NAKAMOTO PERSONAL

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ゲバラは本当に英雄だったのか?

チェ・ゲバラは英雄じゃなかった? 終焉の地ボリビアで見た真実 騒いでいるのは外国人だけだった」(現代ビジネス)
 → http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52696

テンペスト』『シャングリ・ラ』『風車祭(カジマヤー)』の作家・池上永一が20年の歳月をかけて完成させた新作『ヒストリア』が話題になっている。本作は第二次世界大戦中、沖縄戦で家族すべてを失い、沖縄からボリビアに渡った女性の波乱の一代記だ。
刊行を記念して、ボリビア取材記を特別に寄稿していただいた。ゲバラの足跡を追いかけていった池上氏が、現地で思い知った「英雄」の意外な真実とは?


南米ボリビアゲバラの足跡を追う
私がボリビアを訪れたのは2015年の5月のことで、南半球ではスールと呼ばれる季節風が吹き始める秋の終わりだった。

今回の作品『ヒストリア』は時代背景が冷戦期のボリビアである。そこで当時ボリビアにいた歴史的人物を探っているうちに、チェ・ゲバラの存在にぶちあたった。

一般にチェ・ゲバラは時代のカリスマとして日本人に受け止められている。それは彼の見目麗しい姿と、ゲリラに似つかわしくない医師という経歴、そしてキューバ革命を成功させたカストロの腹心というイメージからだ。そしてもうひとつ、志半ばにして夭折した悲劇性というのも忘れてはならない。チェ・ゲバラ坂本龍馬を彷彿させるスター性がある。

まずボリビアという国を簡単に説明しておこう。

ボリビア南米大陸のほぼ中央にある内陸国で、5ヵ国と国境を接する。隣国ブラジルがあまりにも巨大なのでボリビアは小さいと錯覚してしまうが、実は日本の3倍の面積がある。アンデス山脈をイメージする人がいるかもしれないが、それは半分だけ正しい。ボリビアは日本列島とほぼ同じ面積の低地もあるからだ。

ボリビアアンデス山脈の6000メートル級の高山と、標高400メートル程度の広大な低地のふたつの顔を持つ。そのうちボリビアの歴史の主体となるのは、ラパスやスクレなど政治的な都市を持つ、高山側にある。

チェ・ゲバラの足跡を追うには、低地のサンタクルス市からアクセスする。サンタクルス市はボリビア第二の都市とされているが、事実上ボリビア最大の商業都市で、ボリビア経済のほとんどがサンタクルス市の活力に依るものである。

ボリビアアンデスのイメージを持っていた私は、サンタクルス市で認識を覆された。見渡す限りの地平線の国。車のアクセルベタ踏みで一直線の道を飛ばしても、何時間も景色が変わらない。むしろ太陽の動きの方が速く感じてしまう。

そのサンタクルス市からチェ・ゲバラの遺体が運ばれたバジェ・グランデへと向かう。さきほどの広大な平原とは真逆に西側へとハンドルを切れば、幅750キロメートルに亘るアンデス山脈の麓へと至る。麓はアンボロ国立公園と呼ばれている熱帯雨林だ。

バジェ・グランデへと至る道のりを簡単に説明すると、アスファルトとガードレールのない日光のいろは坂だと想像してほしい。山肌のいたるところに土砂崩れの跡があり、後続車も対向車もない道をひたすらくねくねと走っていく。

標高1000メートルを越えたあたりから、視界10メートルほどの濃霧に覆われる。雲のなかに突入したのだ。だが不思議と恐怖感はない。うっかり道を外れて滑落してもおかしくない状況なのだが、途方もない光景に私がすっかり畏怖してしまっているからだ。まるで冥界へと続くような曖昧模糊とした視界は、三途の川を渡っている気分である。


驚きと落胆の連続

さて、バジェ・グランデへもっとも近い道のりを選んだつもりでも、半日がかりである。標高2000メートルを超える町は、カーディガン一枚では肌寒かった。

ラテン・アメリカの町は規模の大小に拘わらず、都市設計は共通している。まず中心地に広場を作る。次に広場を囲うように教会と役所を配置する。広場から離れるほど貧しい地区になり、意外な発見や洒落た店など皆無になる。これは南米のすべての町で普遍的に通用するので、覚えておくと町歩きのときに役立つだろう。

当時のバジェ・グランデの町は、ある男の写真で埋め尽くされていた。てっきり大統領かと思ったが違う。高齢の白人男性の名はフリオ・テラサス・サンドバル。ボリビア初の枢機卿である。バジェ・グランデ市民は地元から輩出した枢機卿を熱烈に敬愛していた。

赤化革命の戦士の足跡を追いかけて辿り着いた町が、カトリック教徒の拠点であったことに少々面食らってしまった。私はもっと過激な思想家や反政府活動家がいると思っていたのに。しかし私は徐々に彼らの信仰ぶりに圧倒されていくことになる。

夜、ぶらりと町を散歩していた時のことだ。人の流れが一方向に連なっている光景を見つけた。広場のある中心部からやや外れの路地だ。不思議に思って跡を尾けていくと、屋根越しに十字架のついた鐘楼が見えた。彼らは夜のミサに向かう行列だったのだ。

教会内は沈黙の圧力が熱に変わっているように感じられた。私が探していたチェ・ゲバラの痕跡とは完全に断絶した人々である。少なくともこの町には反政府ゲリラや政治活動家が息づく隙間がない。

それでも私はチェ・ゲバラの痕跡を探すことにした。しかし、これが落胆の連続になるのである。

チェ・ゲバラの遺体はバジェ・グランデの病院に運ばれた。それは現在使用されていない病院裏の遺体置場にある。敢えて安置所とは書かない。なぜならばコンクリート製の流し台は、世界各国から来たゲバラファンが書きなぐった落書きで覆われていたからだ。

スペイン語がよくわからない私でも、それらが質のよくない文言であることはわかった。簡単に言うなら暴走族の『夜露死苦』という落書きに近い。まさか時代の英雄がこんな粗末な扱いを受けているとは想像もしていなかった。

次に広場に面した博物館にチェ・ゲバラの遺品が展示されていると聞き、訪れることにした。確かにチェ・ゲバラの遺品や写真が展示されている。しかしそれらは日本のゲバラ関連の書籍でも見ることができる写真の数々で、ここにしかない決定的な遺物はなかった。

それよりもびっくりしたのが、チェ・ゲバラの遺品集から数メートル歩いただけで、旧石器時代の鏃や頭蓋骨の陳列に様変わりすることだ。まるで落丁した本のように前後の脈絡がわからなくなって軽い目眩を覚えた。

それでもここまで来たからには、英雄の英雄たる所以を見つけたいと思うのが人情であろう。なにせ飛行機でトランジット3回、合計30時間もかけてボリビアに来たのだ。成果なくして帰るなんてありえないことだ。


ゲバラは本当に英雄だったのか?

そこでチェ・ゲバラが処刑されたイゲラ村に行くことにした。その村はさらに険しい山道を車で移動すること3時間の場所にある。

事前に日本で集めた参考資料のなかにソダーバーグ監督の『チェ』があり、私はこれを観ていた。確かラストシーンは砂っぽい一本道に家屋が並んでいる村だ。それがイゲラ村ということなのだろう。

イゲラ村はアンデスの尾根沿いにある極めて小さな村だ。それは日本の自治体の基準でいうと「廃村」と断言してよいレベルの村である。山頂には覚えているだけで数棟の家屋があり、そのうちの大きな建物の二つは学校とゲバラ資料館だ。校庭には洗濯物が干されていて、出会った人は老婆とその孫と犬だけである。彼らは校庭脇の階段にぼうっと座っているだけだった。

そして何より衝撃的だったのが、なけなしの駐車場前に設えられたゲバラの胸像である。高校の文化祭レベルの微妙にパースの狂った胸像は、見る者を不安にさせる。彩色はポスターカラー、材質はたぶん石膏だ。2、3日の催し物で撤収される品質のものでしかない。聖地巡礼のつもりで来た私は、いきなり背後から膝かっくんされたように崩れ落ちた。

資料館は所謂、田舎の小学校の教室である。そこに児童が座る小さな木製の椅子があり、このおもちゃのような椅子に座らされてゲバラは簡易裁判にかけられた後、処刑されたという。厳かさもドラマ性も皆無な最期だと冷淡に告げられていた。

ソダーバーグも当然このイゲラ村をロケハンしたはずだ。そしてあまりにお粗末な最期に頭を抱えたことだろう。イゲラ村は極端に狭いために映画的な画角が取れないのだ。たとえるなら富士山の山頂でラストシーンを撮るようなものだ。

果たして日本で愛されているチェ・ゲバラは一体何者なのだろう? 彼は本当に英雄だったのか? 本当にボリビア人を解放するために闘ったのか? それが民衆の願いだったのか? 納得できる言葉はひとつしかない。

即ち、ボリビア人はチェ・ゲバラなんてどうでもいいと思っている。

そう考えるといろんなことが腑に落ちた。

博物館のなかにいたゲバラは鏃や頭蓋骨と共に陳列されていた。ボリビアにとって彼は通りすがりの異邦人であり、現代ボリビア人と断絶した歴史の遺物にすぎない。世界的な著名人チェ・ゲバラが英雄でなければ、一体誰がボリビアの英雄だというのだ?

ところでボリビアは2005年から社会主義の国になった。しかし私たちの想像する社会主義とはかなり違う。どちらかというと民族主義のことであり、反米主義のことである。反米とは反グローバリズムと言い換えることができる。

では現大統領エボ・モラレスは英雄かというと、違う。彼はベネズエラチャベス元大統領の模倣者で、低地のサンタクルス市では人気がない。彼は高山側の貧困対策のために、サンタクルス市の富を奪っている、と認識されている。

実はボリビア人にとって真の英雄とは、フリオ・テラサス・サンドバル枢機卿である。当時、2ヵ月後にローマ法王が来訪するのをオリンピック級のイベントとして心待ちにしていた。信仰熱心な我らのなかから神が枢機卿を選び出し、ローマ法王の御眼鏡に適ったことが誇らしいのだ。

イゲラ村の資料館で芳名帳を見つけた私はサインしがてら、誰がここを訪れたのか興味を持った。芳名帳を全ページ丁寧に漁ると、興味深いことがわかった。

書かれた住所は、ゲバラの故郷アルゼンチンがもっとも多く、続いて近隣の南米諸国が並ぶ。映画の影響からかアメリカ人の名も多く連ねられていた。意外にも多かったのが日本人で、私もそのなかのひとりである。地球の裏側からの立地を鑑みると芳名帳の上位10ヵ国に入っているのは、意外かもしれない。そして不思議なことにボリビア人の名前はほとんど見つからなかった。

──ゲバラで騒いでいるのは外国人だけ。

アンデスの冷たい季節風が、空耳のように呟きながら私の側を通り過ぎていった。

ヒストリア

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