NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

悪は「陳腐」である

NHK「100分 de 名著『全体主義の起原』ハンナ・アーレント

「第4回 悪は「陳腐」である」
 → http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/69_arendt/index.html#box04

【放送時間】
2017年9月25日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2017年9月27日(水)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2017年9月27日(水)午後0時00分~0時25分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【講師】
仲正昌樹金沢大学教授)
【朗読】
田中美里(俳優)
【語り】
徳田 章(元NHKアナウンサー)
何百万人単位のユダヤ人を計画的・組織的に虐殺し続けることがどうして可能だったのか? アーレントはその問いに答えを出すために、雑誌「ニューヨーカー」の特派員として「アイヒマン裁判」に赴く。アイヒマンは収容所へのユダヤ人移送計画の責任者。「悪の権化」のような存在と目された彼の姿に接し、アーレントは驚愕した。実際の彼は、与えられた命令を淡々とこなす陳腐な小役人だったのだ。自分の行いの是非について全く考慮しない徹底した「無思想性」。その事実は「誰もがアイヒマンになりうる」という可能性をアーレントにつきつける。第四回は、「エルサレムアイヒマン」というもう一つの著書も合わせて読み解き、「人間にとって悪とは何か」「悪を避けるには何が必要か」といった根源的なテーマを考える。

誰もが悪をなしうる

「この時代の“アイヒマン”はどこに潜んでいるのだろうか。駅の構内の人の行きかいが、ひどく現実感をともなわない映像のように流れていきました。」

アーレントについて真剣に読み直してみようと思い立ったのは、このように締めくくられる一通のメールマガジンを読んだことがきっかけでした。私が尊敬する編集者、河野通和さんのエッセイ。今は休刊してしまった「考える人」という雑誌の名物編集長だった人です。2014年1月23日という日付がありますから、今からおよそ3年前のこと。

映画「ハンナ・アーレント」の読後感(視聴後感?)から始まるこのエッセイ。メールマガジン掲載のエッセイは、通常一回読み切りで送られてくるのですが、アーレントを取り上げたこの回は、異例にも前後編。文章にも熱がこもっていて心を揺さぶられました。映画ももちろん感動的なものでしたが、この短いエッセイに書き記された細やかな背景を読むにつけ、アーレントは、今の時代にこそ読み直さなければならないと痛感したものです。

エッセイでは、番組でも取り上げた「エルサレムアイヒマン」がどのようにして生まれていったかを、その仕掛け人である「ニューヨーカー」編集長、ウィリアム・ショーン氏のドキュメントとインタビューで辿っています。印象的なのは、アーレントが、文字通り「命がけ」でこの著作に取り組んだことがありありと伝わってくるところ。何週間にもわたって膝詰めで、アーレントと一緒に原稿作りを続けたショーンは、一回の作業が終わると精も根も尽き果てていたと、当時交際していたリリアン・ロスは記しているそうです。

英語が苦手だったアーレントに対して、文章の明晰性、論理性などをつきつめていくショーン。最初こそ協力的だったアーレントは、ついに怒りを爆発。数々の悪罵を吐きながら、「これ以上原稿に手を入れるつもりはない」と言い放ちます。ショーンは、「あんなふうに人から罵られたのは生まれてはじめてだった」と述懐しています。作者と編集者の熾烈ともいえるせめぎあいが垣間見られるシーンです。

徹底して知的に誠実であり続けようとするアーレント。そして、その言葉を現代の人たちに少しでも伝わるよう彫琢しようと粘り続けるショーン。そんなせめぎあいがあったからこそ名著「エルサレムアイヒマン」は生まれたのでしょう。私は、その姿勢を見るにつけ、私たちが番組に取り組む態度もかくあらねばならないと決意を新たにします。

「世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです」

映画の中で、学生たちを前にして、毅然とした反論を行うアーレントの言葉。もちろん脚本家の手は入っているのでしょうが、「全体主義の起原」や「エルサレムアイヒマン」でアーレントが伝えたかったメッセージの一つが凝縮しているように思われます。私たちは、「悪」をみつめるとき、「それは自分には一切関係のないことだ」「悪をなしている人間はそもそもが極悪非道な人間だ。糾弾してやろう」と思い込み、一方的につるし上げることで、実は、安心しようとしているのではないでしょうか?

アーレントがつきつけたのは「誰もがアイヒマンになりうる」という恐ろしい事実です。その事実は、私たちを不安につきおとします。だからこそ、「エルサレムアイヒマン」は、発表直後から多くの人に「ナチスを擁護している」「ユダヤ人のことを何もわかっていない」と糾弾されたのでしょう。

今回の番組を通して一番感じたことは、「全体主義」といっても、それは、外側にある脅威ではないということです。どこにでもいる平凡な大衆たちが全体主義を支えました。私たちは、複雑極まりない世界にレッテル貼りをして、敵と味方に明確に分割し、自分自身を高揚させるようなわかりやすい「世界観」に、たやすくとりこまれてしまいがちです。そして、アイヒマンのように、何の罪の意識をもつこともなく恐るべき犯罪に手をそめていく可能性を、誰もがもっています。「全体主義の芽」は、私たち一人ひとりの内側に潜んでいるのです。

どんな批判にさらされても、アーレントは、その知的な誠実さを貫きとおしました。彼女は、古くからの友人のほとんどを「エルサレムアイヒマン」出版を期に失いました。夫に「こうなるとわかっていても書いたのか?」と問われ、「ええ、記事は書いたわ。でも友達は選ぶべきだった」と答えたといいます。「考え続ける」という武器を決して手放すことがなかったアーレントの生き方、姿勢こそ、私たちが一番学ばなければならないことかもしれません。