のようなものが数列縦に並んでいる。この「歯」で食物をつッつきまぜ返して消化液をほどよく混淆(こんこう)させるのだそうである。ここにも造化の妙機がある。またある虫ではこれに似たもので濾過器の役目をすることもあるらしい。
もしかわれわれ人間の胃の中にもこんな歯があってくれたら、消化不良になる心配が減るかとも思われるが、造化はそんなぜいたくを許してくれない。そんな無稽(むけい)な夢を描かなくても、科学とその応用がもっと進歩すれば、生きた歯を保存することも今より容易になり、また義歯でも今のような不完全でやっかいなものでなくてもっと本物に近い役目をつとめるようなものができるかもしれない。しかし一つちょっと困ったことには若くて有為な科学者はたぶん入れ歯の改良などには痛切な興味を感じにくいであろうし、そのような興味を感じるような年配になると肝心の研究能力が衰退しているということになりそうである。
年をとったら歯が抜けて堅いものが食えなくなるので、それでちょうどよいように消化器のほうも年を取っているのかもしれない。そう考えるとあまり完全な義歯を造るのも考えものであるかもしれない。そうだとすると、がたがたの穴のあいた入れ歯で事を足しておくのも、かえって造化の妙用に逆らわないゆえんであるかもしれないのである。下手な片手落ちの若返り法などを試みて造化に反抗するとどこかに思わぬ無理ができて、ぽきりと生命の屋台骨が折れるようなことがありはしないか。どうもそんな気がするのである。
「天災は忘れた頃にやって来る」の寺田寅彦。
物理学者にして随筆家、俳人。
『吾輩は猫である』の水島寒月や『三四郎』の野々宮宗八は彼がモデルである。
「棄てた一粒の柿の種 生えるも生えぬも 甘いも渋いも 畑の土のよしあし」。
随筆『柿の種』より。
平和会議の結果として、ドイツでは、発動機を使った飛行機の使用製作を制限された。
すると、ドイツ人はすぐに、発動機なしで、もちろん水素なども使わず、ただ風の弛張(しちょう)と上昇気流を利用するだけで上空を翔(か)けり歩く研究を始めた。
最近のレコードとしては約二十分も、らくらくと空中を翔けり回った男がある。
飛んだ距離は二里近くであった。
詩人をいじめると詩が生まれるように、科学者をいじめると、いろいろな発明や発見が生まれるのである。
夢の世界の可能性は、現実の世界の可能性の延長である。
どれほどに有りうべからざる事と思われるような夢中の事象でも、よくよく考えてみると、それはただ至極平凡な可能性をほんの少しばかり変形しただけのものである。
してみると、事によると、夢の中で可能なあらゆる事が、人間百万年の未来には、みんな現実の可能性の中にはいって来るかもしれない。
もしそうだとすると、その百万年後の人たちの見る夢はどんなものであるか。
それは現在のわれわれの想像を超越したものであるに相違ない。
油画をかいてみる。
正直に実物のとおりの各部分の色を、それらの各部分に相当する「各部分」に塗ったのでは、できあがった結果の「全体」はさっぱり実物らしくない。
全体が実物らしく見えるように描くには、「部分」を実物とはちがうように描かなければいけないということになる。
印象派の起こったわけが、やっと少しわかって来たような気がする。
思ったことを如実に言い現わすためには、思ったとおりを言わないことが必要だという場合もあるかもしれない。
自分の欠点を相当よく知っている人はあるが、自分のほんとうの美点を知っている人はめったにいないようである。欠点は自覚することによって改善されるが、美点は自覚することによってそこなわれ亡(うしな)われるせいではないかと思われる。
先生が亡くなられて、自分は他の多くの弟子たちと同様に、随分力を落した。そして今日のような時勢になると、切実に先生のような人を日本の国に必要としていることを感ずるのである。科学の振興には、本当に科学というものが分っている人を必要とするからである。
北海道へ来て、一人立(ひとりだち)で仕事をさせられて見ると、私は先生の影響を如何(いか)に強く受けていたかということを感ずるのである。それと同時に、時たま仕事が順調に運んだ時などには、先生のおられないことをしみじみ淋(さみ)しいと思う。
二、三年前、やっと懸案の雪の結晶の人工製作が出来たあとで、先生の知友の一人であった気象台のO先生に御お目にかかったことがあった。そしたらO先生が「折角人工雪が出来たのに、寺田さんがいなくて張り合いがないでしょう」と言われた。私はふっと涙が出そうになって少し恥しかった。
── 中谷宇吉郎(『寺田先生の追憶』)
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